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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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患者参加型NBM(Narrative Based Medicine)の実践を(pdf です)
NBM は,1998年に英国のTrisha Greenhalgh氏らによって提唱された言葉である.「ナラティブ」とは「語り」あるいは「物語」という意味である.この NBMとは,自分の体や病気 について患者の「ナラティブ」を真摯に受け止め,対話を通してそれを深めることにより,患者のアウトカムを良くし,満足度を高めようという考え方である 16,17) .また,NBMによって医師・患者双方の考えを共有すること自体には,医師の診断プロセスに役立ち,治療効果を向上させることも指摘されている.つまり, 患者の「語り」は,重要な処置や判断を下すことに影響を及ぼす可能性がある.近年まで強調されてきたEBM(evidence based medicine)に対し,その反省を促し,補完的な意味を持つ考え方がNBMである.しかし,EBMとNBMは相容れないものではなく,適切な診断・治 療にはともに欠かせない要素である.
あのさ、EBMでもさ、

データか らどういうストーリーを立ち上げるかってのは、必ずしも一意ではない

よね。

そこんとこに関する認識を間違えちゃうと、つまり、データを神様としてあがめちゃうと、なんか違ってくる気がする。

なんというか、

データの なかにも神様である部分と神様でない部分がある

というか・・・。

そもそもデータを取っているのは人間なのであって、人間というのはきわめて不完全なシロモノなのであって、だから、そこんとこに関する認識屋ね。

自然界自体は、100%神様だけれど、自然界から情報を取り出しだしてくる過程自体は不完全な人間が担っているわけで。

データの、神様部分と非神様部分を見分ける眼力を持っておくことが、EBM、というか、EBMだけとちゃうけど、エビデンスベースドな語り口を採用するす べての人々に要求されることだと思う。

いや、当たり前のことだけど忘れやすいんで。



医療と物語論
最近、人文・社会科学の広い領域で、「物語narrative」が一つのキーワードになっています。また医療の領域 でも、NBM (narrative based medicine)という言葉が象徴するように、「物語」が注目を集め始めています。私の専門である生命倫理学、医療倫理学にとっても非常に重要な概念で あると考えています。もっといえば、倫理学というものに対して、大きな意味を持ってくるように考えています。
 この「物語」という概念、あるいはそれを考える「物語論narratology」という学問は、もとは文学批評の領域のものでしたが、学問の垣根を超え て「参照」されているようです。ここでは、文学的な物語論ではなく、生命、医療というものを考える上で「物語」とは何なのかについて研究を行っています。
〈物語〉とは何か? 新潟大学医学部保健学科 宮坂道夫

医療者が関心を抱く物語とは、患者が病や実人生について語る〈生の物語=life narrative〉である。しかし、物語という言葉を聞いてまず思い浮かぶのは、『源氏物語』のような文学作品としての物語の方だろう。患者の語る物語 と文学フィクションとではまったく別物に思える。しかし、両者をよくよく比べていくと、実はそんなに大きな違いはないことがわかってくる。どちらも始まり があって、終わりがある。語り口は様々だが、様々な出来事の叙述がある。患者の物語も文学作品も、例えばカルテのような〈事実の記述〉以上の情報を含んで いる。そこに登場する人々がとった行動だけでなく、その時に何を見て、何を思ったかが語られる。〈語られないこと〉もある。何を語り、何を語らないかを取 捨選択するのは、患者であり、作者である。  このような類似性は、文学研究の一領域である〈物語論=narratology〉では、もはや当然のこととして受け入れられている。たとえば、ジュネッ トによれば、物語とは?物語内容(イストワール)(語られた出来事の総体)、?物語言説(レシ)(それらの出来事を物語る、発話されるか書かれるかした言 説)、?語り(ナラシオン)(語るという行為そのもの)という三つの側面を持っている。『源氏物語』といえば、私たちはその話の内容(物語内容)にばかり 注目しがちだが、語り手と聴き手の存在や、語り聴くという行為、および物語を伝える媒体にまで視点が拡大しているのである。
このような視点の拡大は、現代思想の潮流と深く関係している。その潮流をあえて一言でいうならば、〈正当なものとして権威づけら れ、固定されたまなざしの正当性への疑問〉といえるように思える。たとえば、「正常者」と「異常者」の線引きへの疑問(フー コー『狂気の歴史』)、「世界の中心」である西洋社会と「辺境」である非西洋社会という世界認識への疑問(レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』)、政治や経 済の歴史を「正史」と見なして普通の人々の生活史を記述しない歴史認識への疑問(アリエス『死を前にした人間』)というように。こうした思想家たちは、従 来は顧みられることもなかった「普通の」(あるいは「異端の」)人々がそれぞれに生きている固有の〈生の物語〉の中に、人間や社会の真実を見いだそうとし た。フーコーは精神病患者を長年にわたって観察し、レヴィ・ストロースは文明化されていない部族の中に入って生活を共にしながら彼らを観察した。アリエス は「日曜歴史家」と自称して、一般大衆の日記などを収集した。彼らに共通しているのは、現実は単なる科学的事象とは違って、その現実を生きる人それぞれの 視点によって異なったものであり、さらにそれが語り手から聴き手へと語られることで、意味づけられ、解釈され、形づくられてゆくものだという認識である。
きゃっきゃっきゃっきゃ。

もうさ、視 点=物語、という認識でいいんじゃね?(笑)



たとえば、医学的適応だけでなく、患者のQOLを視野に入れて治療やケアの方法を選択することは、今日では当然のこ ととされているはずだが、QOLの評価は「証拠に基づいた客観的評価」だけでは不可能であり、個々の患者に固有の価値観に基づいて評価すべきものである。 したがって、医療者は、患者個々の生のなかで抱かれている価値観を知るために、患者個々の生の物語に耳を傾けざるをえない。そこからNBMが始まる。
にゃるほd。

QOLの 評価は、証拠に「基づいた客観的評価」だけでは不可能

であり、というくだりが秀逸。



これは患者の立場からすれば歓迎すべきことで、まさに「患者中心の医療」の実践にほかならない。しかし、医療者の側 にとっては必ずしも簡単なことではない。NBMを誠実に実践しようとすると、一つの難問に悩ませられることになる。それは、物語をどう評価し、解釈し、理 解すればよいのかという問題である。患者の物語に耳を傾けること自体はよいとして、その物語をどう捉え、臨床判断にどう反映させてゆけばよいのか。たとえ ば容易に想像がつくリスクは、患者の物語を、医療者の都合や偏見によって過度に単純化してしまったり、「いかにもありがちな」ステレオタイプなストーリー に当てはめてしまうことであろう。「患 者の物語」が、いつの間にか「医療者の物語」に作りかえられてしまう。こうしたことを避けるにはどうしたらよいのか。  この難問に取り組もうとしているのが、早くから物語を積極的に利用してきた領域、つまり精神医学、臨床心理学だと思う。 この領域では、患者の物語を語り聴くことそのものがケアとして成り立っている。医療者は患者の物語を、患者自身が語ったり、意味づけたりするのを促した り、手助けしたりする。ここで紹介することはできないが、どこまで患者の物語に立ち入るべきか、どのような価値観に基づいて意味づけを促すかについて、す でに様々な議論が行われている。
あのさあ、こういうのって、もう、合う合わんで しょ。 違う?

この人(先生)なら私の話(物語)を分かってくれる、

この人(先生)は私の話を分かってくれそうにない、

ということの感覚が、患者の側にはあるでしょ? いや、ともすれば、医者の側にすらあるかもしれない。

だからこういうのを本気で制度的になにかしたいのなら、

いかに相 性の良い2人を引き合わせるか

ということを考えたほうがよい。


・・・というようなことを言うと、IT技術で作り上げたマッチングシステムの導入がどうのこうのという話になって、利権がらみの話になりそうだけど、一番 大事なのは、

お互いが 実際に会ってしゃべってみて、お互いがお互いを判断する

のが最も精度の高い判断で ある、ということかしら?
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