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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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名文より明快文 - 書評 - 非論理的な人のための論理的文章の書き方入門
かつての、少なくとも20年前までの「国語」において重視されていたのは、曖昧な文書から真意を読む、読解力だったように思う。娘たちの国語の教科書を斜め読みしても、この点においてはあまり変わっていない。「この著者が言いたいことは何なのか」?「そんなの著者にもわからねーよ」という「著者のつっこみ」はちょっとした風物詩にさえなっている。

あ、

学校の国語が、入試問題等において訊かれる「作者の言いたいことは何か」という問いに対する模範解答を作者が見てあきれかえったり、作者による「おれはそんなこと思ってないよ、そんなことを言いたかったのではないよ。模範解答おかしいね。」なる批判が出現してもなお、現行の学校における国語の在り方は、そのような批判に動じることなく粛々と今日も遂行され続けている理由が、
現行の学校の国語教育制度は強力な国家的伝統的バックボーンを擁しているからである、ということだけではない、
ということ

に、この文章を読んでハッと気づいた。

というか思い出した。


テクストは、原作者の意図を離れて解釈されることがあることを。

そしてそれは必ずしも「誤解」ではなく、人類社会に有益なる恩恵をもたらす何かであり得ることがあるといことを。

原作者が無意識のうちにテクスト中に忍び込ませていた何某かの内容ないし含意に、

原作者ですら気づかなかったような含意に、

原作者ではない読み手が、「ハタと気づく」ということが往々にしてあり得る。



書き手は、自分の書いた内容をすべて理解していると思ったら大間違いだ。

もちろん、「説明文」においては、

自分の書いた内容をすべて理解している

ということが前提されていることは、特に私たちが科学的態度を取り、科学的に物事を処理し、語り、聴こうとするときにおいては、非常に重要な条件である。

理系的なプレゼンの場において、「それなんなんですか? 説明してくださいよ。」と質問が来たときに、
さあ…、何なんでしょうねぇ。私にもよく分からないんですよ…。
なんて頼りのないことを言ったら、即座に退場勧告を受けるか、内心で「こいつアホとちゃうか」と思われるかのいずれかであろうことは想像に難くない。



だが、文学的なプレゼン(というのがあるのかどうか知らないが)の場においては、このよう応対は、必ずしもルール違反ではないように思われるのだ。

「そう、そう。そうだよね。自分がなにを言っているのか自分でもよく分からない、って、きわめて健全な、健康的な状態だよね。
 それをなんだ、誰だ、あたかも「自分がなにを言ってるか俺は100%分かっている」などとのたまうのは。無知の無知も良いところだ。人間に関する基本的理解が欠けているとしか言いようがないね。」

というふうに切り返されても「仕方がない」ように思う。


「自分の言ってることを自分は100%理解している」というのは、
原理的には「かなり無理のある」条件なのではないか、と思う。


ただ、この「無理」を無理矢理にでも仮定しなければ話がそこから先に進まない業界がある。

それが、科学的な業界であり、理系的な業界なのだろう。


ところで、あらゆる命題の論理学的な正しさは、その命題が演繹されるもとになっている仮定に不備がある場合、まったく無意味なものとなってしまうことが往々にしてあり得る。

だから、この、理系的な業界ではなかば常識化しているこの「自分の言ってることを100%理解している」という仮定も、もしこの仮定が間違っているということであったならば、
この上に展開されたあらゆる議論or結論は、無意味化してしまう可能性を帯びている。

だから、理系的な業界のなかで生きることがあるすべての人は、この仮定がどの程度、どの範囲で、どのような状況下で正当性を持ち得、また逆に、どのような状況下でなら正当性を持ち得ないのか、に関して、時には意識してみたほうが、
より豊かな知的生活が営めるのではないかと、素朴に思うわけである。



「作者に寄り添う」読み方にも2種類あるのではないか。
(作者に寄り添う場合とテクストに寄り添う場合の2種類)
(あ、寄り添うの定義は「相手の立場に立って物事を考えてみる」ね。実際にできる/たかどうかではなく、「やってみる」というところに本義がある。)


(1)文学的な文章

一つは、文学的な文章を読む際の、作者に寄り添う。
これはどちらかというと、作者に寄り添っているというよりかは、書かれたテクストに寄り添っているのである。

内田樹氏はレヴィナス氏に会った際に、大変歓迎されたそうだが、もし歓迎されなかったならば、内田氏はレヴィナス氏の書き物の価値を減じただろうか。

私はそうは思わない。

もし歓迎されなかったならば、「なぜこの人は歓迎しないのか」というふうな問いをあるいはただちに想起したのではないか、というふうに思われるのである。

いやな想像だが、もしかしたらレヴィナス氏は、内田氏が期待したほどの人物では、実際はないのかもしれない。

でも、「そうだ」と仮定していろいろ考えたりやったりしてみたら、ものすごく自分にとって学ぶところが大きかった、ということを事後的に知った、というところだろう。

そういう意味では、現行の学校教育における国語は、「作者の意図を読む」というよりも「なんかよう知らんけどこんなところにテクストが落ちていた。だれが書いたのかもいつ書かれたものなのかも知らねえけど、読み上げてみたらなんか楽しくなってこない? 書き写してみたらなんか楽しくなってこない?」
というような意気込みで、文章に対峙することを求めるものであると言えよう。
そういうような意気込みで、文章に対峙する態度を涵養することが、現行の学校教育における国語の「目的」であると推察することができよう。


ところでこの最初の「そうだ」なる仮定は、或る意味賭けである。

私たちは或るテキストに対しては「そうだ」と思い、また別のテクストに対しては「そうだ」とは思わない。

最初の判断はつねに直感的な判断である。

言うなればこれは、「ある問題が解けないうちから「これは解ける」と直感的に分かる」知性の構造と同型的である。



(2)理系的な文章

では、理系的な業界で生きることのある諸氏は、
かかる業界で生きる際に必須となるこの「自分の言ってることが何であるかは分かっている」とい大前提or仮定に対して、いかなる実感を得ているのだろうか。

この仮定に対して、
「この仮定は信じられる」という、いまだ立証されていない問題に対する答えを直感できているがゆえに彼らは、この仮定になんら疑義を抱くことなく、のうのうと今日も理系的ライフをエンジョイできている、ということなのだろうか。

この仮定に疑義を抱かない人だけが理系的ライフをエンジョイでき、
疑義を抱いちゃうほどに「無知の知」がきわまっている人は逆に理系的ライフをエンジョイできない。

そういうことなのだろうか。
そういうことでよろしいのだろうか。

わたしはあまりよろしくないように思う。

思うのだが、いまはこれ以上うまく説明できぬ。

筆を置くことをお許し頂きたい(to: 将来の、私を含むすべての読み手へ)。



追記1(UPは本文と同時期):

読み返してみて思ったのは、(1)と(2)が、

これって、

寄り添う相手が、生身の人間でなければならないか、

別に生身の人間であろうがなかろうがそんなことはどうでもよく、相手=寄り添い対象は、
寄り添おうとしている主体者の妄想上の人物、
寄り添おうとしている主体者の頭の中にしか存在しない空想上の架空の人物、
であっても全然問題ないか

の違いではないか思った。


なんというか、すごい人、自分が見習うべき人を勝手に頭のなかで妄想するということが、実に有益であるということを、知ってる人と知らない人がいるというか。


別の言い方をすると、(2)っていうのは、

「生身の人間の言ったことでなければ、価値がない」
「生身の人間の言ったことでなければ、理解しようとすることそれ自体がはなはだ無意味だ。」という命題を肯定してはじめて成立する。


これに対して(1)は、

「生身の人間の言ったことでなくても、それから自分がなにか学べそうであるならば、おおいに活用してやろうじゃないか」といった気概というか、厚かましさというか、貪欲さがその背後に感じられる。


人間というものを、「一生学び続ける者、あるいは、学び続けなければいけない者」として規定するとき、(2)よりも(1)のほうが、より優秀な見解であると断じてやまない。

この規定は、
「人間といえども生物の一員であり、いかなる生物もなにがしかの仕事をせずにはすぐに自らの命を潰えさせてしまうから、一時たりとも気を緩めることはできないのだ。私たちの全員が、命を抱え込んでいる存在である限り、学ぶことを放棄することはほとんどの場合、みずから死期を早める行為に同じである。」
という命題によって裏打ちされていて、
そして、この命題はどの私たちにとっても普遍的に妥当することであるから、

以上を鑑みる限り、(1)ではなく(2)を採択することはおかしいと言わざるを得ない。

とはいえ、
(2)を採択してみた結果、(2)を採択しなかった場合には判明しなかった様々な知見が、得られるようになった
という事実自体は、私たちは認めなければならないだろう。


なぜ、人間と生き物への観察に基づく思惟の結果が教えること((2)ではなく(1)を採択すべし)と反することが生起しているのか。

観察or思惟が甘いから。

なるほどそうかもしれぬ。

では「どういうふうに甘いのか」説明できるかね?


・・・ちょっと考える時間をください(^^;



追記2(UPは本文と同時期):


追記1の答えだけど、

(1)はさ、主体者が誰かとコミュニケーションすることが、必ずしも前提されていないわけ。(孤高でもよい、というか。)

(2)ではなく(1)を採択すべし、という一連の議論および結論は、例えば、
無人島で一人で、一切の他の人々との交流を絶って住んでいる人にも等しく適用可能な命題なわけね。

でも、よくよく考えてみると、そんな人は非常に少ないわけで。

ほとんどの人は、「誰かとコミュニケーションするであろう」という命題を肯定しておく必要がある。

そして、誰かとコミュニケーションするときに、お互いがお互いに、
「生身の人間としての相手に寄り添うのではなく、それぞれが発した言葉から想像された架空の人物に寄り添う」ということを以てコミュニケーションを開始したならば、どうであろう。

これはたぶん、ふつう我々がよく言う意味でのコミュニケーションにはならないんではないかと思う。


言うなればこれは、

お寺で複数人の禅僧が座っていて、あるとき、不意にある禅僧が
「ハッ、フッ、ヘッ、ぎゃぎゃぎゃ」
と大声で叫び(この叫んだ瞬間にその禅僧は何かを学んだor発見したor気づいたのだろう)、
また別のあるときに別の禅僧が、
「やややや、けけけけ、ららら、りりり、ねねね、わわ、をを、ららー」
と叫ぶ、
というような状況を、誰一人として不思議がらないような状況

であると言えよう。

(注:私は禅僧の実際について詳しくありません。禅僧の本来的な意味について詳しい方、私が非専門家が抱きがちなイメージだけで禅僧の概念を援用することによって、禅僧の本来的な意味を傷つけるようなことが、もしありましたら、是非、この概念についての「よりただしい理解」をご教示くださいませ。)


言うまでもなく、これは理系的なコミュニケーションの在り方ではない。

理系的なコミュニケーションの在り方はもっと明示的で明証的で、すべての命題は可視化可能で、
可視化されたすべてのテクストの意味については、
「原理的には、そのテクストをしたためた作者に聴けば100%了解されうる」
(もし了解されないとすればそれはおまえの読解力不足or書き手の表現力不足だ)
という前提で、全員が話している。コミュニケーションしている。


文学的なコミュニケーションにおける、例えばさきほどの例で言えば、「やややや、けけけけ」が何を意味しているのか、については、この言葉を発した生身の人間に訊いたところで、たぶん分からない。

そして、かかる生身の人間は、べつに頑張って教えなくてもいいことになっている。

これが理系的な場であったならばそうはいかない。

テクストの説明責任は必ず原作者に帰されるので、原作者が説明できないということが判明した瞬間から、そのテクストの価値はゼロに暴落する。



追記3(UPは本文と同時期):

気になるのは、

理系的遣り取りが人類史的に積み重ねの学問たり得るのはほとんど明らかだけれど、
なぜ文学的遣り取りもまた、ちゃんとした、積み重ねの学問たりえるのか、と言うところである。

きゃきゃきゃきゃ、がががが、と叫んでいるだけでは、理系的なメガネを掛けて見る限り、なにを言ってるのかさっぱり分からない。

また、この分からなさに対して、あくまでも理系的なメガネを掛け続けていることにこだわる限り、せいぜいこの先に待っている新たな意味は、

これは品詞で言うと何詞に分類されるのかとか(例:これは感嘆詞かな?)、
音韻学的にはどうかだとか、

そういう表面的な、目に見える、「客観的に観測可能なものそれ自体」が、そのような(時空間的)配置たりえている理由、何某かの制約を受けていそうであるのだがその制約の根拠、などなどについて分析するのがオチだ。

結局、「きゃきゃきゃきゃ」と発した人が、その発したときに感じていた心の変化を追体験してみるということは、叶わないままである。

これが、
物心付いたときにはすでに、どちらかというと文学的というよりかは理系的な物の見方に偏重していた人間(子ども)が、小学校的な国語の授業においてなした、理系的な物の見方に即して考出した回答が、国語の教師から「見当違いである」と一蹴される(のだがなぜ一蹴されるのかよく分からないままになってしまい、国語嫌いになる)
一つの根拠なのである。



追記4(UPは本文と同時期):

復習しましょう。

理系的なコミュニケーションにおいては、
あるテクストの文責を追求していった際に、それが最終的にきちんと生身の人間(いま生きている人間orかつて生きていた人間)に落ちるか、終着点が生身の人間であるか、
ということが厳格にチェックされます。

そして、この条件に合わないコミュニケーションは、「コミュニケーションに値しない」として排除されます。

一方、文学的なコミュニケーションにおいては、
あるテクストの文責が、かならずしも生身の人間に落ちる必要はありません。


比喩的に言えば、文学的なコミュニケーションにおいては、

俺がやったんとちゃうもん。俺の手がやってんもん。」という、小学生レベルの言い訳が、正論として、堂々と罷り通ってしまう業界である、

というふうに言うことができるでしょう。


ある言論・言説の行為に通常付随する有責性の宛先(の終着点)が「生身の人間」でなければならない、ということを大前提としている科学(自然科学)や法学(社会科学)とは、ぜんぜん違う業界である、
というふうに言うことができるでしょう。


ことほどさように、文学的な業界においては、ある言論・言説の行為に付随する有責性の宛先が「生身の人間」であることを必ずしも要求しません。

ある言論・言説の行為に付随する有責性の宛先が必ず生身の人間でなければならない、などという縛りは、人間たちの間にしばしば起こる紛争を、公平&公正&穏便に解決するための一時的な手段であり、方便にすぎません。

「こういう縛りを用意しておくと、文化や伝統や考え方がそもそも的に全然違う人たちの間でも、いちおう、それなりの、コミュニケーションが可能ですよ」
というくらいのものでしか無いのです。もともとは。

だから文学的遣り取りと理系的遣り取りと、どっちのほうが長い伝統があるのか、と言われれば、これは人類史的はあきらかに前者でしょう。

そもそも私たちの遠い祖先は、言葉などまだ話していなかった頃の先祖たちは、ぎゃぎゃぎゃぎゃ、とか、がががが、とかいう、言葉を言っていいのかどうかすら怪しいような音声を、まずは発していたはずなのです。


個々人が単に、ぎゃぎゃぎゃぎゃ、とか、がががが、とか叫んでいる状態、つまり、おのおのの妄想の間に相互作用が存在しない状態においては、まだ言語は誕生しません。

言語が誕生するためには、隣の人がなんか知らんけど発した「ぎゃぎゃぎゃぎゃ」という言葉の意味を、写経的に感得する必要があるのです。

少なくともそういう人が集団内に一人はいなければ、私たちの遠い祖先らの間に、言語というものは、誕生することができません。

だから写経的感得というのは極めて人間的な行為なのです。
人間と人間でないものを分け隔てる境界線であると断じてもさして過言ではないのです。
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