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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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先日書いた臓器移植と脳死の話に対してtrackbackを頂いたので、そのentryを読んで気づいたことについて述べる。


脳死の誤解と問題 - 50万円から小豆御殿 ~商品先物取引ブログ~ 只今投機休業中
皆さんは脳死状態と植物状態の違いが何であるか、明確に説明できるだろうか。僕は脳死患者からの臓器移植には反対の立場である。

非常に重要な指摘である。脳死というのは、脳が完全に死んでいる状態、つまり、その人の人格が完全に消滅していて回復不能である状態のことであり、植物状態とは、脳は完全には死んでいない、つまり、その人の人格は消滅していないのだが、その人が外部に対してなんらの意思も表示することができない状態(でかつその状態から健常な状態への復帰の見込みがない場合)のことである(ただし、今後の医学の進展によって、外部との意思疎通が可能になる可能性は残されている)(以上は医学的定義ではないことを申し添えておく。wikipediaによると、脳幹が死んでるかどうかが判断の分かれ目になるようだ)
ここで、この2つを医学的に区別することができるのか、という問題が生じる。ポイントは、その区別の基準は、医学の進展によって今後変わりうるということである。

だから、ある患者が、昨日は100人の一流の医者のうち99人によって脳死と判定されたとしても、今朝医学的に画期的な発見があったことによって、今日はその患者を、その100人の一流の医者のうち99人が植物状態と判定する、というようなことも十分に起こりうることである。

判定日が昨日だったら脳死だけれど、今日だったら植物状態です、というようなこともまんざらフィクションではない、ということである。

そして、これに加えて重要なことは、生き物というのはとにかく分からないことだらけということである。数学とか物理とか化学とかに比べると、医学・生物学は、もう、これは、学問と言っていいのかどうかすら怪しいよなと言いたくなるくらいに分からないことだらけなのである。こんな怪しい情報一つに、脳死か植物状態かという、この世で最も重要である命の有無の判定が、ゆだねられているのである。

これは、現在の世間の常識(命が一番大切であり何物にも代え難い価値があるという常識)に照らして考えても、とても異常なことである。
こういうことが平然と罷り通っているのは、一般人の医学・科学に対する過信もしくは無知が挙げられるだろう。
一般人がプロに比べて無知なのはほとんど当たり前なのであるが、問題は、プロが特定の一般人な患者に対して医学・科学のより正確な知識を教えることにより、プロ自身の利権が大きく損なわれるもしくはそのおそれのある場合、プロはちゃんと、患者のためになる行動を、患者にとって最適となる行動を、もしプロが患者の立場だったならばこうしてほしいと感じる行動を、すぐさまパッとなんの躊躇もなく取ることができるかどうか、というところである。

現在の医師養成・研修・相互啓発、もしくはその卵の選抜はいかにあるべきかということを考えるとき、私は、このことを十分に重要視すること抜きに語ることはあってはならないと考える。
昨今、医師不足が叫ばれており、やれ、受験偏差値だけで選抜するところに問題があるだの、医師の多くは体力勝負なところもあるから、そういう激務に耐えられる体力や覚悟や意思があるかどうかを大学入試の段階で訊くべきであるだの、いろいろな意見が散見されるけれども、最も基軸に据えるべきことは

(1) 医師としての最低限の医学的知識と医学的技能を備えているかどうか、もしくは備えられる見込みがあるかどうか
(2) その知識や技能を私利私欲のためだけではなく、患者のために、広く社会のために使うという倫理を併せ持っているかどうか、もしくはそれを今後併せ持てる見込みがあるかどうか

というこの2つの基準ではないのか。


-脳死は1950年代以降、ICUの中でのみ発生するようになった、極めて人工的なバイタルである。

脳死臓器移植を推進する人々は、あたかも脳死は昔からあったのだが、最近そういう死があると「発見」されたかのような主張をし、メディアもほぼ検証無しにその主張を垂れ流しているが、誤りである。
脳死はICUの様なバイタルが制御できる設備がない限りは発生しない。「交通事故で脳死」というのは、その患者が救急救命センターのICUに入ることによって起こる。そういう技術がなかった時代には、あり得なかった状態であり、「開発」された死である。

- 脳死判定の目的は、臓器移植と無関係でいられない。

脳死の判定というのは、かなり積極的に判定行為を行う必要がある。
わざわざそれを行う理由は、ターミナルケアに伴う問題(死亡時刻の条件が絡む財産分与や賠償に、レスピレータをはずすまでの時間的な恣意が入るのを避ける)が大きいとされるが、臓器移植の可能性を考慮しない脳死判定というのは存在しない
もっと大胆に言うと、脳死はそもそも心臓移植を可能にするために考え出された

--- 中略 ---

- どうしても臓器を手に入れたい人の葛藤。

例えば自分の娘が心臓移植でしか助からず、合法的なドナーが見つかる可能性も極めて低い場合、僕はいかなる手段を使ってでも臓器を手に入れようとするだろう。それは人間として当然である
臓器は、常に供給が足りない。ICUが日本に1000設備ほどしか無いことからもわかるように、ドナーカード保持者が増えたとしても、提供者が劇的に増えると言うことはあり得ない。「どうしても臓器を手に入れたい人」がいるから、臓器摘出目的の幼児誘拐や殺人が世界で横行しているのである。だれでも「どうしても臓器を手に入れたい人」になり得るし、そういう人を責めることも難しい。

もし、不幸にして自分の娘が心臓移植でしか助からないと医師に告げられた場合、私たちは何をすべきなのだろう? 何を最優先に考えるべきなのだろう?

その娘の命を助けることか? しかし、その命が、他の人の命の犠牲のうえに助かる命であったとき、私たちはほんとうにそれを、心から引き受けることができるのか?

その犠牲になる他人が、もしかしたら自分のかつての親友かもしれない可能性があることに耐えられるのか? いや、じゃあ、「その犠牲になる他人が、どこの馬の骨かも分からないような人間であったなら良くて、かつての親友であったなら良くない」などという考え方をすることがほんとうにいいのか?

その犠牲になる他人が、社会的影響力が低く、もし再び心臓の健常性を取り戻したとしても、他の部位の不都合によって、余命が少なくなることがあらかじめ分かっている場合、
そして、
その自分の娘が、社会的影響力が高く、前途有望で、もしかしたら世界的に活躍することになるかもしれないことが家族や友人や先輩などの仲間たちによって大いに期待されていて、かつ、心臓の健常性さえ取り戻すことができれば、その娘は、なんら心身に不都合なく人生をあゆんでいけることが、いまの医学によって、高い確度で言える場合、
「その娘の命よりも、ドナーが、明日の医学によって助かるかもしれない命のほうを優先的に考える」ということを、そういう判断を、ほとんど瞬間的になんの躊躇もなくくだすことができるのか?

あるいはその娘もまた医学への道を志していて、その娘の医学的活躍によって、医学が大きく進展し、「世界中の何十万、何千万という、その娘が活躍しなかったならば救えなかった命」というものが救えるようになるという可能性や期待がすでに醸成されている場合はどうだ?
この宇宙船地球号の乗組員の一人として、最小限の犠牲で最大の成果を挙げることは義務であるはずだ。ならば、その娘の命を助け、ドナーには犠牲になっていただくという選択をすることが、私たち全員のためになることではないのか?


「命は一番大事です」というセントラルドグマをもう少し突き詰めて考えていくと、「A君の命と、B君の命と、どっちが大事なのか」という問題に突き当たる。
命とお金は取引不能かもしれないけれど、では、命と命は取引可能なのか? おそらく、命と命は取引不能だと思う。というのは、私たちは「代替不能な個人」というフィクションに酔いしれることによって自らの存在理由を担保しているから。だから、いま世界には68億人の、互いに取引・交換不能な価値が、並立しているということやね。
取引不能っていうのはどういうことかというと、「100億円とA君の命の価値を比較することができないのと同じ理由で、A君の命とB君の命の価値もまた比較することはできないんだ」ということ。A君の命とB君の命は同じくらい大事だ、というのとは違うよ。それは2つの命の価値を同額査定しているのと同じことだからね。

だから、さきほどの話、「前途有望な娘を救って前途有望でないドナーに死んでもらったほうが、私たち全員のためになる」という発想は、すでにして「娘の命の価値とドナーの命の価値を比較考量することが可能である」という命題に同意署名している。これは、ヤバイ。


これをある程度でも制御できる強制力と、国民の倫理が必要なのである。脳死臓器移植という大して効果のない供給側の問題解決よりも、需要側の抑制が先であり、それに着手せずに需給双方が増長してドライブするのは、悪夢としか言いようがない。

ふむ。


- 社会成熟度の問題。

和田心臓移植事件の和田寿郎は、「善意の提供者、患者、医者が同意した、みんな幸せになった。それを止める理由はない」という旨の発言を残している。これは一見真っ当そうな論理だが、一秒考えればおかしいとわかる。しかし、これに似たような主張をする人々は後を絶たない。
善意というのは客観的に判断されなければならない。それがたった三者の閉鎖的な環境でなされることは極めて危険である。提供者が弱い立場にある場合はその環境以外の力が介入しない限り、医者と患者の思うがままになる。
フランスをはじめとする欧州各国が、本人が拒否意志を示さない限り脳死臓器移植を可とする推定同意を採用していることを引き合いに、日本もそうするべきだという人もいるが、医療制度の公平性が高度に実現されている社会(公権力の介入度合いが高い)と、カネによって処置が変わる日本とを同列に考えてはいけない。和田のような人間を生む医療制度と、社会成熟度こそが問題なのである。

「医療制度の公平性が高度に実現されている」というのが具体的にどういうことを指すのか、ということをもうちょっと知る必要があるなと思った次第。判断の場が閉鎖的でない、任意の第三者がいつでもその判断の一部始終を閲覧することができるような環境が、向こうでは整備されているがこちらでは整備されていない、といったところだろうか。


ドナーカードのどこに印を入れるかは、角膜などの心臓停止後の提供と、脳死状態の多臓器提供は根本的に違う行為だということを自分で調べ、考えてからにしたほうがいい

日本のマスメディアは、「ドナー提供者が不足している」「日本ではドナーカードによる意思表示がない場合、脳死者からの臓器提供は認められない。それに引き換え欧州各国では意思表示がなくても認められている」というこの2つの事柄だけを選択的に報道して、「法整備が外国並に進むまでは、ドナーカードによる意思表示をする人が一人でも増えてくれることに期待するしかない」的な結論へといざないたがっている感じだが、そもそも、「よく知らない契約書に同意署名させることをいたずらに煽る」こと自体、ほとんど犯罪的であり、民主主義社会に生きる一員として恥ずべき事だと思う。こういうことをしまくっているから日本の民度はなかなか上がらないんだ、とも思えてくる。

「投票に行こう」と叫ぶ前ににするべきこと」でも書いたが、ドナーの場合でも同じことが言えそうだ。


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