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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「日本語が亡びるとき」と「母の本能」と「多様性」
その昔三大普遍語に含まれていたフランス語とドイツ語は、要するに「できるとカッコいい外国語」である。日本だけでなくアメリカでもそうだ。これには、歴史的経緯と、言語の背後にある「芸術・学問・文化」の蓄積が作用している。しかし、商売の役にはあまり立たない。これに対し、アメリカで習う外国語として手近なスペイン語は、たいして「カッコよくない」外国語。芝刈りやお掃除をする人々のコトバだからだ。

今注目は中国語だが、将来性は確かにあるものの、せっかくの長い歴史と伝統を過去1世紀ぐらい連敗が続いて帳消しにしてしまい、「カッコいい外国語」とはいえなくなっている。また、将来性でなく現在のことを見る限り、「中国語圏の富」の規模は、日本語圏と比べてまだ小さく、その割に中国語のできる人の数が、日本語のできる人の数より圧倒的に多い、つまり「そのコトバのできる人あたりアクセスできる富の絶対量」は日本語のほうがまだまだ大きい。フランス語やドイツ語と比べても同じ比較が成り立つ。その上、日英バイリンガルはさらに希少価値。だから、90年代のように日本が「ホット」でなくなったとはいえ、まだまだ日本語は「おトク」なのだ。

そして、今や日本語は、フランス語・ドイツ語と比肩するまではまだいかないにしても、スペイン語や中国語と比べれば、「カッコよさ」から言っても上かな、という感覚があると思う。そういうわけで、全くどの外国とも縁のないアメリカ人でも、どれかを習うとしたら、「日本語」という選択肢は、今のところかなり現実的だろう。

「格好いい外国語」としての日本語、という提案。確かに、日本語が将来的にいまのフランス語・ドイツ語と同レベルの地位を確保することができれば、日本語の将来は「まだ」安心してよい気はする。


別の話。この本の最後の主張部分である、「英語教育は、日本全国中途半端バイリンガルを目指すな、少数を徹底的に鍛えて完璧なバイリンガルにせよ」とうい点

んー、あのですね、そもそも日本生まれ日本育ちで、日本語も英語もバリバリできて、国際的にバリバリ活躍してしまうような人というのは、わざわざ頑張って教育しなくても、勝手にバイリンガルっぽくなってしまうものだと思うのですがどうでしょうか。
というか、現にそうなっていると思いますし。

学校教育がリソースを割かないといけないことは、「エリート教育」よりも「全体の底上げ」です。「エリート教育」に関して言えば、最もやるべきことは「エリート(の卵)が伸びようとしているのを邪魔しないこと」です。

私がそう思った理由は、「だって、日本人全部なんてそもそも無理だから」という単純なことだが、この本では、その背景をもっときちんと説明しているので、読むべし。

そして、「日本語教育をもっときちんとやれ」というお話の部分。この本では、「広い範囲のレベルの高い文学をもっと読ませろ」ということを言っているが、もっと実利的な私の観点からいうと、無味乾燥な文でいいから、他人が理解できる文を書くための「訓練」をもっとやってほしい、と切に思う。

--- 略 ---

文筆家でない、普通の人が社会に出て使う文章というのは、ある程度、パターンが決まっている。主題があって、副主題がいくつかあって、そこに説明や例を入れていく。要素を分解して、それぞれの枠を一つづつ埋めていけば、相手が読んで意味のわかる文章が書ける。そういう「マニュアル的」「機械的」なやり方でいいから、最初に教えてくれないものか、と思う。

--- 略 ---

一方、ウチの子供達はアメリカの学校で、マニュアル的な文章を書く訓練をやっている。それを見て、「昔、日本語でこれをやって欲しかった!」と、(物書きを生業とする)亭主も私も、顔を見合わせて思わず同じことを言った。

--- 略 ---

そして、日本語で「機械的な文章」をとりあえず書ければ、それを機械的に英語に置き換えれば、とりあえず「人に意味がわかってもらえる文章」が書ける。感動させるような美文でなくてもよい。とりあえず、それで英語のメールが書ける。

英語というツールを習う前に、あるいは完璧なバイリンガルになる少数のエリート以外の人でも、まずは日本語で「機械的な文章」を書けるようにすべきじゃないだろうか、と思う。なんでもかんでも、「ケータイ・メール」のせいにしている場合ではないのである。

まあ、大意には同意する。
こういう意見は、別に今に始まったことではなくて、何十年も前から言われていることだと思うし、まただからこそ、『レポートの組み立て方』『理科系の作文技術』みたいな本が社会的に需要ありまくりなんだと思うし(つまり、学校教育の不備をこういう本が補ってる)、一方で、こういう本が補完してくれているせいで学校教育はなかなか変われない(変わる必要がないから変わらない)という側面もあるなあと。ママ(木下是雄氏等)がなんでも手伝っちゃうから子ども(文科省等)がいつまで経っても自立できない、という側面もまたあるわけで。

でね、気になったのは、「機械的」「マニュアル的」って言う部分。ここは注意しないといけない。というのは、topic sentenceとかparagraphとかintroとbodyとconclusionなどの「構造」はマニュアル的でもいいけど、どういうフレーズを使うかっていう部分はマニュアル的じゃいけないと思うのよね。ここに注意しないと、「痛い英語、つまらない英語」に類する状況になってしまう危険性がある------ とちょっと思った。

知り合いの日本のお母さんが、「最近の学校っていうのは、何も教えてくれない。水泳のクラスでも、レベル分けして、水泳教室行ってる子は上のレベルで勝手に泳がしてるだけ、全く泳げない子は、プールの中で歩いてるだけだ。泳ぎ方は自分で水泳教室で習え、ってことか!」と憤慨していたが、文章を書くという点についても同じことを思う。

--- 略 ---

日本の学校で私が習った中でも、また今子供達が日本語補習校で習う中でも、こういった訓練はあまりない。作文の書き方といえば、「原稿用紙のマスの使い方」しか教えてくれない。(いまどき原稿用紙かいな・・・)読書感想文というのは、最初の何行で簡単にテーマを書き、次に主張したい点をいくつ書き出し、それに何を何行ずつぐらい、場面を例にあげて書き・・・みたいに、最初に教えてくれれば私だって書けただろうに、何もなしにいきなり「この本の感想文、夏休みの宿題」と言われ、「好きなように書きなさい」と言われる割に、「あらすじばかりしか書いてない」とか「面白かった、だけじゃダメ」とか、ダメダメばかり。読書感想文は大嫌いだった。「読書百遍、意自ずから通ず」とばかりに、いろいろ読んでいるうちに自然に書けるだろう、みたいなやり方のように見える。これでは、文章を書くということ自体を、子供達が嫌いになってしまう。

--- 略 ---

「最近の若い者は文章が書けない」と憤る「若くない者」が多いけれど、どだいこの教育では、自力で書けるようになれる才能のある人、または別の人からちゃんと教わるチャンスのある人以外、「機械的な文章」を上手く書けるわけないと思う。そしてそれは、文章そのものだけでなく、「思考回路」が理路整然としていない、ということにもつながり、またそのために「普段からのつきあいのない人に対して、上手く話ができない、理解してもらえることを話せない」という問題につながっていく。

いやあ、僕がかつて言いたかったことの一つのすべてが鮮やかに文章化されているのでちょっと感動してしまったんですが(笑)
こういう感覚を抱いている人って、一定数いるんですよね。

水泳で言うと、できる人は、うまい人が泳いでいるのを見るだけで、見よう見まねを繰り返しているうちに泳げるようになっちゃうんだけれども、
できない人というのは、実際にコーチに足と手を掴んでもらって「こういうふうに動かすんや」っていうふうに、外部的な力によって強制的に筋肉の使い方を指令されないとできるようにならないんだ。

日本語・英語についても同じことが言えてね、書ける人って言うのは、うまい文章を読みまくってるだけで、なんか書けちゃうような気がしてきて実際に書けちゃうんだけど、書けない人っていうのは、「こういうときは、こう」みたいに、ロボットでもできる単純作業にいちいち落として教えてあげないと、できるようにはならない。

英語でも似たようなことが言える。英文和訳の授業で、生徒を当てて和訳をさせる。そのときに英語の先生はどういう指導をしているか。生徒の訳が名訳だったときに「そうですね。いい訳ですね。」と言うだけで終わっていないかどうか。もし、このように言うだけで終わっちゃうと、「最初から名訳ができる奴はできるし、できない奴はできない」という、「授業のはじめと終わりでどの生徒の学力も全然変化しない」ということになっちゃいます。上で指摘されている水泳の話もこれと同じ問題ですね。

日本では、人の背中を見て学ばせる、見よう見まねで学ばせるのが最も誰にとっても良い教育であると言う信憑が高いので、こういうことになっちゃってるんですね。

学校がやるべきことは「差分学習の介助」であって、というかそのために先生がいるんですよね。
「自分の間違っている答え」と「正しいとされている答え」の溝がどうやったら埋まるのか、というところを手助けするために、先生とか、クラスの同級生とかがいる。一斉授業を聴くだけなんだったら動画配信で済むわけでして。

でも、できない子が、こういうことの重要性を叫ぶということは、あまりないんだな。
というのは、こういうふうに叫ぶことはちょっと格好悪いことだから。
「おれはアホです、鈍くさいです」って堂々と宣言してるようなもんだから。

だから、こういうことは明示的に語られることが少ない。
問題があることに感づいている人は潜在的には相当いると思うのだが、それを表明しちゃうことは「おれはアホです」って言うことも同時に表明しちゃうことになるので、なかなか言えない。そういう構造がこのなかには潜んでる。だから問題が放置されたままになっているということもある。

コメント
この記事へのコメント
アホか
2009/01/27(火) 11:41 | URL |   #-[ 編集]
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