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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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数的センスと理系文系 - 考えるのが好きだった
大学によっては、「志望の動機」を書かせる。「先生、見てください。」と持ってきたものだから、ちょっと覗くと、十数行罫線の入った用紙の欄外に「300字程度で」とあるが、下の方2,3行ほどが空いている。1行目の字数をぱっと数えたら21字くらいだった。書いてあるのが13行だったか、行によってはもっと大きい文字で書いてるものだから、足りなくないか? 私が「これで、300字あるの?」と聞くと、「はい。数えました。」と言う。その時はこれ以上時間がなかったものだからそのまま受け取った。

 あとで数え直すとはやり足りない。250字ほどしかなかった。志望動機書は最後の行までしっかりと書くのものだし、大学だって300字要求するならそのスペースを用意しているものだ。だから、空欄はできない。

 まあ、それより、この子、とても良い子なのだが、欠点が一つある。数学が出来ないのだ。特に記述問題ができない。英語・国語はそれこそ偏差値70だっていく。なのに、数学だけはどうしても55,6で行き詰まっている。本人は毎日毎日数学ばかりやっている。それなのに上がらない。

 私は絶望的な気分になった。この子は、本当に数学が出来ないことが分かってしまったからだ。「たかが志望動機書の字数」ではない。ちょっとした数の感覚がこの子には決定的に欠けている。1行20行ほどで、13行しか書かれていないのに、300字になると勘違いしてはいけないのだ。瞬間的に、本能的に「変だ」と感じなければ、高校で習う数学問題が正確に解けるように決してならない。そういうものだ。(ちなみに数学の先生も同意してくれた。)逆に、難しい数学が出来るということは、数の感覚が身に浸みていることを表す。ゆえに、「三角関数(←たとえばね、)なんて日常生活で使わないから要らない。」では、決してない。数学の問題を解きながら、我々は、数的な感覚かなにか、見えないものを鍛えるのだ。

 この子の担任するのは初めてだったが、1年の時も授業に行っていたから知っていた。だから、理系クラスにいるのを見て大変驚いた。志望学科が理系だからそうなったようだ。2年次の担任も理系に進級したのを意外に思ったという。(私は3年次の担任。)1年次の担任は「彼女は理系タイプだ」と言ったらしい。

 うん、謎が解けた。

 その1年次の担任は、どこをどう見ても、全くの文系タイプで、数学的ものの見方は全くしない方である。よって、その人がその生徒を見て、「理系」と判断してもおかしくない。ところが、2年次担任も私も、教科は全くの文系にせよ、いずれも「文学」専攻ではなく、興味関心は理系方向が強い。この4人について、理系よりか文系よりかを並べると、こうなる。

 文系← 1年次担任  その生徒  私と2年次担任  →理系

 だから、1年次担任が自分を基準に「あの子は理系タイプだ。」と判断しても何ら不思議はない。(正当性はともかく。)2年次の担任も私も、純粋な理系ではない。生徒の文理分けに関して、私はその子がどこまで理系なのか、数学がどこまでついて行けそうか、本当に考える。(で、女子の場合、たいてい反対することになる。それで正解。本当は、「数学ⅡBまで、生物Ⅱまで」のコースが最善だが、ウチにはない。まあ、このコースにせよ、いつ決定するかの問題は残る。)

 ちなみに、私は「文系の中の理系」か「かなり文系っぽい理系」、数式を見ても「美しい」と感じることは出来ないし(私の知っている範囲だが、数学専攻者は皆、「数学は美しい」とおっしゃる。)、物理は力学で落ちこぼれたから純粋な理系ではないと思う。(まあ、単にアタマが悪いだけかもしれないが。)かといって、文学や詩歌がわかるわけでない(というか、ほとんど興味がない)。でも、言語を介在させない芸術は、感性でよ~~く分かる。だから、自分では芸術家だと思っている。(笑)

この子はどうなったのだろう、ということがちょっと気になった。

なんというか、理系クラスの担任を理系の先生がする、というのはまあ似つかわしいと思うんだけれど、問題は、高1、と言いますか、まだ文理が分かれていない段階において、担任がバリバリ文系の先生で、自分はちょっと理系に気があって、担任の先生と話してみると、「うん、君は理系だよ。」って言われるし、自分ではどちらかというと理系に行きたいと思っていて、いま数学があまりできないんだけれども、それはまあなんとかなるだろうと思って、そのまま高2からは理系クラスに進んで、かなり苦労しちゃって・・・

ってなケースが、たぶん、全国的に、ようさんあると思うんですよね。で、これ系の悲劇の根幹は、
バリバリ文系の先生が「この子は文系に行くべきか理系に行くべきか」を判断する能力を自分は十分に持っている
というふうに誤解しているところにあるわけですね。これはちょっと考えると不思議な話で、だって、バリバリ文系の自分は、理系の世界がどういう世界が知らないわけでしょ? 実際的な理系の世界を観察したり足を踏み入れたりしたりしたことがないのに、妄想だけで、自分の勝手な理系のイメージをつくりあげて、そっちに該当するから、「はい、きみは理系だよ。きっと大丈夫だよ。」というようなアドバイスを、微妙な高校1年生にしちゃう。これは、やっぱ、悲劇だよねぇ。。


文理、ということだけで言うとね、こんにちほど、文理、などという区分けが無意味になってきている時代はないわけでして、だから、いまどき文系が理系が…とか言ってるのは高校だけ・・・と言ってしまうと言い過ぎなんだけれども、それに近しいところはある。
多くの高校では、高校1年生は、2年生に進む前に、理系に進むか、文系に進むかを選択しなければいけない状況に置かれている。これは事実だ。それによって、就職先であるとか、大学進学先、が決まってくる、絞られてきてしまう、と言った側面があるわけね。

ぼくは、こういった、高1or2段階で生徒を分類することは、基本的にはやめたほうがいいと思っていて、というのは、まあ、大学生の皆さん、大学を卒業された皆さん、大学を卒業して何年か経っている頃の皆さん、或いはそれよりも年上の皆さん、の多くはたぶんうすうす感じてるんじゃないかなと思うんだけれども、その、
あの頃の私といまの私では興味が変わってるな
と、いうことはないですか?

もちろん、高校の頃にやったり考えたりしてきたその姿勢が基礎となって、その後の人生において何か壁にぶち当たったときに、やり方を見定めるために立ち戻る原点というのが高校時代の考え方にある、というような人が多いだろうということは否定しない(なかには「原点は小学生時代にある」とか言うツワモノもいたりするんですけどね(笑))。

でもね、こんにち、その、例えば、某大学でありましたね、入試に合格したのに、定員超過だから別の学部に移ってくれと。まあそれでねえ、ほいほいと、理工学部から法学部へとなんのためらいもなく移ることができるとすればその神経は疑わざるを得ないのですが、理想はどうあれ、実際の高校生・大学生を見る限りにおいては、入学時点で、「俺はこの大学でこれをやるんや」ということが明確に決まっている人間はごく少数で、大部分は、なんとなく入って、「まあこれから探そか」みたいな気分で構えている人が、存外多いということがあるんですね。
だからこそ、工学部の入試に受かったのに「定員超過やからちょっと商学部いってくれへんか」という大学からの非常識なお達しを、非常識とも思わず、ほいほい移籍することに違和感を覚えなかったりするわけです。

そして、だからこそ、入学したのに大学に来ない、或いは退学、転学、転科、編入、仮面浪人、休学、などのさまざまな措置を講じてですね、大学側が提供する具体的で詳細なメニューを食することを、途中で投げ出しちゃう奴が一人や二人ではないわけですね。
さらに言うと、これが一種の共犯関係、であるとも言えるわけ。大学としてはね、受験してもらえれば受験料収入が、入学してもらえれば入学金収入が、授業半年出てもらえれば授業料収入が入るわけ。でね、そのあとは知らんと。退学でも転学ても転科でも編入でも仮面浪人でも休学でも勝手にせいやと。いや、むしろ、どんどんやれと。大学側は、「最近の大学生は何々だ」といった嘆きの表情を浮かべる一方で、そういうことを、消極的に推奨している側面もまたあるのではないかと、思うんですね。
でね、ぼく思うんだ。これってさ、転職ビジネスとどこが違うの?

「適職」という概念が発明されたことによって、転職を繰り返しまくる人間がたくさん出てきてくれることから収益を上げる転職支援産業と、やってることどこが違うの?

積極的にやってなければいいわけじゃないですよ消極的にやってるんですよ。法律用語で言えばなんですか、未必の故意ですか。まあそのことを予知していたかどうか、自覚があるかどうかは知りませんけどね。結果的にはそういうことをやってるんです。


真に大学生・高校生にとって望ましい学びというものを想定するならば、こういったメカニズムは即刻解除すべきですね。
これがいまから一世代前、半世紀前の大学生・高校生に対してだったら、或いはその当時の高校・大学に対してだったら、ぼくはここまで口を酸っぱくして言うことはないでしょう。100年前200年前だったらなおさらです(100年前200年前に高校・大学があるのかという突っ込みはなしね^^;)。
いまという時代は、老人が増えすぎたために、子どもである期間がものすごく長くなってるんですね。精神的には、30才くらいになってようやく大人になる、というふうにおっしゃる専門家もいらっしゃいます。
こういう時代においては、「早くから何々せよ」というふうに、進路を早期に選択させることが、必ずしも功を奏さないところがあるんです。もちろん早くからやりたいことが決まっている人はそれをやればいいと思う。でも、そうじゃない人が大半なんですね。
これは、いま、就職する人が、どういう動機で会社を選んでいるか、というところを見ても、はっきりと言える傾向があるんです。それは、一つは、大企業志向、ですね。で理由を尋ねてみると、こうなんですね、
大企業からベンチャー企業or中小企業への転職はできるけど、ベンチャー企業or中小企業への転職はできないから
って言うんです。ははーん、やってることは判断の先延ばしですかと。
いや、多いんですよ。ほんとに。
いま、なにがやりたいか分からないから、とりあえず、今後もできるだけ多くの選択肢が残るような選択をする、というような傾向が見てとれるんです。

自分が何者か分からない、といったところに端を発していることは確かなんですが、じゃあ一昔前の高校生・大学生は、自分は何者か分かっていたのかというと、これは、結構意見が分かれるところではないかと思うんですけれども、ぼくは、今の若い人たちよりは、分かっていたのではないかと思うんですね。

つまり、昔よりも今のほうが、分からなさが増大している、ということです。

人間っていうのは、伝統的には自分が所属するコミュニティ、においてどういうふうな位置づけを頂けるか、というところに端を発して自らのアイデンティティを定位してきたという経緯がありますから、所属するコミュニティが過度に流動的であることは想定されていないんですね。でも、いま現在は過度に流動的なわけです。このギャップをどないして埋めるか、というところで煩悶するのは、何も若者にのみ課せられている煩わしさ、ということではなくて、自らの所属するコミュニティ群が過度に流動的であるような人たちはみんな、この手の問題に煩悶せざるを得ない、少なくとも一度は煩悶しているはず、なんですね。

こういうときに必要となるのが、全体的な視点、なわけですね。つまり、自らの所属するコミュニティ群、これから所属するであろうコミュニティ群、かつて所属していたコミュニティ群といったこれらすべてを包摂するでかいでかいコミュニティというのを仮想的に想定して、そのなかで、自らがいま所属しているコミュニティにおける自分の位置づけというのはどうなのかを次に想定する。この2段階の想定を通じて、初めて、過度に流動的なコミュニティスフィアを生きる私たち一人一人のアイデンティティというものは、不動のものとして位置づけることが可能になるわけです。

こういう仕方でないと安心できないように私たちの精神構造というのは、なっているわけで、というかむしろこれは非常にありがたいことでね、現代人は、多かれ少なかれ、こういうことを自分自身で考えないといけない状況に追い込まれていきますから、まあ、どれくらい時間がかかるかというのは個人差がありますけれども、最終的には、この煩悶を処理するという仕方で、21世紀に特徴的なかたちのアイデンティティを形成する方向に収斂していくであろうことは、これは、ほとんど疑いの余地がないとぼくは思っています。
で、この手の新型のアイデンティティは、必然的に「世界市民」という考え方を前提していますから、こういう考え方を、こういうふうな自分の位置づけを、世界規模で見たときに無視できない規模の人数の人たちがするようになったとき、あるいは、戦争なんてものは過去の遺物と化してしまっているのかな、と思います。

いまは、まだそれが始まったばかりというか、始まってからまだ十数年しか経っていないというか、そんな状況ですから、おのおのが新型のアイデンティティを確立するのに、これまでより時間が掛かるのは、これはほとんど必然でして、だからこそ、「30歳成人説」という響きがなまなましく聞こえてくるというようなところはあるわけですね。
それはもう、時代の流れだから、仕方がない。「俺は世界市民はいやだ、村人Aでいい」って駄々をこねたって、たぶんそれでは、大人であると多くの人々は見なしてくれないでしょうし、見なしてくれる一部の人たちはたぶんその人よりも高齢であるがゆえにいずれ先立たれてしまうし、いずれ、破局しちゃうんじゃないかな、というふうに思います。


話を戻しまして、いまの高校生・大学生に対してどういうケアが必要であるか、ということを申しますと、その、一言で言うと、個々人の煩悶を支援することだと思うんですね。

高校生・大学生というのは基本的に、さまざまな学びの可能性に開かれているわけですけれども(社会人となって働いている人たちよりは、ということね)、その可能性を、閉じこめてしまう、押さえ込んでしまう、ということをしない、ということが一つのポイントになろうかと思います。

もっと言うと、あることを面白がっているのに、それを面白がることは悪なのだというふうな価値観を上意下達的に植え付けることの弊害ですね。
例えばね、法学部で学んでいる人間が、工学部で学んでいる人間と話をして、なんかおもしろそうなやあと思ったときに、「ああ、ぼくは法学部の人間なんだ。法学だけを好きになるべきなんだ。工学なんぞにうつつを抜かしている場合ではないんだ。ぼくはいろいろな経緯があって法学部に入っちゃったけど、一度入っちゃったからにはそれ以外のことを志してはいけないんだ。法学に専念すべきなんだ。だってぼくは法学部の学生なんだから。」というしかたですね、自分の心の奥底にちらついた自分の興味関心の片鱗をノイズとして取り扱ってしまうこと、或いは、そういうふうに学生が対応しているのを、先生方であるとか先輩後輩同輩であるとか親であるとかが積極的に後押しすること。
これはねえ、僕はねえ、ふたむかし前なら喜んだかもしれないけれど、いま現状のさまざまなことを鑑みる限りね、ちょっと、捨て置けんなと、思うわけです。

問題は、ふたむかし前の人間が、先生方であったり、親であったり、親の親であったり、定年退職した先生方であったりすることにあるわけです。

こんにち、ある特定の能力が、どういう人によって、どういう価値を見いだされるか、ということが、自分自身では予測が付かない、といった状況に、誰もが置かれているといった現状があります。
法学部行ってます→弁護士なりはるんですか?
というような紋切り型の理解で、自分に備わっている付加的な知識人的な価値をはかることが当たらなくなってきている、というかむしろ当たらないことのほうが多い、ということです。
法学部で学んだことが、たとえば、なんだろう、文学的な分野で活きてくるとかね、この程度のことならまだまだ予測が付きそうですけれども、私たち、と単純に言いますが68億人いるわけですから、日本だけで見ても1億何千人いるわけでしょ、どこからどんな人間がポッと自分の前に顔を現すか、分からないわけです。そいつがどんなことを考えてきた人間であるかすらも分からない(ことが多いと予想される)わけです。

レヴィ=ストロースのブリコルールではありませんけれども、いま何の役に立つか分からないけれども、将来もしかしたら役に立つかも知れないことがらをいろいろとやっておくことの重要性がこんにちほど、本格的な重みを持って受け止められるべき時代はないと思いますよ。
これは子どもだけじゃなくて大人でもそう。大人でも、将来もしかしたら役に立つかもしれないと直観されることのために、短期的かつエビデンス・ベーストな論理性からはムダと判断されることをやっておく、やってみることの重要性は若い人たちに引けを取らないと思います。
「そんなこと言うたって、私、もう将来ないですから」とか言わないでくださいね。97歳の日野原先生でも、将来に対するヴィジョンをちゃんと持って世界中を飛び回っておられるんですから、日野原先生よりも若いであろう人たちが、「私はもう十分に生きた」などと、もののけ姫のモロのごときセリフを吐くのは数百年早いわけです。


で、最初の話に戻るけど、こういう事況でありますからして、大学生はおろか、30歳成人説の立場から見ればまだ1/2成人式の峠をやっとちょっと越えたかなという辺りの年齢の人間(高1)に、「将来を選択せよ。理系か文系か、まずは選びたまえ!」なんてやってみても「ハァ?」あるいは「きょとん」なわけでして(精神年齢の低年齢化というファクターもある)、ふた世代前であったなら奏功したであろうやり方はほとんど実を結ばない、にも関わらず、相変わらず高校では、大学入試というものがあるがために、高1時における文理選択というものが、「きわめて」とまでは言いませんけれども、本来の価値以上の重要性を賦与されてしまっている側面があって、またそれゆえにですね、法学部に入っちゃったけど実は工学にも興味があった人間、文系に進んだけど実は数学的センスもかなりあるぞという人間の持つ能力的な価値が、発掘されないまま見落とされがちになっている現状は、多分にあると思いますね。


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