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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「あ、そうか。」派「なんだと?」派がいると思うんだよね。

和文英訳の添削

生徒が「先生、この訳、これで良いですか?」と鉛筆だけで書いたノートを持ってきても、私は見ないことにしている。
 だって、答えを持ってるんだもん、彼ら。
 で、「答えがあるでしょ?」と言うと、「でも、自分の訳がこれで良いのかどうかがわからないから」とおっしゃる。
 そんなの、当たり前だよ。
 「別に、そんなの、いいじゃない。」ということにしている。それよりも大事なことがあるからだ。「より良い答え(というか、訳の仕方)」を身に付けることである。もし、自分の答えと模範解答が違っていたら、模範解答にある表現を覚えて、次に備えれば良いだけの話である。「今の自分の答え」がどれくらいであろうと、そんなの、どうだって良いじゃないか。試験で出来るのは、「自分にとって精一杯の良い答え」を書くことだけである。ただひたすら、そこを目指せばいいのであって、今現在の実力なんて、どうだって良いじゃないか。
 で、↑この理屈がわからない生徒は、私ははっきり言って、大して伸びないと思う。

相変わらず言葉足らずの文章であり、これだけ見ると一部から非難囂々(ごうごう)な気がする(人のことが言えた口ではないが)。というかこれだけ読むと大半の人は誤解してしまう。ような気がする。後ろのほうをよむとまあ納得できないこともないのだが。

 定期試験はもちろん、高校生になってまでの小テストの数々、それで、合格、不合格の判断がされる。合格したら、それで良し、しなかったら、するまで頑張る。この行為の意味は、自分自身は、常に外部(自分ではない人ね)評価に因ってしか確認できない、という弱さだと思う。

これ、学校以外でも言える気がする。社会人が英語を勉強すると言うとすぐにTOEICが何点だとか言う話になる(少なくとも世間的には)。漢検でもそうだ。○○という漢字について知っている、ということよりも、漢検○級を持っている、ということのほうが重要だと思っている風儀がある。重要なことは例えば貸借対照表をとりあえず読めるようになることかもしれないのに、簿記○級を持っている、ということのほうが大事だと思っているかのように感じられるようなところがある。だから、最低合格点で合格することが最も効率的で合理的で賢明なやり方だと思っている。
そうじゃないんだぜ。それだと判定者の思うままだぜ?

ま、いまに始まった話じゃないんだけどね。

それでも、「英訳は、やっぱりきちんと見てやらないと、出来るようにならないよ」と言う人は多いだろう。それは、主語動詞の文構造が全く理解できてないレベルの話である。そこそこ出来るのなら、後は、自分で出来る。うん。
 自分は過去形で書いたのに、模範解答が現在完了になっているのなら、「あ、そうか。こういう状況では現在完了を使うのか」と学べばよいだけの話である。で、授業で、私は絶えず、作文を書く上での注意事項というか着眼点は言っている。だから、ちゃんと自分でやれ。

上の、「もし、自分の答えと模範解答が違っていたら、模範解答にある表現を覚えて、次に備えれば良いだけの話である。」ともかぶるのだが、勉強はそんな穏やかな場合ばっかりじゃないと思う。「あ、そうか。こういう状況では現在完了を使うのか」だと。そんな気楽な人間に勉強ができるのだろうか?

なに? 現在完了だと? なぜ過去形ではいけないのだ? なぜ現在完了でなければいけないのだ? 私自身がごく自然に導き出した「過去形」という回答が通用するのを妨害するのは誰だ? どこのどいつだ?

激しく問うてほしいところだ。そして、考えたり調べたり訊いたりしているうちにだんだん或いは突然理由が分かるようになる(どこのどいつだ?の答えが「あ、俺だ」なときもままある。自分で自分をボコボコにしてスッキリするというパターン)。そうすると激しい感情は収まる。にこにこしていられるようになる。激しい感情を経ているので定着率が高く、なかなか忘れない
もちろん、気楽にやったほうが身に付くときもある。それは人それぞれだし、場合にもおおいによるだろう。でも、なんというか、「叩き付けるような激情なしに勉強はできない」という場合あると思うんだ。「あ、そうか。」派「なんだと?」派、とでも名付けようか。

感情の起伏を伴う勉強法のほうが、起伏を伴わない勉強法よりも、定着率が高い場合が多いのではないかと私は思う。これぞ差分学習のポイントというか。勉強とはあるいは独り相撲を取ることなのかもしれない。

それからもう一つ思うのは、彼らはとにかく今の自分の相対的な位置を知りたがっているということである。
 彼らが興味あるのは、これから目指すべき未来の自分ではなく、今の自分なのである。で、たぶん、「今どこにいるのかがわからなかったら、どこに進んで良いのかわからない」という感情である。

「今どこにいるのか」を「自分だけの力でも発見できるようになる」ために、勉強するんだよね。いずれ書こうと思っていたのだが、よい機会であるので少し触れておこう。

「上手い」とは何か
絵が上手い人は、手に技術があるのではない。目が精確に形を捉えていて、手が描く線の狂いを感知できる。つまり、「上手い」というのは、ほとんどの場合、「測定精度の高さ」なのである。たとえば、料理の上手い下手は、最終的にはその人の舌の精度に行き着く。
 ラジコン飛行機の操縦が上手いか下手かは、飛行機の姿勢をいかに精確に捉えられるか、という目で決まる。咄嗟に舵が打てるか、適切な舵が打てるか、といった問題は大したことではない。工作が上手いかどうかも、常に材料を精確に測定できるか、にかかっている。狂いのない飛行機を作れる人は、小さな狂いを見ることができる人である。精確な位置に穴があけられる人は、精確な位置に罫書きができる人だ。
 もう少しわかりやすく説明すると、「どんなとき、どうすれば良いか」といった知識は誰でも簡単に学べるが、一番難しいのは「今がどんなときか」を感知することであって、これは知識としては学べない。現在の位置や状態を的確に把握できれば、もう「上手い」も同然なのである。

森博嗣先生も指摘しておられるように、「今がどんなときか」を感知することはたしかにとっても難しい。でも、これは同時にとっても重要なことでもある。この「とっても重要なこと」を、他人から教えてもらってばっかりいるだけでは、他人がいなくなったりしたときに、「今がどんなときか」をちゃんと知ることができなくなってしまう。
受験偏差値でなんぼであるとか、TOEICで何点であるとか、そういうのはすべて「今がどんなときか」という情報を完全に外部に頼っているのである。これはちょっと危険だな。危険というよりも、もったいない。自分には判定能力がないと早々に決めつけているわけだからね。ああ、もったいない!

よりふさわし表現、より多くの語彙を身に付ければいいだけの話である。それなのに、自分の知っている語彙で、「これではいけないんですか?」と質問する。そんなのどうだって良いじゃないか。新しい表現を覚えていけば良いだけで、今現在の自分の力でやりくりする必要なんて何もない
 で、「ああ、これでも良いよ」と言うと、もう新しい表現を覚えようとしないのである。うん。このことに対して、私は確信を持っている。なぜなら、もしも「あなたの表現はこれこれの状態の場合なら良いけど、これこれの状況で使えないね。」と言ったとしたら、「これでも良いんですよね」と、とても嬉しそうな返答が返ってくる確率が猛烈に高いことを経験的に知っているからである。彼らの表情に「私はもっと学ばなければならない」という気概は微塵も感じられない。「だって、これであっているのだから、私はちゃんと出来ているのだから、これ以上、学ぶ必要がない」と内心思っているのが見えるのである。彼らは「ほら、先生、今の私で良いでしょ?」ということを確認したいのである。50点でも、80点でも、50点分80点分の自分が認められればそれでいいのである。何が足りないのかより、自分が今持っているモノを確認したいのである。


なんというか、合切袋に新しいものを放り込むことが重要であるということを、ちゃんと教えてもらっていない若しくはどこかで学んでいないんだな。
結果の評価もいいけど、「どれくらい成長したか」という評価も併せてしたほうが、生徒に新しいことを学ばせる意欲を喚起するためには必要なのかもしれない。もちろんこれは次善策なんだけれど、いまよりはましな気がするよ。

 と言うわけで、私は真っ新な英訳の添削はしない。自分で添削などをして、そのうえで何らかの疑問を持った場合などは受けるよ、もちろん。

さきに言え!(笑)

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