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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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人はなぜ振り込め詐欺にだまされるのか - M17星雲の光と影
営業にはアプローチ、商品説明、クロージングという三つの段階がある。「こんにちは、○○さーん」から始まって、玄関先に客と一緒に腰を下ろすまでがアプローチ、そこから商品説明が始まり、それが一通り終わって、契約書が取り出されるところから大詰めのクロージングというわけである。

トップセールスはアプローチを重視する。もちろん技術的な面で、簡単にアプローチアウトをくらわないように、ありとあらゆるテクニックが駆使されるのはもちろんだが、下手にアプローチがうますぎると、最初からぜんぜん買う気のない客に延々と商品説明をして、契約書を取り出したとたんに「わたし、いらないわ」の一言で徒労に終わることになってしまう。これでは商売にならないので、トップセールスはアプローチ段階で相手の心理を鋭く見抜く洞察力に例外なく秀でているものなのである。

先の振り込め詐欺の事例で私が感心したのは、犯人が巧妙なアプローチを考案していたからである。最初に「電話番号が変わったからメモしといて」といって、「あんた、いったい誰や」といわれたら、これはだまし通すのがむずかしいという判断がつくだろう。そこで切ってしまえば、詐欺どころか、単なる間違い電話で済む。「ああ、これは失礼しました。まちがえました」で終わりである。

この作業を繰り返して、こちらが名乗るまでもなく、向こうのほうで勝手に自分の知り合いと思いこむ人間に出会うのを待つ。そういう人間に出会ったら、あえてそれ以上話し続けることなく、いったんは電話を切る。そして、翌日かけ直す。ここまでの下準備をした後で、やおら「実は」といって銀行振り込みをもちかけるというわけである。

ふむ。確かに。うまく考えられている(感心)。


私はこのキャンペーンが、実は振り込め詐欺の隆盛に一役買っているのではないかとにらんでいる。

「私はこんな詐欺にはぜったいに引っかからない」という意識が世の中の人々に浸透すればするほど、実は自分の置かれた状況を「これは詐欺ではない」と信じる力が強まるということがある。現に詐欺にだまされつつある状況下で「自分はだまされない人間である」と堅く信じる人間は、その前提から「今、自分が直面している事態は詐欺ではない」という確信に導かれやすい。「私はだまされない」⇒「今も私はだまされていない」⇒「だから、これはけっして詐欺ではない」というループの中にすっぽりと入ってしまい、結果的にまんまとだまされてしまうのである。だから、マスコミは「これだけ教えてやってるのに、まだだまされるアホがいる」というトーンで番組を作るのではなく、そう思っている人間に限って、それを逆手にとられてこんなふうにだまされるという角度から番組を作るべきなのである。「なんで、この人たち、だまされるんやろ、アホやなあ」という感想を視聴者に与えるのではなく、「あら、これやったら、私かてひょっとしたらだまされとるわ」と感じさせる番組を作らないと、犯罪防止には役立たないのである。

まったく同意する。



もうひとつ。振り込め詐欺に引っかかる人間が後を絶たない理由は、だまされる側の「私は人を助けている」という意識にあるように思う。

現代に生きる高齢者に「人に頼りにされる」機会がどれほどあるだろう。都会の老人などはとくにそういう機会が少ないと思われる。誰にも頼りにされず、一人きりで寂しい日々を送っている高齢者は「はたして自分が生きることにどんな価値があるのか」、「私ははたして人様のお役に立っているのだろうか」、そういう思いを抱きつつ生きているのではないか。地域の共同体から切れ、親族と疎遠になり、孤独な日々を送る高齢者にとって、自分を正当に価値づけるための唯一の手がかりは、ひょっとすると自分の預金通帳の残高なのかもしれない。

そういう人のもとに、ある日「助けてくれ」というSOSの電話が入る。「あなたが頼りなんだ。いますぐにお金を振り込まないとたいへんなことになる。頼むから助けてください」

そういう電話を受けて、彼らはどう思うだろう。実にひさびさに自分が頼りにされている。私を救えるのはあなただけだとこの人は言っている。しかも、助ける手段は自分を正当に価値づけているところの銀行預金だ。今となってはこれだけが自分をアイデンティファイしてくれる貴重な「財産」だ。それを必要とする人に送金手続きをすることによって、もう誰にも頼りにされなくなったこの自分にも再び復権のチャンスがめぐってくる。自分を頼りにし、救いを求める人々を助けることによって、自分が正当に評価される時がやってきたのだ。彼らがそう思ったとしても不思議ではない。

そう信じ込んだ老人にとって(別にこれは老人に限ったことではないが)、「ちょっと待ってください。それはひょっとすると振り込め詐欺ではないですか」と言って振り込みを制止しようとする偉そうな銀行員や警察官はどう見えるだろう。おそらくは彼らの正当な自尊心の発現を邪魔する「敵」に見えるのではないだろうか。だって、彼らは自分に向かって「おまえはマスコミでこれだけ騒がれている振り込め詐欺に、まんまとだまされつつあるおろかで無価値な老人なんだぞ」と面と向かって言われていることになるわけだから

彼らが「だいじょうぶです。ほっておいてください。これは詐欺なんかじゃありません」といって、銀行員や警察官の手を振り払おうとする気持ちが私にはわかるような気がする。自分の価値を認め、助けを求める人間のために働こうとする自分の行動を邪魔し、自分を愚か者として否定する背広や制服に身を固めた人間に、誰が唯々諾々と従うだろうか。

こう考えると、振り込め詐欺の根は意外に深いところにあることがわかる。

被害者はただ単に巧言にひっかかった受身の存在というよりも、むしろ人を助けようという積極的な意思の持ち主なのである。彼らはだまされたというよりも、むしろ積極的、能動的に自分をだます詐欺行為に参加していると見ることもできる。

「自分は無力な人間ではない」、「自分は社会に参加し、人を支え、助ける力をもっているんだ」――そういう気持ちを高齢者たちが確かにもつことが、そして、それを可能にするような社会の仕組みを作ることのほうが、今行われている振り込め詐欺キャンペーンよりもはるかに有効な防止策ではないかと、私はひそかに考えるのである。

なるほどね。もし、振り込め詐欺に騙され掛かっている老人を止めたければ、その老人の承認欲求を否定しない形で止めないと逆効果だということだね。これは、ありますね。

私も、振り込め詐欺じゃないですけれども、その昔、悪徳業者にまんまとノせされて、電話台のうえに貼ってある名簿の電話番号を一つ一つ読み上げてしまうという愚を犯しかけたことがあるんですけれども、そのときに、家族に止められたんですね。「なんにしてるんや!」って。で、受話器を取り上げられたところで電話は切れたと。先方が電話を切ったということが、悪徳業者であることの何よりの証であると。このことを自覚した瞬間ってのはね、ほんとに、すごい無力感に襲われますよ。それと同時にね、そういうことをしでかしてしまった自分を消去したいと思います。その思いゆえ、私は、私を止めに入った家族のその一人と、その直後においてほとんど会話することができない心理的状態に置かれていました。
私が立ち直るためには、その自分を消去したいという思いを消去するための時間が必要だったのです。そして、そのための時間というのは、一人でなければなりません。人様に顔を合わせるのがつらいと思う時間だからです。

私が体験したのは、まだ、家の中だったから良かったかもしれません。もしこれが、平日の昼間の銀行という、世間様の目がギラギラ光っているような場所において、「なにしてるんや!」って忠告されたら、どうですか? 日本という、恥の文化のなかに住まう一人として、どうですか? それを指摘されて、その指摘をちゃんと認めて、自分のその行為を反省し、今後は気を付けようと思う。この一連のプロセスを、世間様の目がギラギラと光っているところで、あなたはすることができますか?

ともすれば、こういうこともあるかもしれません。つまり、警察官または銀行員の忠告によって、これが振り込め詐欺であることに、心の奥底では感づいたにも関わらず、世間様の前で恥をかきたくないという心のほうが強かったがために、気づいているにもかかわらず、気づいていない振りを装って、振り込め詐欺に引っかかってしまうと。こういうことは、あるんじゃないかと思いますね。

仮にその振り込んだ金額が300万円だったとしたら、その金額300万円を払うことで世間様からの白い目を逃れることができるんなら安いもんだというふうに考える人たちがいるということですね。

気づいているにもかかわらず気づいていないふりをしなければいけない理由があるがために、被詐欺者は、その警察官の忠告に従うことができない、なぜならその警察官の忠告を認めることは、自分がバカだと認めることだから。自分はこれまで、「最近振り込め詐欺がはやってます」ってニュースを見るたびに、「こいつらほんまにアホやなあ。そこなしのアホやなあ」って思ってきていた。いまこの警察官の忠告をのむ事は、その、かつて自分が非難した人たちのなかに自分を数えることになってしまう。この、自分が採用している物語のコペルニクス的転回に応じるための時間というのは、1分や2分ではないわけですよ。大切な人が急に死んだとき、立ち直るのに必要な時間は1分や2分じゃないでしょ? 1週間か2週間か、ともすれば数ヶ月かかる人もあるかもしれない。もっとかかる人もあるかもしれない。
人は、その、自分が採用している物語を切り替えなければいけないことに気づいたとき、そしてまた、その切り替えには長い長い時間が必要であることをもまた知っているとき、自分がいまからやること(=振り込め詐欺にまんまと騙されること)はとても愚かなことであるということを知っているにもかかわらず、それを実行せざるを得ないものを持ってしまうんだ。そういう動物なんだ。



はい、というのが一つの見方。人間の側からの見方。切実なるものを抱え込む人間なるものの側からの見方。



次に、もうちょっと冷静な、俯瞰的な視点から、つまり「制度」的、「制度と制度の関連」的な視点からこのことを眺めてみると、そのとき問題として浮上するのはなにか? それは、老人が隔離されてしまってる、ということですね。
なんで老人は隔離されてしまってるんだろう?昔は老人は隔離されてなかったのか?というような問いがただちに想起するわけですが、これは、情報処理ができるということの価値のほうばっかりに目がいってしまって、conflictresolusionの価値をないがしろにしてきてしまった、ここ数十年の私たちの営みの在り方の中にその原因を見いだすことができるでしょう。


SoulHack #9 conflictresolutionを仕事の一部として意識的に取り組もう (3)
オフィスワークを,情報処理とconflict resolutionに分けて考えた場合,これまでは仕事の価値の中心にあるのは情報処理でした。そこに解決すべき課題がたくさんあったからです。情報処理の効率性が重要な差別化の要因だったわけです。

しかし,今,グローバル化とインターネットによって,情報処理の為のノウハウが広まりツールが整備されています。全体的に情報処理は効率化されており,差別化できる部分が少なくなっていると思います。

この状況に対応するひとつの考え方は,情報処理の障害となるような葛藤を全て排除していくという方法です。たとえば,ミーティングの場で意図的に不正確な発言をする人は担当からはずしていく,問題点をすべて報告することを奨励する代わりに,報告の無い所には問題は無いものとする,というような考え方です。

そういう方法で葛藤を排除した組織ができたら,情報処理は無駄な寄り道無く効率的に行えるかもしれません。しかし,それが世界市場の中で競争力を持つ可能性は少ないでしょう。今や情報処理は誰にでも共有されているコモディティであり,コモディティの中に独自の特色は持つことは難しいからです。

こんにちの私たちの社会が、いわゆるその、情報処理の障害となるような葛藤を全て排除していく、という方向に舵を切り続けて何十年もやってきた結果がこれなわけですね。
で、まあこれは、すでに書かれてあるように、かつてはね、そこに解決すべき課題がたくさんあり、情報処理を効率化することが自分の仕事の差別化につながるという事情があったと。だからこういうことが起こるのは、まあ、歴史の必然だと言うことができるわけですね。
情報処理の効率化に行き詰まるというところまでいかないと、conflictresolutionが大事なんだ、これに価値があるんだということに気づきにくいというか。情報処理が十分に効率化されていない状況下では、「葛藤の排除」という戦略が十分に合理的なものとして機能することができたし、また、conflictresolutionを目指す場合よりもそっちのほうがコストが低かったと。そういう事情が、あるんではないかと思うんですね。

いいことが書いてあるのでそのまま引用を続けるね。

そうではなくて,部門間の対立があって駆け引きがあることをそのまま認める。認めた上で,葛藤を解決するということを,価値の源泉として積極的に取り組むことが必要なのです。

内部に複数の文化を抱えこんでいる企業は,環境の変化により柔軟に対応できます

--- 略 ---

トップダウンで意思決定の手順が明確な企業の方が,情報処理という観点からはやりやすいと感じますが,真に競争力があるのは,こういうダイナミックな調整機能を持っている会社であるような気がします。

--- 略 ---

ミンデルの心理学は「プロセスワーク」と呼ばれます。

--- 略 ---

一般の人が心理学に期待するものは,自分(自我)にコントロールできない無意識というやっかないなものを,うまく押しこめてほしい,きれいに切り離してほしいという方向になりがちです。従来の用語には,無意識=悪という価値判断が含まれているとミンデルは考えたようです。

そこで,ミンデルは一般的な心理学用語で言う「自我」を「一次プロセス」,「無意識」を「二次プロセス」という新しい中立的な用語で呼び,これを集団の意識にまで拡大して適用してしまいます。

暴力的な激しい主張,身体の動きと発言内容の乖離,公式の会議の場での不誠実な発言等は,みな「二次プロセス」が意識されないまま表現されようとして,壁にぶつかっている状態だと見るわけです。プロセスワークは,この「二次プロセス」が壁(プロセスワークの用語としては「エッジ」)を乗り越え,意識化されることをサポートします。

「エッジ」のむこう側では破壊的に見えるエネルギーも,「エッジ」を乗り越え意識された時には,創造的なエネルギーに変容します。このプロセスは,個人の中でも,1対1の対人関係の中でも,集団の中でも同じように起こる,と見るのがプロセスワークの立場です。

これまでのビジネスや組織の管理は,「一次プロセス」のみを対象にしてきました。そして,経済のグローバル化やインターネットの浸透によって,「一次プロセス」の範囲内では極限まで効率化されようとしていると私は思います。

その分だけ,「二次プロセス」や「エッジ」のような概念が重要になっていく,そう私は予想します。今まで,気にもとめなかったことをどれだけ意識化できるか,それが重要なキーファクターになってくると思います。

集団内の葛藤という現象は目新しいものではなく,昔から存在していたものです。いったん,その存在に気がつけば,それを情報処理のレールに乗せて,従来の方法論の延長で処理していくことは可能かもしれません。あるいは,もともと,多くの組織にはそれを処理する非公式のルートがあるのかもしれません。

しかし,プロセスワークは,決まりきった手順で葛藤を処理していくだけのものではありません。むしろ,そのキモは,新しい葛藤にいかに気がつくか,という所にあります。

今は,これまでにはなかった新しい形の葛藤があちこちに生まれ,あちこちで衝突を起こしている時代です。プロセスワークは,葛藤を解決する為の方法論というより,葛藤に気づく為の方法論という側面を強く持っています。そこが重要だと思います。

で、話を元に戻しますと、そう、老人の隔離。「相互扶助感覚が人間の仕事におけるオーバーアチーブを促進し、社会的公益を暴発させる」ということの認識の欠如が、たぶんいままであったんだよね。
だから、オーバーアチーブする奴をしばいて、アンダーアチーブする奴もしばいて、全員が同じ量だけ仕事をこなすように訓育することが、最も合理的で効率的な組織運営の仕方であると信じられていた時代があったわけだ(もちろん給料が同じって前提はあるけど)。もちろん100年200年前からずっとそうやったわけではないと思うよ。「情報処理の効率化を促進しうるだけの技術的土壌が整備されてきて、そこの効率化を推進することに優先的にリソースを割くことがいま最も重要なことである」というふうに人々が判断した数十年の間はたしかに、そういう、はみ出る奴をしばくという運営方式で、ある程度うまくいっちゃってしまった側面もまたあるわけでね。

で、振り込め詐欺の防止対策ということで言うとね、ご老人は、なぜ、振り込め詐欺に遭ってしまうのかというと、類型化してお話ししますけれども、長い間誰からも頼られることの無かったご老人が、ある日突然頼ってもらえるような状況になっちゃったからあまりのうれしさに騙されちゃうわけだ。だからこれを回避するためには、ご老人が毎日毎日頼られまくるような社会になればいいわけやな。

毎日毎日頼られまくっている人においては、その依頼してくる人間が、どういう意図で、或いはどの程度困っているがゆえに私なんぞを頼るのか、ということを察知するセンサーが磨かれていきます。
ほんまにこいつは困っているのかどうか、ということを、直観で正しく判断できるようになってくるんですね。なってくると思うんですよ。
そうすると、あまりの快感に卒倒するがゆえに冷静な判断力を失してしまうというところを突かれていた現状は、次第に打破されるに至るであろうと、このように思うわけですね。


問題は老人をどういう形で、老人以外の人たちがたくさん巣くっているところに引っ張り出すか、というところになんですね。
それを考える前に、まず老人はどこにいるかということを考えないといけない。一つは地方だ。地方は、どこの地方も毎年だいたい高齢化してる。若者の就職先がないから若者が出ていっちゃうんだな。でね、じゃあ「そこでネットですよ」と言いたいわけですが、彼らは基本的にネットリテラシーが皆無なので、これに期待することはほとんど絶望的に困難なんだ。

じゃあどうするか、ということなんですが、ここではとりあえず、2つの基準を、提示します。

ひとつは、(1)老人が使えるインフラとは何かということを考えないといけない。それからもう一つは、(2)もっと老人が効率的に集積している場所はどこかということを考える。老人が定期的に、こちらから能動的に働きかけなくても、自然と集まっているような場所はどこかということに照準を合わせていく必要がある。

はい。どこだと思いますか? なにだと思いますか?


(1)に関して言えばこれは電話だと思うんですね。この間、とある、小さな、病院、開業したはる病院ですね、に行ったんですが、そこでおもしろいものを見たんですね。なにかというと、ほら、病院って待たされるじゃないですか、そこでね、いま何人目か、ということを、電話で自動応答で教えてくれるシステムを導入してたんですね。ぼくこれ見たとき「はっはーん」と思いましたよ。これはすごいですね。患者は自宅にいながらにして予約できるから、「診察券を放り込んで帰ってきて、数時間後にまた病院に行く」という二度手間が省ける、それから、待合室で感染するリスクが低減される。ということですね。でね、次の瞬間こう思ったんです。

なんでネットじゃないのか?

郵便物or宅配物の配達の追跡検索、なんかはいまみんなネットでできるじゃないですか。ね。なんであれと同じことをしてないの? 理由は簡単なんですね。病院に来る層の、リテラシーがどこに照準されているかということを踏まえたうえでの合理的な対応なんです。
病院を予約するためにいちいちパソコンを開けないといけない、或いはケータイサイトを見ないといけない。こういったことすらも、ものすごい高いハードルである人たちがたくさんいるんですよ。簡単ケータイは簡単じゃないんです。

あの、なんで、ご老人でも何のハードルも感じることなく使える簡単ケータイが登場しないのかというと、これはまあ、一つファミコン文化と言いますか、テレビゲームができる人間とできない人間の差と言いますか、もちろんこれだけじゃなくて、テレビゲームができなくても1980年代前後にワープロを使いまくってた人たちであるとか、その時代のパソコンを使いまくってた人たちであれば全然問題ないんですけれども、それ以前の人たち、ですね。なんか失礼な言い方をしている気もしますけれども、その
ボタンを押したら画面のなかの何かが反応する、といった経験を40才までに積まなかった人たち
っていうのは、「ボタンを押したら画面のなかの何かが反応する」ということを自明の前提としているすべての電子機器の操作においてことごとくつまづいてしまうという、実態があると思うんですね。
これが、なんでなのか、というのは、ぼくもまだ分からなくて、経験的な実感としてしか言えないんですけれども、この壁はかなり分厚いと思いますね。

話が横道にそれましたが、何が言いたいかというと、電話レベルの電子機器の操作感を越えた何かを操作することを決して彼らに強要してはいけない、ということです(それはほとんど拷問だから)。だから電話なんです。受話器を取ってボタンを押すだけですぐ使える。なかなか壊れない。

こういう、世代のね、人たちが、少なくともこのさき半世紀くらいは、ある程度の無視できない規模でもって存在し続けるんだということを、少しは考えないといけない。

いま、だから、テレビが見直されてますね。もちろん一部ではボロカス言われてますけれども、えー、いまテレビは誰が見てるかというと、子どもと高齢者や。テレビ、ラジオ、そして電話。こういった、前世代、前々世代、前々々世代的な機器を、これまでとは違う形で利用していく、という方向に、舵を切る、或いは、そういう方向にも価値を見いだしていく、ということがね、こんにち、主に若者は都市にいて、老人は地方にいる、といった、「在住空間の分離体制」といった、構造的な難題を打破する一つの橋頭堡になるんではないか、というふうに、感じて、おります。

これが1つですね。次、2つ目。

2つ目は何でした?そう、老人が定期的に集う場所はどこか、老人が効率的に集積している場所はどこか、という問いかけでしたね。これについてはどう思いますか?

ぼくの答えを言っちゃうと、それは、ずばり、老人ホームです。

老人ホームの人たちがいったい何をしているか? 老人ホームにいる人たちは、ただただ死ぬのを待ってるのか? ゲートボールばっかりやってるのか? リハビリばっかりしてるのか? 本を読んでる? ご老人同士でぺちゃくちゃしゃべってる?

まあいろいろな想像が可能だと思うんですけれども、その、あなた老人ホームに行ったことあります? そこ、そのとなりのあなたは? どんなとこでした? そこでなにを見ました? どういうふうに思いました?感じました? もしあなたが、はれて老人の仲間入りを果たしたときに、そういう老人ホームのなかに住む機会を得たとして、どうですか? どう思う? どんなふうに感じる、だろうと思う?


あのねえ、ぼく思ったのはねえ、まあ、このブログを読んでいる人たちなんていうのはおそらく、10代~40代の人が95%以上を占めているんではないかと推察いたしますけれども、彼らの、彼らってのは、60代・70代・80代・90代の人たちのことだけれども、
彼らの、世話焼き度指数、ハンパないんです。
ほんとに。
誰かのためになりたい、人の世話ばかりになるばっかりであるのがつらい、そう感じてる、内々思っているように感じられる人たちっていうのが老人ホーム内のサイレントマジョリティを構成していると思うんですね。
彼らの、この、オトメゴコロをどうやって、満たしてあげるか、叶えてあげられるか、ということを、もっと真剣に考えていく必要がある。

そこで、なんですが、


秋田の博士教員その後 - 4403 is written
中学校で理科補助教員をやっていた経験からいえば,この意見はよく分かる.大学だと研究室というユニット単位での活動になって,横の研究室または他の学科との繋がりというのはそれ程に強くはない.そこにきて,小中学校は学年毎の固まりはあるものの,全体としてみれば横の繋がりも縦の繋がりも色々あって,人脈が縦横無尽の状態といえる.そういう環境の中で,それぞれがそれぞれの役割でみんなと助け合っているというのが,いわゆる職員室だろうか.研究者の世界こそ,こうであるべきではないのだろうか.色んな分野の人とガチャガチャやって,それぞれの強みでコラボレーションするなんて,素敵すぎるじゃないか.工学のオレに数学科の力を分けてくれ!人文社会学的なアプローチ法を教えてくれ!そんな感じ.職員室は楽しい.これ,間違いない.

えー、これは、小中学校における人脈が縦横無尽であるような状態の雰囲気を研究者の世界にもっと導入していこうよ、という問いかけだと思うんですが、
これは、なにも、「小中学校」と「大学の研究室」というこの2つにだけ適用可能な話であるということではなくて、かなり、普遍性の高い言明だと思うんですけれども、
結論を言うとね、「ここに老人を呼ばんかい!」ということです。

古典的な村落社会においては長経験者であるところの長老・老人が権限を持っていましたね。なんで長老に権限があるのかというと、それは別に、国家権力に担保されているわけではなくて、彼ら老人が、知識や技術や経験を豊富に持っていたからですよね。

まあいま確かに、例えばネットとかケータイとかITとか、そういったものとは一見無縁っぽい老人がたではありますけれども、「ほなじゃあ別のところで活躍してもらえよ」というか、「いや、老人だからこそ気が付くことというのもまたあるだろう」というか、そういう仕方で、昔の生き方において見いだされてきた知恵を現代において活用しようと頑張る努力は、十分に認められて然るべきだと思うんですね。

べつに「老人に教員をせよ」と言っているわけではない。「廊下とかをうろうろしていてくれることが重要」なんです。そこで、予期のむずかしい相互作用が発生するんです。そしてその相互作用の内実は予期できなくても、「私は頼ってもらえている」という感覚が強化されるであろうということは、これは、かなりの確度をもって言えると思います。

いま、すでにこういうサービスが行政において、まったく推進されていないということはないんだけれども、なかなかうまくいっていない。なんでか? 手続きがめんどくさすぎるからです。老人ホームと学校がそれぞれ契約をする。「なぜそれをする必要があるのか?」的な理由書をいっぱい書かされるわけです。それではれて、一年後とかにやっと、老人と子どもたちが、週1回週2回、ふれあえる、相互作用できる、というレベルなんですね。少なくとも私の知る範囲では。

行政が根本的に見逃していることはなにか? それは、「なぜ廊下とかでたがいにすれ違わなければいけないのか?」という問題設定自体が非人間的であることに直接由来しているんだ。

人類は気づいたときにはすでにして廊下でたがいにすれ違っていたんです。それも、世代を超えて、職種を越えて、縦横無尽的であるような仕方で。それを切り離す圧力がかかったのは近代社会の側からの要請なんです。ところが行政は、あろうことか、この、たかだか数世紀しか歴史がない近代社会の側からの要請を、人類の摂理的な要請であるくらいに重要な者であるというふうに誤解している、なにがより自明であるのか、どっちのほうがより自明性が高いのかに関しておかしな認識をしちゃっているところに、この問題の悲劇はあるわけですね。

でもそれはまあ仕方のないところもあって、というのは、彼らは、過去数十年の履歴だけを持ってして「前例」と呼称することにためらいを感じない人たちですから、それは仕方がないところもあるんですね。
(もちろんこれも行きすぎるとね、履歴の定義を過去にさかのぼりすぎるとね、たとえば今日のガザ地区の問題であるというか、「2000年前はここは俺らの土地やったんや、だから俺らがここに住む権利があるんや」という主張に正当性を与えることになって、これもまた悩ましい問題なんですが、とりあえずここではそのことは措いておくね。ヒントを少し言っておくと、過去数十年に基準を取るやり方と、2000年前に基準を取るやり方とでは、たいして差はないけれども、これらと、人類が誕生した時に基準を取るやり方とでは、決定的な差異があるということかな。)

だから、僕らがやらなくちゃいけないのは、行政の人たちに、行政の人たちが考えている前例の定義を書き換えてもらうことのために頑張るよりも、「これからは廊下ですれ違う時代ですよ、それがトレンドですよ」というふうにアピールした方が、費用対効果は高いんではないかというふうには思いますね。

以上、学校と老人ホームが同じ建物のなかに入ってると、そりゃ悪いこともあるだろうけど、いいことのほうがいっぱい起こるよ、これをやりまくればいずれ振り込め詐欺も減ってくるよ、という話でした。


長っ(笑)




■09.02.15追記:

被言及だったので一応。


秋田の博士教員その後 - 4403 is written


Q4:教育なめられすぎだと思う

(中略)

教育業というのは中途半端な能力の持ち主にぴったりの職種なんですね。

能力を持っている者がそれを使わないのは罪だとなぜ思えないのですか? @heis.blog101.fc2.com

話はこの辺りに帰着するわけだが,「博士=研究者」はエリートだと思うんだ.博士だからって,「研究者」として大成しないことだってあるだろう.「研究者」としては不十分でも,その博士としての卓越した知識などは,十分に役に立つはずである.誰のために役立つか?次世代のために役立てるべきだ.自分が「研究者」としてダメだとしても,「次世代の研究者」になるかもしれない若者に何かしらの刺激を与えることができるかもしれない.それは可能性の問題であって,博士は研究をするだろうし,教育もして然りだと思う.それが博士という存在の役割だと思う.


ほかのところでも被言及があったと思うんだけど、ぼくは、研究者や博士がエリートで、教育者はエリートではない、っていう考え方には反対なんだ。あと、落ちこぼれ研究者が子どものおもりを担当すべき、って意見にもね。
研究者にも一流と五流がいるし、教育者にも一流と五流がいる。研究者が一流で教育者が五流なのではない。
専業研究者のなかにも、自分は五流だと思っている研究者って結構いる気がするし(謙遜ではなくてね)。

なんというか、職業の貴賤というのを廃絶する方向で物事を考えたほうが、ぼくはいい気がする。

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