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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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(注:文字のハイライトはすべて筆者注)

目次

  1. main
    1. 出発点としての違和感
    2. 反論・批判・批評の原則としての斟酌
    3. 結論と今後の展望
  2. 補遺
    1. 斟酌に掛かる時間
    2. 斟酌力と感情表現力の独立性
  3. 余談
    1. 国語版ケアレスミス






main

出発点としての違和感

違和感?

最近ブログ上でよく目にする言葉に
「違和感」という言葉がある。

他人の記事や主張に対するコメントなどで
よく使われているようである。

しかしながらよく考えてみると,
他人の意見は自分の意見ではないのであるから,
多かれ少なかれ違和感を覚えるのはあたりまえのことである。
その段階では, 他人の意見に対してあれこれ言うべきではない
違和感を覚えたことを表明することには,
なんの価値もないばかりか,
相手に対して失礼でさえある。

違和感を覚えて,
その後,よく考えて自分の意見を構築してはじめて,
つまり,「異議」を唱える準備ができてはじめて,
表明する価値があるのである。

学校における話し合いでもこのことには
十分注意する必要がある。

他人の意見に対して,
「なんか違う」とか
「なんだかわからないけどおかしい」とかいう発言を
決して容認すべきではない。
その段階では発言すべきではないことを
きちんと教えなければならない。
それが,民主社会のマナーである。

他人の意見に対して,自分の意見をしっかりまとめてから
「これこれこういう点であなたの意見に反論します。
 その理由はかくかくしかじか」 という形の
異議となってはじめて,
表明する価値があるのである。

安易に「違和感」を表明してしまう社会には,
危惧を覚えている。



違和感という言葉は、実は私も気になっていた。
なんとなく気になっていたところにこの記事を拝見したので、思わずいろいろなことを考えてしまった。

私がこの記事を見て即座に思い出したのは、内田先生による次の記事である。
なぜ私がこの記事を即座に思い出したかというと、madographosさんの意見と内田先生の意見は背馳するのではないかと思われたからだ。


そんなの常識

「常識」についてはこれまで何度も書いているが、「そんなの常識だろ」 というのは私たちがものごとを判断する上で、たいへんたいせつな知性の働きである。

まず、第一に「常識」というのは即自的に「常識」であるわけではないからである。
私が「そんなの常識だろ」と憤然と言った場合でも、言われた当人は「お前の言うことのどこが常識なんだよ。 何年何月からそれが常識になったんだ。どこからどこまでの地域で常識なんだよ」とただちに反論する権利が保証されており、 私はその異議に対しては絶句する他ないからである。
そう。常識というのは「常識じゃない」のである。
「常識じゃない」からこその常識なのである。
ややこしい話ですまない。
常識にはその正しさを支える客観的基盤が存在しない。
「エヴィデンス・ベーストの常識」というものは存在しない。
常識というのは外形的・数値的なエヴィデンスでは基礎づけられないけれど、 個人の内心深いところで確信せらるるところの知見のことなのである。
いや、お前の言うこと、 おかしいよ。うまくいえないけど、それって常識的に考えて、おかしいよ
というのが常識の表白のされ方である。
常識の表明はつねにこのように「うまくいえないけれど」「論拠を示せないけれど」 「どうして自分がそのように考えるに至ったのかの理路を明らかにできないけれど」という無数の「けれど」に媒介されて行われる。
この「不安定さ」 が常識の手柄なのである。
常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」にならない。常識は「汎通的妥当性」を要求できない。
この無数の「できない」が常識の頼もしさを担保している。
人は決して常識の名において戦争を始めたり、テロを命じたり、法悦境に入ったり、詩的熱狂を享受したりするころとができない。
自分の確信に確信が持てないからである。
なんか、 そうじゃないかなって気はするんだけど、別に確たる根拠があるわけじゃなくて、でも、なんか、そうじゃないかなって・・・ 」というようなぐちゃぐちゃと気弱な立場にある人間は、他人に向かって「黙れ」とどなりつけたり、「戦え」と命じたり、 「死ね」と呪ったりすることはできない。
そんなの「非常識」だからである。
私は人間社会は「真理」ではなく、 「常識」の上に構築されるべきであると考えている。
というのは、「常識」的判断は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからである。
人間の知性のもっとも根源的で重要な働きは「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に『これは解ける』とわかる」 というかたちで現れる。
これまで何度も書いていることだけれど、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」 というのが人間知性に求められていることである。
どうふるまってよいのかについての網羅的なカタログが用意されていて、それと照合しさえすれば、すぐに「とるべき態度」 が決定されるような仕方で私たちの実生活は成り立っていない。
私たちの人生にとってほんとうに重要な分岐点では、結婚相手の選択であれ、株券の売買であれ、 ハイジャックされた飛行機の中でのふるまい方であれ、「どうしてよいかの一般解がない」 状態で最適解をみつけることが私たちに要求される。
理論的に考えると、「どうふるまってよいのかの一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能である。
けれども、「論理的にそんなことは不可能である」と言って済ませていたら、 生きる上で死活的に重要な決定はひとつとして下せないことになる。
そして、実際に私たちはそういうときに正否の準拠枠組み抜きで決断を下しているのである。
何を根拠に?
なんとなく、 こっちの方がいいような気がした」からである。
レヴィ=ストロースはマトグロッソのインディオたちのフィールドワークを通じて、「ブリコルール」という概念を獲得した。
彼らは少人数のバンドでわずかばかりの家財を背負って、ジャングルの中を移動生活していた。
人ひとりが背負える家財の量には限度がある。
だから、道具はできるだけ多機能であることが望ましい。
狩猟具として使え、工具として使え、食器として使え、遊具として使え、呪具としても使える・・・ というような多目的なものであるほど使い勝手がよい。
しかし、「何にでも使えるもの」は逆に一見しただけではどんな使い道があるのかわからない。
だから、ブリコルールは密林を歩いていて、何かを見つけると、それをじっと眺める。
そして、「なんだかよくわからないけれど、そのうち何かの役に立つかもしれない」と思ったら、背中の合切袋に放り込む。 「こんなものでも、いずれ何かの役に立つかも知れない」(Ca peut toujoursservir)というのがブリコルールが対象を取捨選択するときの基準である。
ブリコルールはすべてのものを袋に入れることはできない。なにしろ、袋はひとつしかないのだから。
彼は目の前のものをじっと凝視する。
そこには「何の役に立つかわからないもの」がある。
それが「今後ともまったく役に立たないもの」であるのか「もしかするといつか何かの役に立つのかもしれないもの」 であるかを既存の基準を以て識別することはできない(何の役に立つのかまだわかっていないのだから)。
にもかかわらず、ブリコルールは決断を下して、あるものを棄て、あるものを袋に入れる。
このとき、彼はいったい何を基準にして「いずれその使用価値が知られるはずのもの」と 「いつまでもその使用価値が知られないであろうもの」を識別しているのか。
それをブリコルール自身は言うことができない。
どうして自分にはそれをできるかを言うことが出来ないけれど 「できる」ということがある
それが人間知性のいちばん根源にある力であると私は思っている。
ロジカルに言えば、 「明証をもって基礎づけられない判断は正しい判断ではない」という命題は正しい
けれども、経験的には 「明証をもっては基礎づけられなかったけれど、結果的には正しかった判断を継続的に下すことのできる人」 が私たちのまわりには現に存在する
私はこの「明証を以ては基礎づけられないけれど、なんとなく確信せらるる知見」を「常識」と呼ぶことにしている。
そして、常識の涵養こそが教育の急務であると思っている。
もちろん、私の意見に対して「何を言っておるのかキミは。 常識の涵養が教育上の急務だなどという判断にどういう論拠があるのかただちに具申せよ」 という反論があることは承知している。
だから、「いや、なんか、 よくわかんないけど、そんな気がするんですよね、僕としては」とふにゃふにゃ応接するのである。


反論・批判・批評の原則としての斟酌

   部は、論理的に正しいことを言っていると私が思った部分である。
   部は、論理的にいつも正しいとは限らないが、経験的に正しい可能性が高いと私が思った部分である。

(自分の意見と同じであるはずがない)相手の意見を、相手の立場に立って考えてみる。
そしてその上で、なおも違和感が残っているのであれば、その点について意見を表明する。
そういう在り方は、相手とその相手が置かれている立場というものを十分に斟酌した意見交換の在り方である一方、そうでない在り方は、それを十分に斟酌しない(その立場に立って考えてみるべき必要すらない)在り方であり、それの価値を無根拠にゼロ査定する在り方であるから、これは相手に対する敬意を欠いた在り方であると言える。

内田先生は、「俺がAさんの意見を聞いて、その瞬間「それは違う」と直感的に思ったとき、その思いを、明証によって基礎づけられないうちから表明することは、いけないことでないばかりがむしろ推奨すべきである」と言っているように見える。
平たく言えば、「Aだと思ったからAだと言ったんだ。何が悪い?」ということである。
「俺はAだと思ったからAだと言う。だからおまえも、Aだと思ったんならAだと言えばいいし、Bだと思ったんならBだと言えばいい。それだけのことである。根拠を示すことができなければ発言してはいけないというルールの下では、わたしたちの発言内容はほんとうに貧相なものになってしまう。非常にばかばかしい、ちょっと考えれば分かりそうなことなのに、根拠がないからというだけのことで、発言できないというのは、なんとも勿体ないことのように思える」と、内田先生はおっしゃったように見える。

しかし、これはどうやらちょっと違うようだ。
内田先生がおっしゃったことというのは、「俺がAさんの意見を聞いて、その瞬間「それは違う」と直感的に思ったとき、その思いを、相手の立場に立って眺めてみるというプロセスを一応は頑張って経てみた上で、それでもなお残留した「それは違う」という直感的な思いを、明証によって基礎づけられないうちから表明することは、いけないことでないばかりがむしろ有益である」ということなのである、という風に考えれば、これはmadographosさんの記事内容と背馳しない。

つまり私は、内田先生が陽におっしゃらなかった、私が上で太字で書いた部分について、少なくとも内田先生のこの記事を読んでいる時には、自覚的でなかったのである。

結論と今後の展望

結論としては、「斟酌を伴わない反論・批判・批評は、反論・批判・批評として無効である(無効であるばかりでなく犯罪や公害に近い)」という、まあ言われてみればもっともかなと思えるような話なわけであるが、それでも、私を含むさまざまな、属性を異にする人間が、なんどもなんども繰り返し、この命題に定期的・継続的に言及しなければならないこと、この言及行為の需要が尽きないことそれ自体は、「人間というものはなかなか成長しないものだ」的達観だけでは説明のつかない何かがまだ潜んでいるように思われる。
本質的には同じ内容について、おのおのが自分自身の経験 ------これは一人一人異なっていて、だからこそ考究に値する、複雑で精緻で、時に美しく時に凄惨な様相を私たちの眼界に突きつけてくれるわけであるが------に基づきつつ、手を変え品を変え、それについて考究する者と同じ数だけの方便が生産され続けること、そして今もなおどこかで生産され続けていることには、いったいどのような必然性があってのことであるのか。
こういったことが今後の課題であるように感じる。


補遺

斟酌に掛かる時間

   部でmadographosさんは、「違和感を表明するべきではない」という主張に対して「その段階では」という修飾節を繰り返し使用されている。
人の書いた文章を読むに当たって「ちゃんと理解することよりもすばやく読解することのほうを優先する読み方」を採用する場合において、見落としてしまいがちな箇所である。
繰り返ししつこく書かれていることであるにもかかわらず、見落としてしまうのである。

なぜか。

その答えはおそらく、「人が人の立場に立って物事を考えるには、それなりの時間が必要であるから」ではないだろうか。

このそれなりの時間というのが、どれくらいの規模の時間を指すのか、私はまだよく知らない。
1分なのか、1時間なのか、1日なのか、1週間なのか、1ヶ月なのか、1年なのか、10年なのか、老成円熟して死ぬ間際になってようやく分かることであるのか、それは分からない。今の段階では状況によるとしか言えない。

しかし、私は同時にまた、次のようにも思う。
ここで言う「それなりの時間」というのは少なくとも1秒ではないということだ。これは状況によらない

人間は自分のこと ------ 自分の身に降りかかってくる禍福にどう反応すべきか ------ については1秒以内に判断(反応)できる
しかし、人間は、自分ではない誰かのこと------ 他者の身に降りかかっている禍福がどのように実感される禍福であるのかを実感すること------については、どんなに優れた人でも1秒以内で判断(反応)することはできない
そういうことなのではないかと思う。

人の文章を読んでいる最中に心によぎる違和感は、1秒以内の反応の結果としての違和感であるから、この違和感は、他者の状況に関する斟酌を経ずになされた違和感であると言うことができる。
「他者の状況に関する斟酌を経ずになされた違和感」のみを材料として生産されるところのすべての言葉は、暴力として社会的に機能し出す可能性を帯びている。
それを言語化する人間の「複雑な一瞬の感情というわずかな元手から高い感染力を持つ言葉を立ち上げる能力」(感情表現の能力)が高ければ高いほど、被害も甚大であると言える。

madographosさんは、「安易に「違和感」を表明してしまう社会には危惧を覚える」書いておられるが、この危惧というのは、「益するところがないばかりでなくむしろ害だらけである」という意味をも含むものであると思われる。

斟酌力と感情表現力の独立性

複雑な一瞬の感情を元手にして、高い感染力・高い伝達力を持つ言葉を生産する能力は、言葉に感化され、言葉に導かれ、言葉で理解し、言葉で考える私たちの社会全体にとって欠くことのできないものである。
が、しかし、もしこの能力が、1秒以内の反応の結果としての違和感(斟酌を欠く違和感)を元手として発揮されたらば、この能力がもたらす公益性はただちに掻き消され、ただちに凶器と化する。

なぜなら、複雑な感情を言葉に降ろす能力と、他者の感情を酌む能力は、異なる別々の独立した能力だからである。

斟酌を伴わず感情表現する人間の言葉は、歯切れよく心地よい(か若しくは癪に障る、か若しくは分からない(=無関心))
想定しうる限りの他者への斟酌を伴った人間の語る言葉は、尽きぬ恵みの泉の如く底の知れぬ妙味に満ちている。

ような気がする。



余談

国語版ケアレスミス

   部(その理由はかくかくしかじか)の説明。
ここで使用されている「理由」という言葉の意味を、「内田先生がエンビデンスベーストなんちゃらというときのエビデンス」と同じ意味であると解釈してしまうとまずい。
内田先生がエンビデンスベーストなんちゃらというときの「エビデンス」は、非常に広い意味で使用されているものだと思う。
一方、madographosさんは、その意見の中に「相手の立場に立って考えたという形跡が認められる場合」に限り、それは「理由」であって、そうでない場合は「理由」ではない、という風にこの用語を使用されているのではないかと思った。

なんでこんな(瑣末な)ことをわざわざ指摘するかというと、理由とか根拠とかエビデンスとか言う言葉それ自体からこれを取り巻く状況について考えるとき、こういったことは非常に失念しやすいからである。
少なくとも私はそうである。算数ではアホらしい計算間違いをすることをケアレスミスと言うが、これはさしずめ国語版ケアレスミスとでも言うべきものであろう。
算数のケアレスミスは、10人がチェックすればまず間違いなく発見できるが、この国語版ケアレスミスというのは、10人いても発見されずに見過ごされてしまうことがままあるように思う。

 

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2009/01/09(金) | heis.blog101.fc2.com
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