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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「派遣村」叩きに日本の国民性を思う
強者が世間の波に溺れる失業者を「稼ぎもしないのに助けてくれと要求ばかりする連中はゴミだ」と考えるのはそれなりに合理的だ(倫理的に立派なことではないが)。

合理的ではないと思う(見方によっては)。だって、子どもは「稼ぎもしないのに助けてくれと要求ばかりする連中」だから。「もう子どもじゃないんだから」というのは、年齢的にはそうだが、実際的にはそうではないから「こういうこと」になってるんじゃないのか?

「年齢的には子どもじゃないが、実際的には子どもな人」がいたとき、まずなにをすべきか?

その人が子どもな状態から脱出するにはどうしたらいいかを考えて、それを手伝ってあげるのがいいんじゃないか。
それを、手伝ってあげるんじゃなくて、いじめてどうする?

いや、「いじめる」なんて用語を使うのは不謹慎かもしれない。それって、相手を「子ども扱い」しているということだから。こちら側からは「実際的に子ども」っぽく見えているが、その判断能力はあくまで私自身の能力のみによって担保されている。もしかしたら、自分のほうが「子ども」なのかもしれないのである。それを、「自分は大人で相手は子ども」という構図を相手に強要することを前提として、「いじめてどうする?」的な放言を任意の第三者に向かって吐くのは、またこれもちょっと違うように思う。


だが、ネットで弱者叩きにいそしんでいる人たちがそのような強者であるとはとても信じられない。「溺れて必死に助けを求める人を手漕ぎボートの主が小突き回し、そのすぐ横を大型船が行く」という絵が目に浮かぶ。手漕ぎボート氏は大型船の引き波で自分のちっぽけな船が転覆する可能性に気付いていない。

なんというかさ、「俺は強者で、奴らは弱者」という今の自分には似つかわしくない物語への憧憬なんではないだろうか。「俺は強者で、奴らは弱者」という物語を最も実感できるときというのは、「自らが持つその強大な力を行使してみて、実際に奴らを一網打尽的になぎ払うことができた」ときである。例えばRPGとかでさ、ボスとかラスボスとかに、強大な力をふるわれて主人公キャラたちが全滅したときに、僕たちは「ボスとかラスボスとかの圧倒的な強さ」を実感するよね。これを役割を入れ替えて考えてみればいい。「ムスカ大佐がラピュタのいかずちを体現し、ほとんど瞬間的に撃滅せられてゆく兵隊たち」という物語を視聴しているときに僕たちは、「ムスカ大佐と兵隊たちの圧倒的な力の差」というものを感情移入的に実感する。そして、この物語において、強者の、つまりムスカ大佐の立場に対して感情移入してみることは、一種の強者的な快感があるわけ。「リアルの俺は強者じゃないけど、フィクションを読んでいる間だけは強者的快感に浸れる」という自己慰撫的な作用があるわけ。

自己慰撫的な作用自体は、不思議なことでもなんでもなくって、僕たちが僕たちの好きなフィクションを読むときにふつーにやってることなんだけど、問題は、派遣村の報道に対して反応するときでさえ、小説を読んでいるときと全く同じ反応の仕方をしている、ということなんだな。リアルの問題として捉えられていないというか。所詮は岸辺の向こう側の話であると捉えている人が大半であるというか。

もちろん、派遣村の報道のなかには、実態とは少し違う、つまりリアルでない、フィクション的な部分も多少は含まれているだろうけれど、それを割り引いたとしてもだ、やっぱり上で指摘したことっていうのは妥当するところがあると思うよ。

それから最後に一つ。実際の強者はたぶん、「俺は強者で、奴らは弱者」なんて言うチンケな物語は信じていないということ。「強者はきっと、この物語を実際に体現して、強者の立場をリアルで実現していることから感情的な利益を引き出しているに違いない」という推論そのものがお子ちゃまの推論であるということに、いまよりももっと多くの人たちが、気づいてくれたならば、僕たちの社会はもっと住みよい社会になるんではないだろうか。




09.01.30追記:

大筋同意します さん、ご訪問&コメントありがとうございます。

強弱の別って、どうやって判断するんでしょう。そんなもの、相対的なものじゃないでしょうか。仮に、私が強者だとして、私がAという個体を弱者だと、推論、判断、認識、どっちでもいいですが、したとき、その推論、・、・、自体、おそらく、客観性を持ちません。主体的なものです。今申し上げたこと自体も客観性を持ちませんし、逆に、主体性が滲み出ている気がします。

おそらく、ほとんどの人間が、推論自体を過大にもしくは過少に評価したとしたら、一体、その推論や、主体性や客観性、って、誰がどうやって、どう決めるんでしょう。

そもそも、適正に評価できる人なんてこの世の中にいるのでしょうか。

それは決めるのではなく、決まる、というこれまで積み重ねてきた、自然知や経験知に、引いては、未知に、眠るものではないかと、私は推論をしますが。

お察しの通り、強者を区別する判断自体は主観的なものです。

僕が「実際の強者」と言ったのは、「客観的に判断された強者」「社会的合意を得ている強者」という意味で言ったのではなく、「「俺は強者で奴らは弱者」という物語を信じたがる人々が勝手に妄想しているところの強者(に対応する実際の人たち。の一部)」という意味で言いました。

客観的、という言葉は、実は結構扱いの難しい言葉かもしれません。次の拙entryで関連事項について考察しています。参考になればと思います。

「寄り添う」にはね、2種類あるんだよ@「先生はえらい」をめぐる冒険その2


補足:たぶん、タイトル欄と名前欄を間違われたものとお察ししますが、もしそうでしたら、できるだけ名前を書いてください。


コメント
この記事へのコメント
実際の強者はたぶん、「俺は強者で、奴らは弱者」なんて言うチンケな物語は信じていないということ。「強者はきっと、この物語を実際に体現して、強者の立場をリアルで実現していることから感情的な利益を引き出しているに違いない」という推論そのものがお子ちゃまの推論であるということに、いまよりももっと多くの人たちが、気づいてくれたならば、僕たちの社会はもっと住みよい社会になるんではないだろうか。

強弱の別って、どうやって判断するんでしょう。そんなもの、相対的なものじゃないでしょうか。仮に、私が強者だとして、私がAという個体を弱者だと、推論、判断、認識、どっちでもいいですが、したとき、その推論、・、・、自体、おそらく、客観性を持ちません。主体的なものです。今申し上げたこと自体も客観性を持ちませんし、逆に、主体性が滲み出ている気がします。

おそらく、ほとんどの人間が、推論自体を過大にもしくは過少に評価したとしたら、一体、その推論や、主体性や客観性、って、誰がどうやって、どう決めるんでしょう。

そもそも、適正に評価できる人なんてこの世の中にいるのでしょうか。

それは決めるのではなく、決まる、というこれまで積み重ねてきた、自然知や経験知に、引いては、未知に、眠るものではないかと、私は推論をしますが。
2009/01/29(木) 12:51 | URL | 大筋同意します #-[ 編集]
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