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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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同業者として恥ずかしい より
で、昨年の英語をみると、「高等学校教科担当者の意見・評価」は、(全部丁寧に読んでるわけでもないけど)a large audience の出題やthat節内の強調構文を「難しい」としている。
 う~ん。。。「大勢の観客、観衆」って、日本語で言うと、どのくらいのレベルなのだろうか。小学生か。それを英語で表現することを大学に入ろうとする者に要求することが、そんなにも「難しい」と判定されることなのだろうか。まあ、日本語の感覚では難しい「集合名詞」だからではあるが、だったら、母語にないからこそ重要かつ習得すべき事項であろう。それなくして何が外国語の学習だろうか。また、大学に入って読む文章に、that節内の強調構文は存在しないのだろうか。

元ネタはたぶんこれ(pdf注意)。正式には、「試験問題評価委員会報告書」と言うそうである。
で、この資料の該当箇所を見ると、
第2問A 基本的な文法・語法問題が出題されており、基本的な知識の定着度を測るためには効果的である。全体的に語法問題が多く、場面や文脈に応じた語句の使い方に慣れておく必要がある。特に、“a large audience”や“observe the traffic rules”のような表現は受験者には難しかったようである。
と書いてある。

ん? 何か勘違いしてやしないかい?
報告書の言う「受験者には難しかったようである」というのは、正答率が他の問題に比して低かったことを意味するものではないのか?
この文言をして「大学に入る資格がある者の平均レベルに照らして考えるに、難しい」という風に読めるとは私は思えないのだが。

「大学に入る資格がある者の平均レベル」と「大学に入りたい者の平均レベル」は違う(同じだったら全員合格になっちゃう)。
だからおそらく、報告書のこの文言「・・・のような表現は受験者には難しかったようである」のあとには、「でも、これくらいができないようでは、君たちを大学に入れてあげるわけにはいかないね。」という含意が暗にあるのであろう。そう書くと怒り狂う始末に負えない人たちがいるから(←予想)、陽に表現していないだけであろう。

報告書の、教員からの要望の欄にある「出題形式に変更がある場合は、前もって公表していただきたい。」についてだが、まず、こういうことを言う教員がゼロであるとはそもそも考えられない。
問題は、いったいこういうことを言った人間が、要望として書いた人間が何人いるのか、全体の何割いるのか、ということであろう。


センター試験、つまり、選択式問題は害悪であるという意見がいろいろなところでこれまで出ているが、そもそもセンター試験(旧・共通一次)は、「受験者数が増大→大学教員が採点しきれない→ならば選択式で、自動採点で」という経緯で導入されたものではないのか。wikipediaのセンター試験と共通一次の項目を見ると、奇問難問の排除が目的にあったという風に読めるが、実際は、選択式にチェンジすることで、教員の採点の負担を軽減し、かつ、項目応答理論などのテスト理論を利用できることにより、より正確な、受験生の能力の判定をおこなうことができる、ということに、当時のお偉いさんがたの大多数が同意したからではないのか。

そういえば、(テスト理論がふんだんに利用されていると目される)TOEICも、最初は1979年で、ときの日本の英語分野のお偉いさんがたが、アメリカの機関に頼んで作成してもらったのが最初らしい。

どうも、「より正確に受験生の能力を判定」することが、英語分野のお偉いさんがたはお好きなようである。
だが、「「より正確に受験生の能力を判定する」ことと、「より受験生の勉学意欲をかき立て、より受験生の能力が向上する」ことのうちのどちらが大切なのか。

わたしはかつてから気になっていたことがあった。
それは前にも書いたかもしれないのだが、「学習内容を理解させることよりも、生徒全員を正確に評価することのほうに関心がある」ように見える教師が、英語の教師のなかにとりわけ多いという、この経験的事実である。

「今回の期末試験の成績は、このようにして算出します」みたいなことを、ご丁寧に、授業中に、解説する先生がいる。
しかし、このように解説している時間の間は、教師は、少なくとも学習内容や学習態度の涵養に向けた直接的な行動をしていないわけであるから、時間配分としては少々もったいない気がする。
そんなことは1分で説明するか、掲示板に張り出すか、或いはプリントに書いて配って「あとで読んどけ」で済むことである気がする。
にもかかわらず、教師がこれに多大なる時間を割くということがあるとすれば、それは、要するには生徒に迎合しているということなのではないだろうかと思う。
「生徒は成績が気になる。どうやって算出されているかが気になる。→じゃあ教えてあげましょう。ゆっくりと時間を割いて」的発想。

私の感触では、英語の先生にこういう傾向がとりわけ見られる気がするのだが(ほり先生は違うけど)、気のせいだろうか。
いや、気のせいではないと思う。
だって昔、ともだちに確認したもん。そしたら「そういえばそうやねぇ」みたいな話になった。
だから私はこれは気のせいではないと思う。


傍証がいくつかある。一つはTOEICである。
TOEIC関連の文書を読むと、この試験はどうやら、「英語によるコミュニケーション能力を“より正確に”判定することに命をかけているのだな、全エネルギーを傾注しているのだな」というような熱意が伝わってくる。

たとえば、英検ならぬ数検というものがある。
英検ほどには、はやっていないと思う。

なんでなのか。

世間が、数学能力よりも英語能力を求めているからだ。
なるほど、それもあるかもしれない。
でも、「それだけでは説明できない何か」があるような気がする。


それからもう一つ。
それは、大学受験という制度が、様々な制度?を生産しているということ。
かつてマルクスは、「犯罪者は、刑務所を生産する、刑法について研究する学者をも、生産する」というようなことを言ったが、まさにこれである。

大学受験の目的は足切りのためにおこなうものである。
しかし、その足切りのために用意した大学試験というもののために、受験生の多くはしぶしぶ勉学している(受験生の多くは、大学受験なんてなければ誰がこんな勉強するかよ、と思っていると思う)のだとすれば、結果的にはそれは、「受験生を勉学に駆り立てる」ということにも副次的に寄与しているわけである。

いや、べつにだから何? というわけでもないのだけれど。
センター試験の市場価値について、ちょっと考えてみたくなってね…。
これの登場はほんとに歴史の必然だったのかどうか、みたいなことを、ちょっとね…。
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