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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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同じ内容を、管理人がそれぞれ異なる場所に掲載することは、内容の公然性を保証する上で重要であると考えます。



<<<本文>>>

ほりさん、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新年早々、コメントを頂け光栄にございます。


私は、私自身の解釈には、特段大きな誤解はないと存じております。

私が記事中で示した見解は、確かに「ほりさんが力説せんとされたところ」からは若干ずれている可能性はありますが、私はそれを「誤解」などとは呼びたくありません。

こういうのは、「誤解」ではなく、「相手の意図するところを読み解こうする試みから、図らずも、全然別の、新しい問題を発見し、それを解決していた」と言うのです。

新しい問題が日の目を見、それが解決されることは、これは人類の遺産(財産)に一つの、小さいけれども確実な、方便の一つを付け加えることですから、これは決して、無意味なことではありません。

(え? 無意味でなくても有害かもしれないって? ふむ、確かに否定はできませんね。しかし、有害かもしれないものを野放しにしておくことの公益は、計り知れないものがあると思いますよ。「推定有罪」がいかに無益であるかは、ほりさんご自身が実感なさっていることではないかとお察しします。)




ほりさんは、ご自身のブログにて

> 「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。

とお書きになっています。

私はこの「いかなる環境をも選ばずに」という部分が、とても大切なのではないかと思いました。

これはすなわち、「どんな先生に当たろうとも、文句一つ言わずにちゃんと生きていける力」のことです。

このことからは、

「先生にいいも悪いもない」
「いい先生も悪い先生もない」

ということが、言えそうな気がします。

実際、内田樹著『先生はえらい』は、そのことについて何百ページも割いて叙述されているのだと思いますし、内田氏やほりさんが何度も言及されている「大石先生」についても、事の本質は同根であるとお察し致します。

また私自身、この『先生はえらい』なる書物を、なんども首肯しながら読みましたし、自分のこれまでの行ないや考えてきたことに照らして不整合がないことを何度も確認しながら、実感しながら読みました。

また、かつその叙述がほりさんのおっしゃることと不整合がないこともまた、何度も確認しながら、実感しながら読みました。

はい。




さて、ここからが問題です。

私は、 そ の う え で 、「さて、ではいい先生とは何でしょうか?」と問うてみているのですね。

分かります?

いや、たぶんお分かりにならないのではないかと思います。

人によってはこれを、

「おい、いや、ちょっと待て、いま、良い先生も悪い先生もないって言ったばかりじゃねーか。」

とか

「おい、いや、ちょっと待て、それって、『先生はえらい?』の内容について、おまえ、全然理解してねーんじゃねーの?」

という風に切り返す御仁もさぞかしたくさんおられることでしょう。

それは承知しています。

承知していますよ。

承知しています。

しかし、それでもなお、やはり、私は、なんとなく、「そのうえで、では、いい先生とは何でしょうか?」と問いかけなければならない気がするのです。

気がするのだから仕方がない。

私のこの「気がする」に、ほりさんが共感されるかされないかは、私の知ったことではないです。

また、「おまえがそのような『気がする』のは、それはおまえが『分かってない』からだ。」と英断なさるのは自由です。

ただ、私自身は、「そのような判断からは、なにも生まれないのではないか」と案じております。




話を元に戻します。

「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」というのは、確かに、ほりさんの記事に対する解釈としては誤りなのかもしれませんが、
ほりさんの記事に私自身が勝手に触発されて、「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」なる考えを発想したのだとすれば、これは誤解でもなんでもありません。

私は現に、「教えようとして学ぶ者はほんとうに学ぶことができる。」ということを、ほりさんの記事を読むことで、思いつく乃至は思い出すことができました。

また、私はその考えに着想を得て、

「子ども」に焦点を当て、「子どもの学び」について追求していった結果としての「先生はえらい」説



「先生」に焦点を当て、「先生自身の学びと成長」につい追求していった結果としての、「先生はえらい」説への懐疑

が、これは単に「扱っている主題の違いゆえの背馳」ということではなく、
もっときちんとした仕方で止揚可能であるのではないかということに思い至り、

「良い教師とはなんじゃらほい?」

という、この単純なしかしながら傍証の豊富さにおいては盤石の強さを誇るこの「先生はえらい」説への挑戦

を試みるに至ったのです。

(でありますからして、こういう背景をたどることなくなされる、私の「『先生はえらい』説への挑戦」の試みへの批判は、すべて無効であると考えております。)



確かに、ほりさんのおっしゃる通り、「先生はえらい」説、つまり、「良い先生かどうかということは、子どもの学びとはなんの関係もないことだ」とする説は、「教えるのが上手な先生、下手な先生」というような物言い自体を禁止します。

ほりさんがこの観点から、すなわち、「先生はえらい」説に立脚した視点から、

> 「「教えるのが上手」という言葉の意味を、「子ども自らが、誰かに教えるということを念頭に置いて学ぶようにし向ける教師は教えるのが上手」という風に理解するならOK。」ではありません。

という風におっしゃるのは理にかなっています。

がしかし、「私の言いたかったこと」「私が気づいたこと」はそこではなかったということを、どうかご理解いただければと思います。


さしあたっては言葉を尽くしたつもりでございますが、不足ないしは不明な点、お気づきの点があればいつでもご指摘くださいませ。



追伸:

唐突すぎて理解されないかもしれないけれど、実を言うと、
「Psyche氏のとある意見」と「madographos氏とほりさんのとある意見」の対立に対する止揚を私が書きしぶったことのツケが、ここに来ているのですね。

思いついておきながらそれを書いてみたりすることをせず放置するのは、これは怠惰と呼ばれるものでしょう。

やっぱり、思いついたことはすぐに書くべきであるなあとひしひしと感じます。

私の怠惰が、今回のような「小さな波乱」を呼び起こしてしまいましたことをどうかお許しくださいませ。




あ、これ、消さないでね。

消したら ○ンデレ認定くだします(笑



2009.1.4 22:05追記:



教えることと学ぶこと(補足したら長くなった)のコメント欄より



「先生はえらい」への挑戦は、陥りやすい落とし穴なんです (ほり(管理人))

2009-01-04 18:55:44

あくまでも「先生はえらい」のです。



heisanさん、ごめんね。

やっぱりコメント、控えて下さい。






予想通り(と言っちゃうと失礼なんだけど)のお返事でしたww



なんというか、突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいのか分からないんですが・・・
(笑



つくづく、人間というのは、見たいものしか見えないんだなって思うよ・・。



そしてまた、見たいものしか見えていない人間に、こっちが見させたいものを見せるのがどれだけ大変か



ということがよく分かるよまったく・・・・・・。



こういうのはやっぱり、僕みたいな「界隈の者」がいくら騒いでもダメなわけで。



やっぱり、ほり氏の私淑する養老先生にガツンと言っていただくより他はないのかなぁ・・・・・・。なーん
て。



ま、ほり氏が私の言わんとするところを理解しないor理解したがらないことそれ自体からくる実害もしくは公害というのは、基本的には無いわけなので、まあ無視してもいいっちゃいいわけなんだが・・・・・・。





ま、いいですよ。そのうち書いていきますから。



「先生はえらい」のさきにあるものがなんであるのか、ということをね。





「先生はえらい」のさきにあるものがある、と思うこと自体がピットフォールである、と主張するのならば(←実はこの主張自体が、ユダヤ差別問題を取り巻く構造と同型をなしていそうなのだが)、



論拠を示しつつ理知的に分析的にスパッと(orふにゃふにゃ)語るか、論拠を示さずにふにゃふにゃと語るか、このどちらかであってもらいたいものである。



論拠を示さずにスパッと語られるのが一番タチがわるい



それどこの言論統制国家? それどこの洗脳国家?



論拠を示さずにスパッと語っていいのは、古典だけだと思う。



なんでかって?



それはね、古典は、「長年の風雪に耐えてきた」という実績があるから。






















ふにゃ スパッ
論拠 示す

(丁寧or慎重な説明)


(よくある説明)
示さない

(@常識の手柄)
△※

(古典or思いつき)



※思いつきなら思いつきで、ふにゃふにゃしておれば良いのに、思いつきを根拠に相手に「黙れ」と怒鳴りつけるなどルール違反もいいところ。




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