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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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あるentryを見たときにね、自分はそのentryの評価者であり、自分はそのentryに点数を付ける権利が与えられており、したがって私はいまからこのentryを採点するぞと、そういういきごみで、コメントないし感想をぼやく方々が、まだそれなりにいらっしゃるなということを、痛感、しているんですね。


でもそれはねえ、もう古いと思うんだ。というのはね、あんた点数付けてどーすんのよ?ってこと。あんた点数付けて何がしたいのよ?ってこと。

これもねえ、たぶんねえ、採点主義教育観の弊害ですよ。

たぶん彼らは、自分がこれまでずっと採点されてきたからね、今度はよっしゃ俺らや、と思ってね、勢い余って採点者の立場を確保したがるんだと思うんだけれども、それはそれで、堪能してもらったらいいと思うんですけれど、
ワシは採点者じゃ、フハハ、フハハ、フハハハハハハー
っていくらでも叫んでもらったらいいと思うんですけれどもね、そうやってボス気分を多いに、子どもの頃にガキ大将の気分を味わえなかったのび太君のように、堪能してもらったらいいと思うんですけれどもね、ぼくそれで思うんですよ、で、そのさきどうするの?って。それで終わりですか?って。



あのねえ、ぼくは、ボスとザコがいるという世界観を、あまり面白いものであるとは考えてないんですよ。理由は、子どもだましだから。

こういう世界観がね、やがて、差別といいますか、こちらとあちらとの間に境界線を引くといいますか、その、二分法を発端として、さかみちを転がり落ちるようにネガティブな感情のあふれる世界を積極的につくりあげてしまうヒダネになると、考えているんですね。



なにが気に入らんかというとね、それで終わり、という部分が一番気に入らないわけ。

私たちは、終わらない日常に対していかにしてモチベーションを見いだしていくか、というところに焦点化して、物語を編み上げていかなければいけない状況に遭遇しているところだと思うんですけれども、そんなときにね、終わることが目的であるかのような語り口で語られる物語りを、手放しで賞賛する、当然のものとして受け入れる、これはやっぱりなんかちょっと違うような気がしますね。


終わることが目的なんじゃなくて、次につながる話、と言いますか、それを読むと未来が見えてくるようであるような話と言いますか、そういう接続のしかたをしないとね、あれー、このひといったい、どういうつもりで生きたはんねやろー、というふうに相手に思わせてしまうことになる、と思うんですね。


罵倒でも賞賛でもないもの、0点でも100点でもないもの、そういうものを、既存のテクストに上塗りする、ためにはどういうことを考えないといけないか?というふうにですね、問いを立てて頂きたいなあと、感じるわけです。


もーちろんこれにはね、これっていうのは採点主義(被)教育観のことでありますけれども、そういう価値観の醸成を積極的に推進してきた「画一的な入試」の政策、に対する責めが認められて然りなわけでありますけれども、これは一朝一夕には変わらないので、とりあえずは変わらない、しかたのないものとして受け止めて(つまり天変地異・厄災と同じやと思えということですよ)、
ではそういう、ネガティブスパイラル、自分で自分の首を結果的に絞めることになるような語り口を、どうすれば自分の口から、身体から排除できるだろうか、除去できるだろうか、追い出せるだろうか、ということを、考えていただきたいんですね。
なんと言いますか、その、批評2.0と言いますか、そういうのが、次なるステージ、時代において求められていくリテラシーの一つ、になるのかなぁ、というふうに思います。


とりあえずはそれくらいかなあ。

まーた思いついたらなんか書こうとは思いますけれども。

コメント
この記事へのコメント
初めてコメント致します。
今回のエントリ、自分もここ数年感じてたことなんですよね。
自分は「こういうの、減点方式の言説だよな」と思ってました。
あとは「自ら弱点を晒す行為だよな」とか「その分、この人の本音でもあるよな」とか。

いろいろお聞きして細部を詰めてみたいとも思いましたが、とりあえず1つだけ。
このエントリって、本日付で増えたコメントを予見したものだったんでしょうか?(笑)
2009/02/12(木) 21:58 | URL | shus #FVwvSS3E[ 編集]
> 初めてコメント致します。

shusさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。


> 今回のエントリ、自分もここ数年感じてたことなんですよね。
> 自分は「こういうの、減点方式の言説だよな」と思ってました。
> あとは「自ら弱点を晒す行為だよな」とか「その分、この人の本音でもあるよな」とか。
>

こういうことを言っているのは、たぶん私一人ではないと思います。

shusさんのご年齢・ご世代が分からないのでどういう例が適切か分からないのですが、そうですね、
一般に、ゲームをプレイするときに、ゲームのルールを逸脱して勝利を勝ち得たとしても、それで嬉しいのはその最初の一瞬ないしそのほんのひとときの間だけで、その直後以降は急激にむなしくなってくるもんなんですよね。

「あれ、俺、いったいなにやってんねやろう?」

というように。

卑怯なことをしてまで勝利を得ようとしたその自分の嫌さ加減ゆえに、「どよん」とした重苦しい気分の中に置かれる、というような経験は、ある程度の年齢に達していれば誰しも持っていると思うのですね。

そういう経験を持っているにもかかわらず、そういう経験から学ぶことができない・・・と言ってしまうと自己責任論になってしまうんですけれども、たとえばその、

画一的なわずか数種類の物差しだけで評価され続けてきた(←これは教育制度というものが国家規模で機能する限りある程度はしかたのないこととして受け止めるよりほかない側面を持っています)、というよりもより正確には、それ以外の物差しをあてがってみようという意見を言う奴が誰もいなかったことに、この問題の闇は存しているのですね。

「教育制度が提供する物差しがもっと多様化すること」が解決への道しるべなのではなくて、
「既存の教育制度はわずか数種類の物差しでしか俺たちをはからない」ということをバカにする空気が、子どもたちの間で、教室の中で、自然と生まれて、
子どもたちは、既存の教育制度が提供する数種類の物差しによる評価にたえず晒されながらも、その物差しではないものさしを自分たちで持つ、自分たちでつくっていく、という気概といいますか、意見を言い合える仲があるといいますか、
そういうものが失われてしまったことに、根はあるんですね。


というようなことを言うと、昔書いた、とあるこのentry(http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html)のQ7のあたりと矛盾してしまうと思われるかもしれないのですが、それとこれとはちょっと話が違っているんです。と、申しますのは、「自分たちの物差しを自分たちで見つけていく、というプロセスの動力源が何か」というところが、今回の話と昔のentryでは違ってるんですね。

今回の話では、「制度の不可侵性を受け容れて、制度を補完するようなかたちで自分たちが成長いけばいいじゃないか」という発想に端を発しているのに対して、前のentryでは、「いま目の前にある義務的なものから逃避する手段を必死になって探しまくること」のうちにある、新規なる物差しを発見したいという意欲に駆られているのであって、この2つは、ちょっと違うんじゃないかなと、いまのところは考えています。ここら辺はまだ、自分でも整理がついていないかもしれません。


何が言いたかったかと申しますと、子どもたちが受けている無意識的な束縛のなかには、自分たちで物差しを生み出す文化(の有無)というものが深く関与しているのではないかという、ことなわけですね。



> いろいろお聞きして細部を詰めてみたいとも思いましたが、

関心を寄せていただきありがとうございます。

その、もちろん訊ねていただいてもいいのですが、おそらくそれ以上に有効な手だては、shusさん自身が、今回のこのentryを読んで感じたことをですね、ご自分のブログ等で書いてみて、それを発信する、ということをされたほうが、よほど整理になるのではないかというふうに思います。


> とりあえず1つだけ。
> このエントリって、本日付で増えたコメントを予見したものだったんでしょうか?(笑)

というわけではないです。(ないと思います。)
前々からなんとなく半意識的に考えていて、何かを契機として書こうと思い至ったと、そういうことだと思います。
2009/02/13(金) 01:05 | URL | heis101(管理人) #M/TJw2k2[ 編集]
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