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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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日本語は滅ぼすべき。(なるべく計画的に)
 石清水八幡宮の本殿が山の上にあって、仁和寺の法師が見てきたのは摂末社に過ぎない、というのは教科書にも載ってますし、最後の一文がオチだ、っていうのは同意される方も多いと思うんですが。

 しかし“徒然草”第五十二段の笑いどころはこれだけではありません。

 まずそもそも、

「この時代の石清水ってのは、言ってみれば観光地だ。みんな遊びに行くところだ。

 そこへ

『みんな行ってるのに自分はこの歳まで詣でたことがない』

 って“心憂く”覚えたりするのはすでに何か勘違いしてるわけだ。

 まじめというか世間知らずというかな」

「で、“徒歩にて詣でけり”な。

 普通はみんな船で行くんだよ。

 それで船の中で飲んで騒いでな。

 そうすりゃ石清水八幡宮がどんなところかも教えてもらえたろうに、こいつは一人でてくてく歩いて行ったんだな」

 まあ、仁和寺の法師のくそまじめっぷりが笑いどころなわけですが。*3

 ……「そんなの知ってたよ。常識だろ?」って人がどのくらいいますかね?

知ってますけど何か?


 もはや我々は、古典文学を「読む」ことはできても「感じる」ことはできなくなっているのだと思います。

 生きている時代背景が違うから。


No, No, No, No, No! そう言っちゃうと古典の価値の半分以上は滅びてしまうじゃん!
「感じる」ことができるべく努力するのが「古典を読む」ということとちゃうの?

当時の人たちがなにを考えていたか、何を感じていたか、心の中で仮想的に古典の世界にワープして、あたかもタイムマシンで出かけていって見てきたかのように感じられるような身体をつくることが「古典を読む」ということの究極的な最終目標になるんとちゃうのん?


*4:恩師の意見は、
「古典文学も日本語で書かれている我々に理解可能なテキストである。
 だから、係り結びの法則みたいに特殊な『現代語と違う部分』ばかり強調して扱うのは古典嫌いを増やすばかりだ。
 語彙など必要な事項だけ補足するにとどめ、そのおもしろさを味わわせるべきだ」
 といったことでした。

もちろんワープするにしたっていきなりはできない。なにかとっかかりが必要だ。そのとっかかりの一つとなるのが、「いまのぼくたちの生活」と「彼らの生活」の違いを認識することなんだよね。「差」を認識することで相手の実態をつかむ、という。これはたしかに一つの方法だ。
もちろんこれだけじゃなくって、「いきなり相手の実態をつかむ」ような感性を磨く、といったことも、同時に訓練されないといけないとは思いますがね。


 高校時代に読んだテキストで、

「“白足袋”を“white socks”と訳すことは可能だが、“白足袋を履く”という文の持つ緊張感、清潔感といったニュアンスを伝えることは不可能だ」

 といった話があったんですが、そもそも今の日本人だって足袋なんかろくに履かないわけで、たとえ原文で読んでいたって、本来のニュアンスは時代と共に失われざるを得ない。(「パンパン音のするような袴」って結局なんなんでしょう……。→「70年代の児童文学について。」) 


No, No, No, No,No. ろくに履かなくても一回くらい履いたことあるでしょう? その1回が大切なんです(なければその1回を想像することが大切)。その1回を通して、本来のニュアンスというものをつかむべくジタバタしていることそのものが、非常に、それをする人自身にとって、偉大なる教育的効用を及ぼすということだと思うんですよ。
「時代とともに失われざるを得ないからつかみにいくことには意味がない」って言っちゃうのは非常にもったいない気がしますね。言うなればほら、あれと同じ、「いまの憲法はいまという時代に合わないから変えたほうがいい」っていう論調と似ている。


人間が実感できるのは、結局のところ自分自身が生きているその文化だけであり、それ以外のものは、中世の日本文化であれ現代のアメリカ文化であれ(よほど勉強しない限り)「他人事」に過ぎないからです。(もちろん近い遠いの差はあるでしょうけど)

だから「よほど勉強する」ことが求められるんでしょ?


それは川の流れを手でせき止めようとするようなものです。

--- 略 ---

いたずらに変化に抗って時間と労力を空費するよりも、より良い形で英語体制に移行できるよう努力した方がよいのではないかな、と思います。

うーん、「川の流れがどっち方向に流れているのかを俺は知っている」というやや高慢な主張そのものを廃絶することのほうが先決だと思うんですけどね。「最終的に英語体制になる」というような未来が確定することを信じている人といない人がいるんだよね。「最終的に英語体制にはならない」という未来をえがいている人たちの考え方や感性と言ったものをハナから否定してかかることは、私にはちょっと致しかねますね。

というか、なんだろう、「より良い形で英語体制に移行できるように」というのは、なにも頑張る必要はないと思うんですよね。


 「世界共通語」としての英語は、もはやアメリカのものでもイギリスのものでもありません。

 世界で話される英語はすでに変容しつつあり、いずれ誕生するであろう「共通英語」は、おそらくイギリス英語ともアメリカ英語とも大きく異なるものになるでしょう。


それは分かるんだけれども。


(件の記事によれば、

「ネイティブ・スピーカーと、外国語として英語を使う非ネイティブ・スピーカーの比率は今や1対3。(略)これからさらに何百万という人たちが新たに英語を勉強し始めるに連れて、この比率の開きはどんどん大きくなる」

 のです)


うん、それはその通りだと思うよ。


 ネイティブなら往々にして、これまで挙げてきた例はどれも「バリエーション」ではなくて「間違い」だと言うだろう。「knowledges」も「phone tosomebody」も、紛れもなく間違いだと。世界各地で英語を教えている非ネイティブの英語教師たちも、そう言うだろう。しかし言葉とは変化するもの。文法的に何が正しいか正しくないかも、時代によって変化するものなのだ。

 言語の変容というのは不可避的なものであって、少数の「知識人」が何か主張したところでどうにかできるものではない、のです。

 川の流れを手でせき止めようとするようなもの。


うん、そう、だから、やらないといけないことは、「いまやってることをやめる」ということなんじゃないかな。肩の力を抜くというか。


英語には「よろしくお願いします」も「おつかれさまでした」もない……と言われると、また日本語保護主義者が

「日本の精神的美風を守るべきだ!」

 とか主張しそうな気もしますが、アメリカ英語に「よろしくお願いします」相当の表現がないからといって、世界共通英語もそうでなければならないとは限りません。


守るべきだと叫ぶ前に、守りはじめていればいいんだよね。「自分から率先してそれをおこなう」的な。「よろしくお願いします」に関して言えば、「それを言う文化・言語もあればそれを言わない文化・言語もある」ということを知っていればそれでいいじゃない。「みんな違ってみんないい」ということを叫ぶことができればそれでいいじゃない。それ以上なにか頑張る必要がありますか?


 元々英語には「なつかしい」に相当する表現はないんだそうですが、我々は「ノスタルジー」に、それに相当する意味を与えて使っています。

 「ドライな関係」とかいう表現も、本来の英語にはありません。

 

 ならば、今の英語では表現できない日本伝統の感情・言い回しも、積極的に英語化すればよいわけです。


ごもっともなご主張だと思いますよ。


かつて明治時代の人々は、日本にはない西洋の物品・概念を表す言葉を無理矢理日本語に翻訳しましたが*7、今度はその逆をやるわけです。

うん、いいんじゃないですか。というか、やる人はそういうのをどんどんやってくでしょう。新しい表現をつくるのはなにもネイティブだけにゆるされた特権ではありませんからね。「お、それいいな。もーらいっと。」と思う人たちがたくさん出てきさえすれば、それはやがてデファクトスタンダードになる確率が高いのですから。


ともあれ、今からがんばれば、文法はともかく語彙とかにはかなり日本語の影響を残せるはずと思います。

 この情勢下で、ぎりぎりまで日本語にこだわって、あげくに(日本語の要素を全然持たない)「共通英語」に蹂躙されるくらいなら、早めに英語にシフトして、日本文化の影響をその中に残した方が良いのではないでしょうか。


だからなんで頑張る必要があるんですか? ほっときゃいいじゃないですか。
日本語にこだわると同時に英語にもこだわる。なんでこだわるのをどっちかに限定しないといけないんですか?

「どちらにもこだわれるのは一部の優秀な人たちだけだ。」なんて言うごまかしは私には効きませんよ。
これは知的レベル云々の問題じゃないんです。どのようなレベルにいる人にも、日本語を勉強する権利があると同時に、英語も勉強する権利があるんです。「日本語だけでさえ大変なのに、英語もやるなんて…」とか、「どっちもやるのはたいへんだから、これからは英語の時代だから、英語だけをやろう」とか、そういう考え方をされる方々におかれては、根本的な瑕疵があることをここで指摘しておかずにはおれません。そういうふうに言う方々は子どもの力をあなどりすぎです。

またいずれ時間が許せば書こうとは思いますが、「日本語と英語という全然違うものがここに2つあり、この2つは互いに喧嘩しており、この2つは言語間戦争というゲームのプレイヤーであり、どちらかが勝ってどちらかが負けるというのがこの言語間戦争における美しい決着の付け方である」という信仰そのものを解き放つ必要があると思うんですよね。「英語も日本語も同じ仲間だ、違いは微々たるものなんだ」という視点に立つことができれば、私たちはもっと、より精神衛生上ラクな言語生活をエンジョイできちゃうと思うんですよね。


我が国の政治はなおも混乱が続く気配ですが、政府には大局的な視野に立った言語戦略を迅速に練っていただきたい、と思うことしきりです。

いまのままでいいと思う。
ま、学校でやる英語の授業に関しては、「授業中、正しい和訳を先生が言うだけの授業」はいい加減もう卒業して(←和訳だけを暗記して英語力全然身に付かない、というのを助長するから)、「英語の本を配って読んでこさせて、授業中は、それぞれが、その読んできた本について、みんなに解説をする」くらいのことはしてもいい気はしますけどね。触れる英文の量が英語力に相関するという仮説が正しいとするのならば。あ、もちろん、基礎的な文法をたたき込まれてあるという前提ですが(だから中学生~高1くらいまではこれをするのは難しいかもしれない)。この前提が確保できないから、なかなか、そういう方向に舵を切れないというところもあると思う。
「英語の本配って読んでこさせる」の一つとっても、読めない子は、読めないときどういうふうに読めばいいのかが分からないから、そのとき取るべき対応についての感覚が錬磨されてないから、躊躇しちゃったり諦めちゃったりして、そのまま学校に行って「どーして読んでこないの!」と紋切り型のおしかりを先生から受けて、先生も困った顔して、子どもも困った顔をしていっこうに進展がみられないという悲しい状況を成立させていたりするんだよね。
だからこれを回避するには、一人で英文を読むのに必要な力を生徒一人一人が身につけるのをその都度介助する「世話焼き」な周囲の人たち、一歩先を歩いてくれている人たちの助けが必要なわけで。この助けがほしいって言ってる人と、この助けをしたいって言ってる人たちが出会えていないことが問題というか。
助けてもらうには理由が必要だと思っている。助けるには理由が必要だと思っている。ちがうっちゅーに。助けてもらわないには理由が必要なんだ。助けないには理由が必要なんだ。
ここんところの常識がどうやったら私たちの身体に復権するかということが、つぎのテーマになってくる気はいたしますね。



「日本語が亡びるとき」関連の記事: なぜ日本でテクニカル・ライティングの授業が行われないのか

コメント
この記事へのコメント
ここの部分↓大賛成です。

「日本語と英語という全然違うものがここに2つあり、この2つは互いに喧嘩しており、この2つは言語間戦争というゲームのプレイヤーであり、どちらかが勝ってどちらかが負けるというのがこの言語間戦争における美しい決着の付け方である」という信仰そのものを解き放つ必要があると思うんですよね。「英語も日本語も同じ仲間だ、違いは微々たるものなんだ」という視点に立つことができれば、私たちはもっと、より精神衛生上ラクな言語生活をエンジョイできちゃうと思うんですよね。

====================
全く同感ですよ。
世の中にはあまりにも固定的な硬直した議論が結構多いですけどね。
2009/02/16(月) 01:32 | URL | 権兵衛 #-[ 編集]
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