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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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注)理系じゃない人向けの話です。


そのうち突っ込まなきゃ、と思ってたんだけど、のびのびになってしまいました。

数学の原点と物理の原点

は、違うような気がする。
 物理の問題を解くときの原点は、常にその度に設定されるものだった気がする。物理学は「ものの見方」だからそうなるのだろうけど。私が物理が出来なかったのは、その度ごとの原点設定が出来なかったからのような気がする。一方、数学の原点は原点としてしか存在しない。これは絶対に間違いないと思う。問題によってその度ごとに設定されるものではない。原点は原点としか定義しえない。だから数学は抽象の世界だと思う。
 物理が得意な人にとっての原点は、数学の原点と同様に見た瞬間に設定され、あたかも数学の原点のように思われるのだろう。「この問題は、ここに原点を置くしか他に考えようがないじゃないか」だから。
ここで言う原点というのが何を意味しているのかよく知らないのだが(以前、このことでほりさんと一度もめたことがある。かなり遣り取りしたのだが、結局分からず終いだった)、でも、なんかこう直感的に、

この人はとんでもない思い違いをしているかもしれない

と思えるので突っ込ませていただく。



おそらく、ほりさんは、一般的に言うところの「公理系」とか「定義」とか言われる意味で「原点」という言葉を使っているのだと思う。

私の言葉で言えば「出発点」である。「仮定」とか「前提」と言い換えてもいい。


物理でも数学でも、どのような出発点を設けるかということは、非常に大事なことである。

うかつにヘタな出発点を設けちゃうと、そこから話が続かなくなる。

ヘタな出発点を設けちゃうと、出発点から演繹される命題群もしくはその演繹の過程は、たいていの場合、つまらないものになる。

では、どういう出発点を設けると面白くなるのか、であるが、実はこれがとても難しい。

超一流の専門家たちにとっても、とても難しい問題なのである。


身近な例を挙げると、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学である。

ユークリッド幾何学、つまり、義務教育で習う幾何学は、平行な二本の直線は交わらないが、非ユークリッド幾何学では、交わることがある。

なんでそういうことが起こるかというと、出発点が違うからである。

そして、どういう出発点を採用するか、という問題は、或る意味で非常に恣意的である。非論理的である。

出発点をうまく設定するには、論理よりもむしろ感性が求められるのである。


こういうことは、大学レベルの理工系の話を学ぶと「当たり前のことじゃん」ってなるのだが、幸か不幸か、中学や高校では、こういうことをちゃんとは言わない。


なんでかというと、こういうことを言い出すと、大学レベルになってやっと登場するほかのいろいろな作法的なことも全部言わなくちゃいけなくなり、収拾がつかなくなるからである。
もちろん、教師のなかには、そういう大学レベルでやる数学や物理のニュアンスを伝えることの上手な人もいる。

しかし、これは特に数学の場合であるが、高校までの数学と、大学以降の数学というは、全然体系が違うのである。

もう論理の組み立て方からして違っている。


高校までの数学の教科書や参考書は、定義が最初のほうにまとめて記載されていて、あとは、例題や類題を順番に解いていく、というような形式に、だいたいがなっている。

ところが大学の数学の教科書を開くと、

定義1→例題1→定理1&その証明→定理2&その証明→定理3→定理4→定理5→定理6&その証明→定理7・・・・

てな感じになっている。
例題とか、類題とか、そういうのはあまり出てこない。
出てくるのはひたすら定理とその証明である。

具体的にどういう感じか、というのは、適当に大学レベルの本を開いてもらえればいいわけだが、そんな手間も時間もないかもしれないから、web上で見つけたそれっぽい解説動画を載せておく。

この動画では、「なぜ0で割ってはいけないのか?」という素朴な疑問を肴にして、大学の数学っぽく話を展開している。
高校までの数学と、大学以降の数学が、全然違うんだということを、体感していただけたらなと思う。

なぜ0で割ってはいけないのか? リンゴの分配から体の公理までpart1


なぜ0で割ってはいけないのか? リンゴの分配から体の公理までpart2


こういうの(http://q.hatena.ne.jp/1210570897)も参考になるかもしれない。




さて、それでである。

物理の問題を解くときの原点は、常にその度に設定されるものだった気がする。物理学は「ものの見方」だからそうなるのだろうけど。私が物理が出来なかったのは、その度ごとの原点設定が出来なかったからのような気がする。

高校物理では、出発点をどう置くか、というか、物理現象を数式で表現するためには、どのようなかたちで高校数学を用いればよいか、というようなことを、問題ごとに考えなくちゃいけない。
ここで言われている「常にその度に設定されるものだった」というのは、そういうことを指しているんではないかと思う。


一方、数学の原点は原点としてしか存在しない。これは絶対に間違いないと思う。問題によってその度ごとに設定されるものではない。

これが錯覚であるl。
「先生たちが、或いは教科書が、出発点を教えてくれていた」だけである。

ほんとうは、これは、どういう出発点が望ましいか、ということは、自分で考えなくちゃいけないことなのである。

もちろん、高校の数学の教科書にのっているような「出発点」は、たくさんの数学の専門家によって「これは出発点として認めていいでしょう」という認定をうけているので、まあ、受け入れても差し支えないかなと思う。

実際、高校数学の問題を解く際には、あまりそういうことは意識しなくても解けるようになっている。

でも、高校数学という枠組みから一歩離れたら、もはやその常識は通用しないんだということを、頭の片隅にとめておいてほしい。


これは絶対に間違いないと思う。問題によってその度ごとに設定されるものではない。
うしろのほうの文は、たぶん正しい(高校までの範囲で考える限り)。
でも、前半は、やっぱり違ってると思う。
「絶対に」という修飾語が付いているあたり、「現代の中高の数学教育の弊害がここに出ている」感をよりいっそう強めざるをえない。

こういう弊害が出ないように、ほんとうは教えるべきなんだろうけれど、それを言い出すと、科学リテラシーとかの話でも同じことが言えて、どの教科・科目を論じる人も、自分が論じている教科・科目の時間数を増やせとくるから、収拾がつかなくなる。

結局、自分で勉強するしかないのである。

本屋や図書館に行く、詳しそうな友人に訊く、とかでもいいが、web上ではありがたい資料がたくさん提供されているので、これを機に「自分で勉強して」いただけたなら、私としてこれに勝る幸いはない。
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