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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 より

たとえば、3000万円の工作機械が故障したとする。
仕組みが複雑すぎて、どこが故障したのか普通のエンジニアには分からない。
だから直せない。だから、その工作機械はほとんど価値が無くなった。
そこで、その工作機械の持ち主は、その工作機械を廃棄処分することにした。
そこに、ハゲタカエンジニアがやってきて、その工作機械を30万円で買い取ってくれることになった。
その機械の持ち主は、捨てようと思っていた機械を30万円で買い取ってもらったので、
ハッピーな気分だった。
ハゲタカエンジニアは、その工作機械の複雑怪奇な構造を理解できるだけの
高度な知能と知識とセンスを持っていたので、どこが故障しているのかを5分で突き止め、
5分で修理した。
これによって、たった10分で、無価値なゴミでしかなかった壊れた工作機械が、
3000万円の価値のある工作機械に生まれ変わった。
時給1億8千万円分の仕事をしたことになる。
これは詐欺でも錬金術でもない。純粋な価値創造労働だ。
もちろん、ハゲタカたちは詐欺まがいの買い叩きと転売、犠牲者を多く生み出す企業解体をやることも多く、
負の側面も多いのだが、だからと言って、こういう価値創造の側面を見過ごすと、その本質を見誤る。
ハゲタカたちの巨大な価値創造力の源泉は、
「少しの労力を投入するだけで、巨大な価値を生むポイントを見抜く眼力」
と、
「失敗した場合に、損失を引き受けること」
の2点である。
たとえば、先ほどの壊れた工作機械を買い取ったハゲタカエンジニアは、
それを買い取る時点では、本当に修理に成功するかどうかの保障はない。
しかし、失敗したときに30万円の損をすることを覚悟で、
あえて、その故障した機械を買い取ったのである。
日本の多くの会社では、大企業も中小企業も、
このようなハゲタカ的努力が欠落しているために、
多くの非能率と不幸が生み出され続けている。
たとえば、あるケータイコンテンツ会社で、
赤字を垂れ流し続けるサイトがあったとする。
そして、「地道な努力」教の信者たちは、
地道な努力によって、そのサイトのコンテンツを充実させ、
こつこつとユーザビリティを向上させるわけである。
そして、ますます赤字が拡大していく。
会社も、従業員も、顧客も、だれもが不幸になっていく。
それを見かねた経営陣が、そのプロジェクトに
ハゲタカプロデューサを投入する。
そのハゲタカプロデューサは、
「そのサイトに欠けているのは、コンテンツの充実でもユーザビリティでもなく、
単に、そのコンテンツが、そのコンテンツを求める客に認知されていないのだ」
ということを見抜く。
そこで、そのハゲタカプロデューサは、まず、そのケータイコンテンツの
コンテンツタイトルを変更した。コンテンツの内容を表すタイトルではなく、
そのコンテンツの潜在顧客の注意を引くようなタイトルに変えたわけである。
次に、そのコンテンツのメニューカテゴリを、その潜在顧客のいるカテゴリに変更した。
さらに、そのコンテンツとシナジーを引き起こすサイトとアライアンスを行い、
相互リンクを張ったり、データベースの相互利用ができるようにした。
これにより、そのサイトは、
エンジニアやグラフィッカーの工数をほとんど投入せずに、
利用者を飛躍的に伸ばし、そのプロジェクトは高収益プロジェクトに大化けした。
従業員も、会社も、顧客も、みんなが幸せになった。
実際、こんな話はそこら中にあり、
少しも珍しい話じゃない。
また、非正規雇用が増大し、必死で「地道な努力」を重ねたにも関わらず
ワーキングプアに転落する人々が増える一方、
日本社会のあらゆるところで、
「ちょっと修理すれば高収益な企業or不動産or利権に生まれ変わる案件」
=「最小の努力で膨大な富を生み出せる案件」を
目を皿のように探し回っている「近道を探す努力」の権化のような、
ハゲタカ金融マンは何千万円~何億もの年収を稼いでいる。
これは、農家、干物屋、イラストレータ*2などの自営業者も同じだ。
ひたすら「地道な努力」を積み重ねるばかりの人は、
顧客も、自分も、家族も不幸にする。
逆に、最小の手間と予算で、
自分の持つサービスや商品を、もっとも的確な潜在顧客に合わせ、
その人たちに正しく届ける「効果的な努力」をする人たちは、
顧客も、自分も、家族も幸せにする。
30年くらい前に少年ジャンプで人気だった
「努力と根性で成功する」というタイプのマンガだって、
よく考えてみると、常に「正しく、効果的な努力」によって
主人公は成功を手にする。
巨人の星だって、挫折するたびに、ひたすら創意工夫して、
新しい魔球を開発し続けて成功するストーリーなのであって、
ただただ地道に筋トレや投げ込みや走り込みをし続けて
成功するストーリーではないのである。
しかしながら、広く一般に世論調査をすると、たいていの場合、
「実績を上げた人が報われる社会」
よりも、
「努力した人が報われる社会」
を望む声が多いという。
これは、非常に根深い病なのだと思う。
だから、こういう記事を書くと共感より反感の方が多いことは容易に想像できる。*4
マルクスでさえ、「労働価値説」を信じていたぐらいだし、
ほとんど動物的なレベルで「努力に比例して価値が生み出される」ということが
正しいと思えるのが、人間という生き物なのだろう。
しかし現実には、
常日頃から「一発逆転」するポイントを検出するための鋭敏なアンテナを張り巡らせ、
徹底的に「近道を探す努力」をし続けた人間こそが、
自分と、周囲と、社会と、世界を豊かにし、幸せにするのである。
「近道はない」などという、「地道な努力が報われる」教の信者の妄言に
惑わされて、1回しかない人生を台無しにしないようにしたい。

たとえば、弟くんが3000万円の工作機械を故障させたとする。
仕組みが複雑すぎて、どこが故障したのか弟くんには分からない。
こういう状況のとき、弟くんよりも賢い兄貴は、何をすべきだろうか。

(ケース1)
ある兄貴は、弟くんが困っているのを見て、「ちょっと貸してみなよ」と言って、ドライバーで機械の内部をかちゃかちゃといじり、ものの五分で直してしまった。
「わーい。お兄ちゃん。ありがとう。」と弟くんは言った。
兄貴は嬉しかった。

(ケース2)
また別の兄貴は、弟くんが困っているのを見て、弟くんが一定の価値判断をくだすまでずっと見守っていた。
弟くんはそのおもちゃの価値が、もう使えないから、ゼロ円になったと判断した。
そして捨てようとした。
すかさず兄貴が口を出す。
「ちょっと待って。」と。
「捨てるくらいなら俺に売ってくれ。30万でどうだ?」と。
弟くんはすぐそれにノった。
なにしろ、そのまま捨てればゼロ円+処分料がかかるのに対し、プラス30万円なのだから。
弟は嬉しかった。
兄貴は、弟から買い取ったおもちゃを自分の部屋に持ち帰り、ものの5分で直してしまった。
兄貴は、そのおもちゃを転売して3000万円の儲けを得た。
兄貴は嬉しかった。

さて、私がもしこの兄弟の親だったら、このケース2の兄貴をコテンパンにしばくと思う。
なぜか。
ケース2において、弟くんが、もし兄貴の取った最後の行動を知ったならば、それでも弟くんはハッピーな気分でいられるだろうか。
私はそこが怪しいと思うのである。

世の中には、不当な取引というものが存在する。
一方が同意していないのに、他方が強権的に取引を成立させてしまう場合、それは不当な取引である。
ケース2のような取引は、双方の同意を取っているから、不当な取引ではない。
実際、ケース2のような取引は、いまもごまんと行われているだろう。
しかし、私は、ケース2のような取引を、不健全な取引だと思う。

「相手が喜んでいるんだからそれでいいじゃないか」と、ケース2のような取引を行なった兄貴に賛同する諸君は言うだろう。
だが、ちょっと考えてもらいたい。
第一に、すでに述べたことであるが、弟くんは、兄貴が5分で直して転売した事実を知ってもなお、ハッピーでいられるだろうか。
第二に、この兄貴は、もし自分が弟くんの立場だったら、この取引に同意しただろうか。

世の中には、賢い奴らというのはやまほどいる。
学校でも社会でも、みんな、自分が少しでもましになれるように頑張っている。
だが、これはしばしば忘れられがちなことであるが、そうやって得た賢さを何に使うべきかというところは、しばしば注意がそそがれない。
その結果、ケース2のような取引を、「別に非合法なことをしているわけじゃない。なにが悪いんだ。」と開き直るケースが出てくるのである。

取引の健全性は、すべて、その取引の主体を交換してもなお取引に応じたいと思うかどうかによって評価される。
ケース2の兄貴は、もし自分が弟くんの立場だったら、どう応ずるだろうか。
「自分には修理の技術と知識を持たないから、仮にそれが相手に時給1億8千万円分の仕事を与えるものだったとしても、自分はそれを拒否できない。自分が僅かな利益を得るとき、同時にものすごい利益を横の人が得ることを見るのはやや癪だが、それは致し方のないことだ。なんつったって、ぼくには、修理の技術と知識がないのだから。」と、諦められるだろうか。
兄貴のその修理の技術と知識は、誰のおかげで獲得できたものなのだろうか。
兄貴にその修理の技術を知識を授けるに当たって、弟くんは一ミリも貢献していないのだろうか。
もし、兄貴にその修理の技術を知識を授けるに当たって、貢献している人がいたならば、兄貴がこの転売によって得た利益は、その貢献した人に分配すべきだろうか。
親の金で私立大医学部に行って医者になった場合、その医療行為によって得た利益の一部は、一生、親に対して奉納し続けなければならないのだろうか。
換金性の高い能力の保持者は、その能力をどのように使うべきだろうか。

換金性の高い能力の保持者の、その能力は、どこまでが自分のおかげで培われたものであり、どこからが誰かさんのおかげで培われたものなのだろうか。
もしその線引きが原理的に不可能であるならば、その能力保持者は、どのように行動するのが正しいだろうか。


少し話を変える。
少し前、確かラーメン屋かどこかで、知的障碍者の労働に対して正当な賃金を支払わず、不当に労働させていたことが問題となった。
このことが問題なのは、なにも、かかる知的障碍者自身が、自分の置かれた労働状況の不当性に対して異議申し立てをしたからではないと思う。
またこんな話もある。
外国で、計算ができない農家の人は、その農作物を売るときに、計算がごまかされるから、いつまで経っても貧困から脱出できないとか。

相手の知識が自分より不足しているのをいいことに、そこから(相手が自分より知識が不足していることからくるうまみを求めて)自分にとってめっちゃおいしい取引をばんばん成立させまくることはこれいかに。
「相手が喜んでるんだからいいじゃないか」という弁解はここで通用するだろうか。
分からないけれど、おそらく、アメリカ的な社会では、おおむね通用し、日本的な社会ではおおむね通用しないだろうと私は思う。
と同時に、私は、いまのそういう価値判断をする日本的な社会をものすごく良い社会だと思う。
内田ブログで以前に、「アメリカが台風に襲われたとき、現地では犯罪が横行したが、日本で阪神大震災が起きたときは、そこまでは横行しなかった。これは民度の違いだと思う。」というようなことが書かれていたが、私が、この意味において日本的な社会を賞賛するのも、まさにこの点にあるのである。
契約社会というのは要するに、契約書がないと相手を信用できないさもしい社会である。
民度が低いから契約書に頼らざるを得ないのである。
一方、暗黙の了解が幅をきかせる社会というのは、「空気の支配」というデメリットは無視できないのだが、それ以外の面では、わりかしメリットが大きい気がする。
戦前の一億玉砕とかは、それは少なくとも形式的には、日本が一丸となって、家族的な「愛の共同体」を実現し得たからに他ならないと思う。
ただ、それがあくまで「形式的」にであって「実質的」にあらず、且つその一丸に加わりたくない人を不当に差別し、法で取り締まったことが問題視されるのであって。

換金性の高い能力の保持者が、その能力にゆえにハゲタカ的に荒稼ぎし、「へへ~ん。これは俺が稼いだんだもんね。お前らにはやらないよ。悔しかったら俺を抜いてみろや。」って言い、かつ相手がそれに応戦するのが、資本主義の原動力なのだとしたら、これはなんともさもしい社会であると言わざるを得ない。
わたしたちはその程度の民度しか持ち得ないのか。
その程度の民度しか持ち得ないことを保証するシステムの導入維持に同意署名したのはどこのどいつだ?と問いただしたくなる。

たしかに、会社経営における問題点をすばやく見極めて実践したりする能力は、素朴には歓迎されるべきだと思う(その顛末が利便性最優先の環境を生むことの弊害はここでは措くとして)。
ただここで色々な問題がある。
青色発光ダイオードの中村さんとか、タンパク質質量分析(でノーベル賞受賞者)の田中さんなどの例は好例であろう。
「社会に大きく貢献したものも、あまり貢献しなかったものも、ひとしく生きられる社会を目指したい」というのが、日本国民の総意であるというならば(実際、地道な努力を評価してあげたいと思う人がこの国には多いことから察するに、この総意の存在は妥当だと思う)、私たちはそれを呑まねばならない。
それが嫌だというなら、海外に転籍するのもいいだろう。
それは誰にも止められないのだから。

ただ、私はここで思う。
「社会に大きく貢献したものも、あまり貢献しなかったものも、ひとしく生きられる社会を目指したい」と思うことができる能力は、とてつもなく、普遍的に美しい能力であると。

こんなことを言うと、社会主義は破綻したとかいう反論が予想されるが、そもそも、「頑張っても頑張らなくても結果が同じなら頑張らない」だろうと見込む判断にやすやすと同調してしまうこと自体が、民度の低さの反映なのであって、それこそ、恥じて然るべきなのではないか。
そういう判断をする御仁は、「何はともあれ頑張ってしまう人がこの世の中には一定数存在し、その人たちは、とてつもなく世の中に貢献している」という事実に関する認識が不足していると言わざるを得ない。
すべての人々が、生活における様々な選択において、逐一、自分の自己利益を最大化するように、合理的に行動しているわけではない。
ケース2のような兄貴の行動を賞賛する人々というのは、人々全員が、合理的に行動する経済主体になることを所望しておられるのだろうか。
そんなことを所望して、いったい、どんな嬉しいことがあるというのだろう。
え、経済予想がより当たるようになるって? でもそれは、人間の勝手な期待のほうに現実を合わせるってことだよね?
将来予測型の学問っていうのは基本的に、人間の勝手な期待を現実に合わせるべきなんだよね。
人間のように動くロボットをつくりたい技術者が、人間自体がロボットのように動くように、政治的圧力を掛けて実現したとして、技術者は喜ぶと思うかい?
そういうのを本末転倒と言うんだよね。

もう十年くらい前になるだろうか、新聞で、子どもが親の介護をするのが、日本では「美談」、欧米では「スキャンダル」として扱われることについて、この違いはなんだって、新聞の執筆担当者はぼやいていたけれども、結局そういうことなんだよね。

「自立した大人は、ダマされても仕方がない。それはダマされた側の責任だ。」っつーのが、欧米的で、「人間はいつまで立っても自立しないモンだから、周りの人間が世話を焼きまくるのがいい社会で、世話を焼く側はそれを面倒と思うことはタブだ。」ってのが日本的なのかな。
ブログ「考えるのが好きだった」で、ほりさんは、よく、マッカーサーが日本人の精神年齢は12歳だって言う例を引くんだけれど、精神年齢が12歳だけど民度が高い国と、精神年齢は25歳だとけど民度が低い国と、どっちがいいかって話だ。
民度、つまり、相手の幸せを願うことができる能力。
教育を受けてないために計算できない農民を平気でだます業者や、知的障碍者の人権を無視して労働させている雇用者は民度が低い。
相手の幸せを願ってないから。
もし自分が相手の立場だったら即刻どなりちらすだろうくせに、相手が自分ほどの知能を有してしないことをいいことに「だって、相手は文句を言ってこないんだもん。相手は喜んでるんだもん。僕は悪くないよ。」って言うすべての輩は民度が低い。
ぼくはそんな仲間と、あまり暮らしたいとは思わない。

僕が、修理の技能を持たない弟だったら、故障品を30万円で買い取り裏で修理して3000万円で転売する兄貴よりも、「ちょっと貸してみな」とサラッと奪い取り、かちゃかちゃといじって、「ほら直った。ほれ」って渡してくれる兄貴を持ちたいと願う。

古今東西、貧乏人が苦労して金持ちが悠々と暮らしている様を描いた物語は絶えないが、今日においても、「貧乏人」を「知能を持たない者」に、「金持ち」を「知能を持つ者」に置き換えれば、この物語はそっくりそのまま成り立つことに私はささやかな戦慄を覚える。

出木杉くんはのび太を虚仮(こけ)にしない。
出木杉くんは民度の高い少年である。
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