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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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記事「博士進学者で就職先ないない言ってる人、なぜ塾や中学・高校で教えないのですか?」に寄せられた代表的な意見に対する回答を書いてみました。
Q1: 実験系は暇がない

私の知っている人で、博士課程時代に、昼は高校で授業して、夜は大学で実験して、って人がいましたが、そこまでできる人は少ないでしょう。普通の人がやったら身体をこわします。奨学金をもらう、学内の補佐的アルバイトをする、研究員に準じる職をもらう、くらいしか現実的な方法がないらしいのもたしかです。

でも、実験系だからきつい、理論系や文系だからきつくない、ってのもほんとうはおかしいのですがね(参考:実験系統の院生は,朝から晩まで(あるいは晩から朝まで)実験しているんですから,数学だってたっぷり時間をかけないと身につかないのは当然)。

文人や数学者の場合は、草むしりしながら数学のことを考えることができますが、実験研究者の場合は、それがしにくい(?)のが難点なのかなと思います。



Q2:研究がしたいのではなくて、学歴がほしいだけでは?

大学院というのは、そういう人は自動的に脱落できる便利な仕組みになっています(おもしろくなくて続かないから)。

問題は、教員から尻をたたかれて研究に励み、博士号を取っちゃうケースです。
大学教授の社会的地位が高すぎることも問題かもしれません。十分に大学教授の社会的地位が下がることができれば、それ目的で目指す人がいなくなり、研究したい人だけが残るようになり、大学は健全化するでしょう。


Q3:中高教員は肉体労働である

運動になっていいと思います。文化人類学や動物生態学や社会調査のような、フィールドワークのある分野は別ですが、研究室にこもって黙々とやっているだけでは身体がなまってしまいます。ときには授業でもして、大きな声を出しましょう。お腹の底から声を出すというのは結構気持ちいいものですよ。

また、授業をすることでコミュニケーション能力も磨かれます。初心者に分かりやすく話す能力も磨くことができます。そうでなくとも今日、科学コミュニケーションであるとか、異分野交流とか言うことが盛んに叫ばれる時代です。生まれつき教師として向いていない人でなければ、将来自分の研究内容や分野について、知らない人に話すとき、そういう授業をした経験というのはきっと生きてくると思います。


Q4:教育なめられすぎだと思う

なめられているわけではありません。適材適所という言葉があります。
中高教員は大学を出ていないとなれないので、「バカではなれません」が、逆に、「そこそこできれば」なれます(参考:教師をやっているような奴は、中学時代に委員長や部活のキャプテンくらいしているだろうし、アホでは大学も採用試験もパスできないので、学年では上位でそれなりの成績だったはずだ。しかしトップのエリートではないし、本当のエリートなら教師なんかしてないわな(笑))。
教育業というのは中途半端な能力の持ち主にぴったりの職種なんですね。これを皮肉と捉える方は教育の本質を誤解していると思います。
中高教員でない教育業でも、内実は同じです。同じような、ナアナアな、ウダウダな感じです。家庭教師派遣業者の多くは家庭教師をろくに教育してないし、教育関連書籍や雑誌を出版する人も、例えば、大学は文学部で教育関連の出版社に就職した人が「君、大学国立だったよね? じゃあ受験のときセンターで受けてるから数学も分かるね。」ってな感じで数学の教材制作を任されたりします。

でも、いまその「大学を卒業している人はそこそこできる」というこの神話が崩壊しようとしています。少子化と、全国の大学総定員枠の激増によって、大学の合格ラインが下がっているからです。こうなってくると、そこそこすらできない人たち(というのは、具体的には、事務処理がまるでできない奴、マンガ字しか書けない奴、いまどきパソコンも使えない奴、生徒の方がしっかりしていて逆に注意される奴、指示された教材研究をやってこない奴、全校朝礼で生徒の前に立って校長に紹介されているのに、気をつけも休めもできないでぐにゃぐにゃしてる馬鹿、ダメダメなのに「絶対教師になりたいんです」とか思い込みの激しい奴、などのことを指します)が、教育現場になだれ込んできます。現になだれ込んできているというふうに聞きます。

では何ができるか、ということですが、私は、教育実習で教員の適不適を判定してちゃんと落とせる仕組みを実現すること、大学院なところで頑張っている人たちのうち教員としても適性のある人たちに兼務して頂くようにすること、この2つが重要だと考えています。潜在的な供給元は相当あると思います。


Q5:中高教員は忙しくて研究する時間が持てない

年齢が上がると「自分の研究」をする時間がだんだん持てなくなってくるのは、自分の資産で自宅に研究所を開設する場合を除いて、それは大学でも企業でも変わらないことです。高校だけが特別に悪待遇なわけではありません。


Q6:夏目や芥川はもともと多彩だったのでは?

逆ではないでしょうか。
芥川は分かりませんが、私は漱石を「新聞社に抜擢された」というふうに書きましたが、より正確には、小説家と英語教師を両立できなくなって、英語教師のほうをやめた、と言うべきなのかもしれません。例えば、森鴎外は医者と小説家をずっと両立させています。漱石は2足のわらじをはけない不器用な人だったから、専業にならざるを得なかった、ということではないでしょうか。


Q7:受験以外の勉強が下火

そうですね。これを変えていくことが、大学院な人たちにもっと教育現場に来てもらうためにまず整備しないといけないことではないかと思います。
具体的にどうするか、ですが、いくつかの議論があります。

一つは、どうやったら子どもたちに植え付けられた「勉強しないことへの動機付け」を解除できるのか、を考えることです。

「勉強しないことへの動機付け」というのは、「今のままでいいんだ、俺は変化しなくていいんだ、ということを是認する評価基準を発見することに自分のリソースを優先的に配分する傾向」のことです。これは、永井俊哉氏の言う努力の分類の話における3番目のそれに相当します。リソースの分配先に関しても同じことが言えます。

成功するための努力には、次の三つのレベルがある。

   1. 物理的なエネルギーを注ぎ込むたんなる努力
   2. 方法を工夫してみようする努力
   3. 自分の個性を生かせる評価基準を見つけようとする努力

つまり、昔は子どもたちは学校で、1.や2.の努力を主にしていたのだが、最近の子どもたちは、3.の努力ばかりするようになった、だから、「勉強しないことへの動機付け」が強すぎる結果になっている、ということなんですね。なんでこの変化(1.2.→3.の変化)が起きたのかというと、個性の尊重ということを、誤解した人が多かったからですね。
学校(小中高)という場所は、1.や2.の努力をするべき場所です。なぜなら、まずは万人に通用する評価基準で、ある程度のことができるようになっておかないと、個性(というハイリスクハイリターンなシロモノ)が破綻したときに立ち返る場所がなくなるからです。
どうしても学校(小中高)で3.の努力をしたければ、こっそりとやるか、1.2.のレベルの努力を十全に尽くした上でやるべきでしょう。

例えば、大学を出てから次のようなことを言う人がいても私は別に有害に思いません。

ニートになった感想
僕は、高校には寝るために行ってたし、大学も4年制のところをきっちり5年かけて単位ギリギリで卒業した割とフリーダムな人間ですが、何だかんだでレールの上に乗っかって生きてきました。ここまで自由になったのははじめてですが、実際に手にして見ると、自由ってそんなにいいもんでもないですよね。

なにが有害なのかというと、こういう考え方を、小中高校生が本気でそうなのだと思ってしまい、「学校において1.2.のレベルの努力を放棄することは全然問題がないことなんだ」と思ってしまうことです。
この有害性は、単にそう思ってしまった子どもただ一人にとどまりません。「子どもネットワーク」というのは「おばちゃんネットワーク」と同じくらいの波及力がありますから(最近はそうでもないのかな)、場合によってはポジティブ・フィードバックがかかってクラスの大半がそれを信じていた、なんてことにもなりかねないのですね。こうなってしまうと、どんな先生が教えようとも、非常に苦労することになります。


Q8:以前は教壇立ってて研究者という人も多かった

そう。いまその古き良き美風、共同体の構成要員としての自覚に根ざした美風が、いま、失われているのです。これを取り戻すためにはどうしたらいいか、ということを考える必要があります。

私はそのためには、いまの子どもたちが置かれているような、「横のつながり」だけではなくて、「縦のつながり」を強化することが重要だと考えています。
いまから一世代二世代前の人たちというのは、6人兄弟とか10人兄弟とかが当たり前だったわけですね。そういうなかで、自分よりずっと年下の者からも学び、自分よりずっと年上の者からも学びしてきたわけですね。そういうものがあったから、「マスメディア的な単純で分かりやすいセンセーショナルなイデオロギーへのしがみつき」といった病態を取らなくてもアイデンティティの維持が可能だったわけですね。

いま、ネットを初めとするIT技術に端を発する趨勢に押されて、テレビとか新聞とか既存のメディアが押されがちになっていると聞きますが、「このさきに何があるのか」ということに思いを馳せるとき、私は、「学びの最も原初的な状態への回帰」以外に今のところ思いつきません。

人類の歴史を振り返ってみても、同一年齢の人間ばかり集められて、一方的に、一斉に教育をするというのは、たかだか100年200年の歴史しかないわけですね。それ以前は、3歳の子どもから22歳の大学生の年齢の子までが「同じ一つ屋根の下の学舎のもとに集い」、相互啓発的に学びを深めていたのですね。これが学舎(まなびや)の最も原初的で本質的で基幹的な形態であるということを私たちはもっと自覚する必要があるように思います。


Q9:中高では研究者は必ずしも歓迎されない

自分の分野の周辺に関する知識にも十分に通じている研究者が少なすぎることに原因があると思います。
なんで少なすぎるのかというと、日本ではそういうふうには研究者を育てていないからです。参考URLを載せておきます。また時間があれば私も補足したいと思います(参考:大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか)。


Q10:研究者は研究だけしていたい。研究以外のことは研究の妨げにしかならない。

「研究以外のことなんだが、生活のためにしかたなくやる」という発想がそもそもなんか違う気がします。

あなたはいま誰のおかげで研究ができているのですか? その能力はほんとうに自分の力だけで身につけたものですか? ほとんどの人はそうではないと思います。だったら、その自分の能力を社会に還元してくださいよ。良き能力を持っている人がその能力を使わないのは社会の損失です。

なんでこういうことが起こるかというと、研究と教育を分けて考えてる人が多いからなんですね。この2つが同じだと思えない。少なくとも、「どこかで繋がっている」と思えない。そういう「関連づけ能力の欠如」が今日の研究と教育の大いなる分離をもたらしめているのです。

僕の主張の要諦は、こうです。→ 能力のある人が、その能力を使わないのは罪である。それは、金をたくさん持っている人が、ちゃんと使わないで退蔵しているのと同じ意味で罪です。

せっかく持っているのなら社会のために役立てましょう!



まだ書き足りない点はありますが、とりあえず以上です。


09.01.26追記:

Yuu Arimuraさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

> 乗ス外の「医者」はだいぶ意味合いが違うと思うけどなあ。人事権を持つ官僚として偉くなって、現場に出ていたわけではないし。

官僚と小説家を両立できていたのなら、立派な「二足のわらじ」だと思いますが…。


■09.02.09追記:
一応、続きなエントリーです。

高度分業体制になればなるほど、忘れがちなことがあります

コメント
この記事へのコメント
鷗外の「医者」はだいぶ意味合いが違うと思うけどなあ。人事権を持つ官僚として偉くなって、現場に出ていたわけではないし。
2009/01/25(日) 09:50 | URL | Yuu Arimura #SK37aRGQ[ 編集]
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今と昔の休みのとり方に関する感覚の激突を象徴するような内容です。賛否両論があるのは関心がある証拠でもあります。タブーを議論することは、わだかまりを解消するのに最も適した方法だと思います。細部の記事をご紹介します。
2009/03/18(水) | econewss
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