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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070620it14.htm?from=top



 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったことを理由に、定年後の再雇用を取り消された東京都立高校の元教諭ら10人が、都を相手取り、再雇用職員としての地位確認などを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。

 佐村浩之裁判長は「式典で起立、斉唱することは儀礼的な行為で、思想・良心の自由を侵害するものではない」と述べ、斉唱を命じた校長の職務命令を合憲と判断。命令に反した原告を再雇用しなかったのは、都教委の裁量の範囲内で適法として、請求を棄却した。原告側は控訴する方針。

 都教委は2003年10月、式典で国旗の掲揚と国歌斉唱を教職員に義務づけ、校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問うとする通達を出した。この通達を巡っては、約400人の教職員が原告となった別の訴訟で東京地裁が昨年9月、違憲判断を示している。今回の判決は、都の通達に基づく職務命令を合憲とした初の司法判断で、正反対の結論となった。

 原告らは04年~05年、勤務する都立高校の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、再雇用を取り消された。

 判決は、最高裁が今年2月、音楽教諭に国歌のピアノ伴奏を命じた職務命令を合憲とした判断を踏襲し、「職務命令は教職員全員に発せられており、内心の精神活動を否定するものとは言えない。公務員の職務の公共性を考えれば、必要な制約として許される」と、合憲判断を示した。

 また、再雇用の取り消しについても、「一部の教職員が起立しなければ、式典の指導効果が減殺される。違反行為が将来も繰り返される可能性が高いことなどを考えると、再雇用を取り消しても著しく不合理とは言えない」と述べた。




なんかアホらしいよね.
いや,いっちゃ失礼なんかもしんないけれど.

なにがアホらしいと思うか.
「国家斉唱時に起立するか否か」が,或る種の人格(?)を選別することのできる極めて重要な行動指標であると捉えられている点が.
そんなに重要な行動指標なんでしょうか.
「子どもに示しが付かない」というのは分かる.
でもね,「教師がそういう行動を取らないと,子どもに示しが付かない」という命題に対する事例は何も,「国家斉唱時に起立するか否か」だけではないよね.
なんぜわざわざ,ことさらにこの「国家斉唱時に起立するか否か」なる話題が"選択的に"報道されるのか?
それが面白いから?
それはあるかもしれん.
でもそれだけやったら週刊誌と変われへん(註:週刊誌を野次る意図はありません).
新聞に載るくらいやから,他にも理由があると思う.
なんやろね~


> また、再雇用の取り消しについても、「一部の教職員が起立しなければ、式典の指導効果が減殺される。違反行為が将来も繰り返される可能性が高いことなどを考えると、再雇用を取り消しても著しく不合理とは言えない」と述べた。
いや,言ってることは間違ってないよ.
うん.
裁判所の対応は正しいと思う(多分).
でも,なんていうかな,「意地張りすぎ」っていうか,「10歳に満たない兄弟同士の喧嘩で,どっちが飴ちゃんを盗ったとか盗らんかったとかいう騒ぎをおさめるために裁判を起こしたような」感じがしません?

「あんたらはそんなことに労力を割けるほどに呑気で優雅な方々なんだね,うらやましいなあ」と嘲笑を食らっても文句は言えないのではないか.

私の身の回りに,このような教職員の人(公立教職員でこういうときに起立しないことを選択する人)は居ないのですが,「どういう心を持っていたらそういう選択ができるのか」についてちょっと考えてみよう.

まず,かかる教職員がバカではない(=どういう行動が自分のクビをかけることになるか自覚している)と仮定する.
その上で,そういう判断をするということは,「クビをかけてでもするべき価値がある」と当人が思っているからに他ならない.
「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思っているからに他ならない.と思う.

なぜ彼らは,「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思ってしまうのか.
すぐさま思いつく理由は,それが戦前の軍国主義における「上意下達的構図の徹底性」と相似形をなすので,その相似形をつたって我々がかかる戦前の主義にまで行き着いてしまう可能性について危惧しているから,というものであろう.

しかし,「上意下達的構図の徹底性」のみを以て,かかる事況に問題有りとするのはいささか早計である.
例えば,厳しめの運動部とかでもそういう構図は見られるであろう(他にもいっぱい例はありそうである).
どうして厳しめの運動部にみられる構図がみちびく かかる危惧への可能性についてはさしたる憂慮をしめさないのに,かかる斉唱がみちびく同可能性については非常な憂慮をお示しになるのか.

この問いに答える方法の一つとして,私は「象徴性の導入」を提案してみる.

ここでいう「象徴性」とは,その行為が,どれだけ多くの,また,どれだけ深みのある「感情」をひきずっているかに相関して立ち上がる概念である.

ここで「感情」とは,(1)どうすれば幸福になれるか,(2)どうすれば不幸になれるか,ということに関する情報のうち,人類的に文化的継承の対象のなったものすべてを言う.
(1)の例(というか慣用表現):「このような喜びは永遠に後世に語り継ごうではないか」
(2)の例(同上):「もう二度とこのような過ちは犯すまい」
芋づるにおける「つるのでかさ」とでも言うべきか.
「君が代斉唱」という芋を引っ張ると,ずるずると次から次へと過去の文化継承的ストーリーがたーくさん引っ張りだされてくる.そして,その一つ一つが「重い」.
一方,「厳しめの運動部」という芋を引っ張ると,君が代斉唱のときほど「重い」ものは出てこないし,また出てくるつるの長さも短い.

君が代斉唱は象徴性が高い.
厳しめの運動部は象徴性が低い.

まとめよう.
構図が持つ「上意下達の徹底性」からただちに戦前の主義が想起されるわけではない.
(「上意下達の徹底性」はどちらかというと,君が代斉唱という芋から引っ張り出されてくる一つのつるに過ぎない.)
根深い象徴性のゆえに反対する人が出てくるのである.

最初のほうの問いに答えておくと,これは推測だが,おそらく「そういう選択をする先生」は,「自分のクビをかけてでも,戦前の主義を想起してはならない」ということを,生身の身体を差し出してご主張なさっているのではないか.
なんと頼もしいことであろう.

しかし,「生身の身体の差し出し」という勇断に対し,司法の判断は冷酷であった.
司法の判断は正しいっぽい.
一方,勇断された先生方の判断も「正しいっぽい」.
成文化されたところの記述には矛盾がないのに,なんとなくどこかに矛盾がある気がするのはなぜだろう?

ん? まてよ.
かかる勇断をする確率が高いのは,少なくとも若い先生ではなさそうだよなぁ(戦前のことを身を以て知らないから).
斉唱しなかった先生方に,年齢の偏りはあるのだろうか.
興味深いところである.

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070620it14.htm?from=top


 


 


 



> 「君が代」斉唱の職務命令は合憲、初の司法判断…東京地裁
> 原告らは04年~05年、勤務する都立高校の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、再雇用を取り消された。


なんかアホらしいよね.
いや,いっちゃ失礼なんかもしんないけれど.


なにがアホらしいと思うか.
「国家斉唱時に起立するか否か」が,或る種の人格(?)を選別することのできる極めて重要な行動指標であると捉えられている点が.
そんなに重要な行動指標なんでしょうか.
「子どもに示しが付かない」というのは分かる.
でもね,「教師がそういう行動を取らないと,子どもに示しが付かない」という命題に対する事例は何も,「国家斉唱時に起立するか否か」だけではないよね.
なんぜわざわざ,ことさらにこの「国家斉唱時に起立するか否か」なる話題が"選択的に"報道されるのか?
それが面白いから?
それはあるかもしれん.
でもそれだけやったら週刊誌と変われへん(註:週刊誌を野次る意図はありません).
新聞に載るくらいやから,他にも理由があると思う.
なんやろね~



> また、再雇用の取り消しについても、「一部の教職員が起立しなければ、式典の指導効果が減殺される。違反行為が将来も繰り返される可能性が高いことなどを考えると、再雇用を取り消しても著しく不合理とは言えない」と述べた。
いや,言ってることは間違ってないよ.
うん.
裁判所の対応は正しいと思う(多分).
でも,なんていうかな,「意地張りすぎ」っていうか,「10歳に満たない兄弟同士の喧嘩で,どっちが飴ちゃんを盗ったとか盗らんかったとかいう騒ぎをおさめるために裁判を起こしたような」感じがしません?


「あんたらはそんなことに労力を割けるほどに呑気で優雅な方々なんだね,うらやましいなあ」と嘲笑を食らっても文句は言えないのではないか.


私の身の回りに,このような教職員の人(公立教職員でこういうときに起立しないことを選択する人)は居ないのですが,「どういう心を持っていたらそういう選択ができるのか」についてちょっと考えてみよう.


まず,かかる教職員がバカではない(=どういう行動が自分のクビをかけることになるか自覚している)と仮定する.
その上で,そういう判断をするということは,「クビをかけてでもするべき価値がある」と当人が思っているからに他ならない.
「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思っているからに他ならない.と思う.


なぜ彼らは,「君が代斉唱の際に出席教職員の全員が起立する」という事況に問題有りと思ってしまうのか.
すぐさま思いつく理由は,それが戦前の軍国主義における「上意下達的構図の徹底性」と相似形をなすので,その相似形をつたって我々がかかる戦前の主義にまで行き着いてしまう可能性について危惧しているから,というものであろう.


しかし,「上意下達的構図の徹底性」のみを以て,かかる事況に問題有りとするのはいささか早計である.
例えば,厳しめの運動部とかでもそういう構図は見られるであろう(他にもいっぱい例はありそうである).
どうして厳しめの運動部にみられる構図がみちびく かかる危惧への可能性についてはさしたる憂慮をしめさないのに,かかる斉唱がみちびく同可能性については非常な憂慮をお示しになるのか.


この問いに答える方法の一つとして,私は「象徴性の導入」を提案してみる.


ここでいう「象徴性」とは,その行為が,どれだけ多くの,また,どれだけ深みのある「感情」をひきずっているかに相関して立ち上がる概念である.


ここで「感情」とは,(1)どうすれば幸福になれるか,(2)どうすれば不幸になれるか,ということに関する情報のうち,人類的に文化的継承の対象のなったものすべてを言う.
(1)の例(というか慣用表現):「このような喜びは永遠に後世に語り継ごうではないか」
(2)の例(同上):「もう二度とこのような過ちは犯すまい」
芋づるにおける「つるのでかさ」とでも言うべきか.
「君が代斉唱」という芋を引っ張ると,ずるずると次から次へと過去の文化継承的ストーリーがたーくさん引っ張りだされてくる.そして,その一つ一つが「重い」.
一方,「厳しめの運動部」という芋を引っ張ると,君が代斉唱のときほど「重い」ものは出てこないし,また出てくるつるの長さも短い.


君が代斉唱は象徴性が高い.
厳しめの運動部は象徴性が低い.


まとめよう.
構図が持つ「上意下達の徹底性」からただちに戦前の主義が想起されるわけではない.
(「上意下達の徹底性」はどちらかというと,君が代斉唱という芋から引っ張り出されてくる一つのつるに過ぎない.)
根深い象徴性のゆえに反対する人が出てくるのである.


最初のほうの問いに答えておくと,これは推測だが,おそらく「そういう選択をする先生」は,「自分のクビをかけてでも,戦前の主義を想起してはならない」ということを,生身の身体を差し出してご主張なさっているのではないか.
なんと頼もしいことであろう.


しかし,「生身の身体の差し出し」という勇断に対し,司法の判断は冷酷であった.
司法の判断は正しいっぽい.
一方,勇断された先生方の判断も「正しいっぽい」.
成文化されたところの記述には矛盾がないのに,なんとなくどこかに矛盾がある気がするのはなぜだろう?


ん? まてよ.
かかる勇断をする確率が高いのは,少なくとも若い先生ではなさそうだよなぁ(戦前のことを身を以て知らないから).
斉唱しなかった先生方に,年齢の偏りはあるのだろうか.
興味深いところである.

コメント
この記事へのコメント
> かかる勇断をする確率が高いのは,少なくとも若い先生ではなさそうだよなぁ(戦前のことを身を以て知らないから).
> 斉唱しなかった先生方に,年齢の偏りはあるのだろうか.
> 興味深いところである.
ん? あ,そうか.
「定年後の再就職を…」だから,必然的に年配の先生なのね.
本文書いたのが,疲労困憊っぽい状態にあったときの木曜の午前4時なのでボケていたようだw
ということは僕の仮説は少し強められたということか.

でもなんか「手放しで喜べない」感は残るよなあ・・・
2007/06/22(金) 23:03 | URL | heisan #-[ 編集]
> 判決は、最高裁が今年2月、音楽教諭に国歌のピアノ伴奏を命じた職務命令を合憲とした判断を踏襲し、
「過去の判断との整合性を取ることが必要」というのは納得できるが,これがもたらす種々の構造って,面白いものがあるよなあ・・・
例:なにもないところに空き缶が捨てられる可能性は低いが,一つの空き缶があるとみるみるうちにそこにゴミの山ができるとか(@U氏)
そういう意味では,「前例のない事柄に関する司法の判断」って,きわめてきわめてきわめーーーて重大な重みを持っているよなあ.

ここで重要なのは,その「前例のない事柄に関して判断する人」は,必ずしも,その判断が事後に及ぼすかもしれない重大な影響に関する自覚を持っていない,という点です.というか,これは,重大かどうかの判定は事後的にしか行われないので,ほとんどの場合,そういう自覚を持っていない,ということができるでしょう.
これは重大な問題ですね.
だって,最初に空き缶を捨てた人が,「これを捨てることはゆくゆく大変なことになるかもしれない」と思って捨てたのではなく,酔っぱらっていて,鞄の端に突っ込んでいた空き缶がたまたま千鳥足の影響で転がり落ちたのだとしたらどうでしょう.
「最初に捨てるという行動をした人」は,「ああ,あれね.あれは酔っていたから仕方ないよ」という仕方で責任を回避し,「2番目以降に捨てた人」は,「だって,俺が来る前からそこにものが捨ててあったから」という仕方で責任を回避することが「許される」のだとしたら,これは大変なことになるよね.その可能性をありありと予見させるよね.

似たような構図で最近思い当たったのが次のような事例.

A「あんた(B)が行くんやったら,俺も行く」
B「Aが行くんやったら,俺も行く」

この2人はいったい何がしたいのでしょう.
さしあたりこの事況は「もし行って,行った後に後悔するような事があった場合に,その責任を自分以外の誰かになすりつけることができれば,精神衛生上よろしいので,それをなんとか達成できないかと両人が頑張っている」事況であるということができましょう.
「俺はあとについていく」という立場でいたい.
「お前が最初の一歩を踏み出すなら,俺も続いて一歩を踏み出す」ということを両者が言っている場合,論理的には,行くという決断はくだされない.
しかし,経験的には,私はこういう場合,結果的に「行く」という決断がくだされている例をよく見かけたように思う.
どういうことか.
こういうことである.
つまり,「互いに妄想を背負い込む」のである(U氏的な言い方をすれば「『狂う』ことにしたのである」となろうか).
Aは「Bが最初の一歩を踏み出した」と思いこむ「ことにする」という選択をし,Bは「Aが最初の一歩を踏み出した」と思いこむ「ことにする」という選択をする,ということである.
こうすると責任の所在はまったく不明確になる.
もしAとBが子ども(或いは共通の上司が居る間柄)だったら,親(上司)に「連帯責任」「喧嘩両成敗」のレッテルを貼られてオワリ,なのであるが,そういう「強制執行力を持つ親」に当たる者が居ない場合,話はややこしくなる.
2人の遣り取りでもややこしくなるのだから,人数が多ければややこしくなることはほとんど必至である.
『狂う』という仕方によって,「自らの社会人としてのアイデンティティを保つ」という遣り方は,しばしば採用される.
「狂わなきゃやってられない」というような状況に遭遇したことのない人間はおるまい.
人は,通常の遣り方で「自らの社会人としてのアイデンティティ」を保てなくなったとき,「発狂」という選択をする.その「発狂」の仕方はいくつもある(もともと,上の本文は,掲揚斉唱時の起立不起立の問題だが,これに対して私は初め「なんかね…」という感想を漏らしたが,これだって,私が,「このニュースの当事者たちが,ある種の「発狂」をしていて,彼らは「発狂」しなければならないほどに追いつめられている存在であること」に,(不覚にも)一種の哀れみを抱いてしまったことに起因するのではないか.).そして,どのような「発狂」の選択肢も選ぶことができないという状況になったときに,人は,「自殺」という選択肢を選択する(のだと思う).

だのに,世の中のシステムは,「人間は狂わない」ことを前提としてつくられている.これではシステムクラッシュが起こらないほうが不思議である.

「人間は狂いうる」

この(歴史が語る)自明の前提から出発したシステムというのはつくられないのだろうか.つくることが「原理的に」できないとすれば,それはなぜか.
2007/06/22(金) 23:40 | URL | heisan #-[ 編集]
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