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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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U氏の友人のヒラカワ様という方のことがちょっと気になったので,ググってみる.
次のような文章が登場する.

http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200505090000/

市井の人間は、日々の生活の中で法律を意識しなくとも、法律の精神の内側でいきてゆけるものである。いや、そういったことを含意した上で法律というものは作られていると俺は理解している。
これは刑事訴訟法のみならず、すべての法律が法律として機能してゆくための条件である。もし法律というものが、人間が生きていくうえの最高の倫理を人間に要求したとすれば、裁判所の前には長蛇の列ができるだろうし、収容所に大半の国民が拘置さてしまうだろう。


ふむ.
どうやら以前に読んだ事のある文章である.
しかし,上の引用部は,以前に私が思わなかったことを私に教えてくれた.
それは,「改憲論者に対するU氏の反論のポイント以外のポイントが実は存在するかもしれない」ということである.
法というものは,「市井の人間は,それを特に意識しなくても自分のやりたいことの大部分を達成することができる」という命題を真にとどめおくという形で,はじめて成立する.
すなわち,法というものは,かかる命題が偽になりそうになると,すかさず自身(法)を変更し,かかる命題が真であるという条件が継続されることを死守する,ということをする.法の文面が移り変わっていく様子を「運動」と呼ぶことに同意いただけるならば,これは「法の運動法則」と申し上げてよろしいであろう.地球上の"物体"には「物体の運動法則」が働くのと同様に,人間集団が共有的に観念する"法"には「法の運動法則」が働く.

さて,先般より「護憲か改憲か云々」といったことが争点になっているのは,「理想の下方修正」にほかならず,そんなことをしていてはそもそも憲法たる意味がないではないか,憲法とは究極の理想だからこそ憲法なのである,というのがさしあたりU氏的主張だったと思うのだが,ここに,上で述べた,法の運動則なるメガネをあてがうと,また別の知見が見えてくる.

それは,「うわぁ,俺が俺の生きたいように生きるためには,このケンポウってやつが邪魔だよなぁ,本当にウットウしいよなぁ」と考える人間の割合が,閾値を上回ったという知見である.

人間は,邪魔物を見つけると,まずそれを排除しようとする.しかし,その排除行為が成功するのは,自分に力があったときのみ(自分の権力者性が充分に高かったときのみ)である.自分を取り巻く周囲の人間の過半が,「それは邪魔物である」という判断に与してくれない場合,自分の権力者性は充分に高くならないので,邪魔物を排除することを諦めざるを得ない.
ところが,もし,「それは確かに邪魔物である」という判断に与してくれる"同志"の数が一定数を上回ったとしたらどうだろうか.独りでは動かせなかった巨大な石も百人でなら動かせるかもしれない.かようにして,自身の邪魔物認定判断に共感してくれる同志の数が増えれば増えるほど,邪魔物を排除できる確率はあがる.

・・・
なぜ「現行憲法って本当にウットウしいようなぁ」と考える人間のパーセンテージがこれほどまでに増えてしまったのであろう.

わたしの身近な人間のうちで,「本国の兵も前線での人的協力をするべきだ」とマジで主張した人間は,今のところただ一人である.彼の話を思い出してみた.彼は「まず僕の話を聞いて.絶対に共感するから.」と自信満々であった様子がありありと思い出される.

わたしが思い出した限り,彼の主張をまとめると,次のようである:「国際社会において,みんながAに行こうと言っているのに,日本だけ,ボソボソっとわけのわからぬことをぶつやきながらBに行くという選択をしている.日本は国際社会とまともなコミュニケーションができていない」

わたしはこの話を思い出して,とっさに,U氏の「酒の席」の話を思い出した.
U氏は,飲み会の場で,自らの健康を気遣って会食していると,飲み会での会話を楽しめなくなるので,「自分は自らの健康を犠牲にしてでも飲み会での会話を楽しむのだ」ということを選択した,というようなことを語っておられる.
さて,この判断基準を,「国際社会における日本の役割」という文脈に当てると,どうであろう.「日本は,自らの健康を犠牲にしてでも(日本兵が前線で戦死するという犠牲を払ってでも),国際社会を構成するみんな(他国ら)との会話(コミュニケーション)を楽しむ(円滑にする)べきだ」という主張が存在しうることを認めざるを得ないのではないだろうか.

論理的にはそうである.
私の意見を言おう.前者の主張と後者の主張は,同じ論法を採用しているから,その論法における非を指摘することを以て突っ込みを入れることはできない.では何を以て突っ込みを入れるか.それは,制約条件の違いである.前者・後者とも,一定の犠牲が発生している.前者の犠牲は,具体的には「ちょっと太ってしまう」「肥満によって或る種の病気に罹り易くなる」というものであるのに対し,後者の犠牲は,「日本人が戦死する」というものである.「前者の重みと後者の重みは,つきとすっぽんほどにかけ離れているであろう」という私の主観的判断には,同意していただける方は多いのではないかと思う.

日本は,「『日本人が戦死する』ということをもう二度と繰り返してはならない」ということを,文化継承の一徳目として登録した民族なのである.
「何を文化継承の対象とするか」は,「各民族がどのようなことに許しがたい憤りを覚えてきたか」ということに対応して決定される.

「わしらの民族では,『Aということをやってはいかん』ということを,文化継承の徳目に登録しとるんじゃ.」

過去の人々の血と汗と涙のもとに創成された遺産である「文化継承」に登録されている一徳目を,たかだか「国際社会での『付き合い』」のために,それを手放すことが,どれほどクールかつロジカルな判断であると言えるだろうか.

「これはわしらが涙して守り通してきた遺産なんじゃ.これだけは譲るわけにはいかんのですよ.な,なんとか理解してくだせえって.」

それで理解をしようとしないとすれば,そういう態度を示す他国自体もまた,或る種の"付き合い"のポテンシャルに欠けた行動しか採ることのできない「心の貧しい国」とのレッテルを貼られたとしても,あまり文句は言えないのではないか.

かように,ここで言う「心の豊かさ・貧しさ」とは,相手の気持ちをどれだけおもんぱかることができるか,推し量ることができるか,というその度量のうちに汲み取られる種類のものであるので,そのような態度を示せないことは,「大人なコミュニケーション」ができている,とは,ちょっと言えないのではないか.


はい,少し論点がずれたようだ.え? 何が論点かって? それはね・・・・・・
重要なのは,「これはわしらが涙して守り通してきた遺産なんじゃ」ということが,後代の者にどれだけ伝わるか,という点である.
人は常に,これにまつわる葛藤をその内部に抱え込む存在である.
「この遺産は,なにやらじいややひいじいが涙して守り通してきた遺産らしいのだが,俺にはこれのありがたみがさっぱり分からない.むしろこんなものは俺がやりたいことをやるには邪魔なんだけど…」というような葛藤である.
「『俺』はじいやの言いつけを,もはや守る必要はない」という結論をくだして且つ疚しさが残らないための,一つの納得のし様は,「爺やの頃とは,時代が違うんだよ」というものである.

「爺やの頃とは,時代が違うんだよ」なる論法が説得力を持つ世代と,そうでない世代がある.そして,「爺やの頃とは時代が違うから」という理由の合理性を心から納得できる人間は,おのが爺やがともすれば命を賭して守り抜いてきた「遺産」をともすればあっけなく手放してしまう.それがディクタトール的英断だと信じているからである.実際,ローマ時代のディクタトールの存在意義はまさに「この種の英断が国益に供することがある」ということを人々の多くが信じていたからにほかならない(←註:素人なので史実的におかしい点があるかも).
「俺が俺の直観に基づいて決める」ほうがいいのか,それとも「爺やたちが語り継いできた判断基準の何がいいのかは自分にはさっぱり分からないのだけれど,"俺の爺やが言うんだから"きっといいことがあるのだろう」として,自分の直観のほうを棄却するほうがいいのか.

いま私は「俺の爺やが言うんだから」というところを,敢えて強調表示にして伏線を敷いてみた.その回収はこうである:「俺の爺やが言うんだから」という理由が説得力を持つための条件は,「家族型互助組織」が重要であるという認識があること(意識的・無意識的かを問わず)である.かかる互助組織が重要であることは,かかる互助組織しか存在しなかった時代においては,本命題はただちに真となる.しかし,「他の互助組織(例:プライベートな互助組織)」ないし「契約型組織」が世の中に出現すると,われわれは,異なる複数種の組織間に,重要度の比重を割り当てるという作業を無意識のうちに行なうようになる.

「俺は家を出てきた.なぜなら俺は家に愛想を尽かしたからだ.俺の家族は崩壊している.家に戻ったってもういいことなんてないことは分かっている.俺は,家族が言う事よりも,俺が学校や職場で築いてきた「プライベートな互助組織」における人間が言う事のほうが,俺にとってはよっぽど分があるんだ」というような人は,半世紀前には,あまりいらっしゃらなかったのではないかと思われる.こういう類型,すなわち,「家族型互助組織の重要度を相対的に低く割り当てる」という選択をした方々の割合が,対人口レベルで無視できないほどに増えてくると,「自分の直観を棄却する事をせず爺やの言いつけのほうを棄却する」という選択をなさる方が増える.これは,護憲・改憲の話とつながってくる話ではなかろうか.

「都合のいいお話」というのは大抵,「もしそのことが顕わになると,判断の結論が覆りかねないような事実」を巧妙に隠蔽することによって形作られる.
その意味では,あい対する論者の攻防では,その相手が語る言動に内在する論理上の綻びを指摘する事や,そこで取り上げられている事象の非現実性を指摘すること以上に,「『巧妙に隠蔽された,ともすれば相手自身もそのことに気づいていないかもしれない事実』の存在を確定する」という指摘を行なうことのほうが,しばしば決定的に肝要である.
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