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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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段落の読み方 より
読解の授業では、徹底的に段落読みをさせる。順に内容を掴んでいく。訳なども含む。繋がりを重視する。
 第一段落から、ある事柄の歴史が書かれていた。数字が出てくる。順に挙げさせる。全てがなんの数字かを聞く。年号だと分かる。それで、時代が次第に現代に近くなっていくことも指摘させた。で、最後の段落について聞いた。しかるに、この段落に年号を表す数字はないから、「代わりになる言葉を探せ」と聞いた。すると、「three decades」と答える。その語句の前に「in the last」と付いているが、そこは指摘しなかったところをみると、「数字」を目当てに捜したのであろう。「この30年」とは読んでいない。実は、この段落、段落の冒頭に「Today」とある。「現代」に至ったのである。が、それに気が付かない。
 なぜなのだろう??? 成績の悪い生徒であるが、なぜ、気が付かないのだろう。気が付く、付かない、の違いは何から生じるのだろう。
 「数字」を指摘したせいで、「数字だけ」に注目してしまったのだろう。それで、数字そのものだけが目的となり、肝心の「時代がだんだん上がってきている」ことを忘れたのだろう。だから、Tadayに気が付かなかった。
 日頃言っている、文頭副詞や主語には気をつけろ、段落冒頭には気をつけろ、という指示もアタマに入っていない。それで、直前にやった、「数字」という最も印象的な事項だけが頭に残ったのだろう。だから、three decadesと答えたのだろう。



気が付く、付かない、の違いは何から生じるのだろう。

文章を機械的に分析しようとするか、文章全体に通底するところの「漠然とした意味らしきもの」をイメージしながら読むことができているか、の違いから生じるのだと思う。
要は、文章を書いた人の気持ちになれるかどうかである。
文章を書いた人の気持ちに感情移入することができない人はかならず、文章を、論理的に、理知的に、機械的に「分析」しようとする。
それはさながら、あまりできのよろしくないカウンセラーが、相談相手の気持ちを察することができないゆえに、安易に「分析」に走ってしまいがちであるのと、構造は同じである。

文章というのはひとえに感情である。
これは物語文に限らず説明文でもそうである。
ただ、説明文の場合は、物語文に比べて、感情移入以外の理知的な分析によってまかなえる部分が大きいので、感情移入できない人でもある程度までは読めてしまうというだけのことである。

感情というのは、それを実感しない人にとっては無機質な代物でしかない。
人間は、というか最近の人間は、無機質な代物に対峙するとき、かならずそれを理知的に分析しようとする。
それは現代の科学教育が生み出した寿ぐべき成果と言ってもよろしいだろう。

しかし、「電池のテスターを観察するように、自分の心をうちを観察し、分析して欲しい」人はあまりいない。
それよりも、「まずは共感してほしい」人のほうが多い。
というのは、人というのは、まず共感する動物だからである。
理知的な分析なんてものは「そのあと」だ。

そもそも人は、自分が知覚的に捉えた対象のなかに自分と同じ感情が宿っているという措定を確信に導いたところから始まる。
もちろん、表情を分析し、相互に意思の伝達を図る動物はなにも人だけではない。
だが、「いま・ここ」からの跳躍が果たせるのは人だけである。
自分が知覚的に捉えた対象のなかに自分と同じ感情が宿っているかもしれぬという想像は、あるいは、人間以外の霊長類もなしているやもしれぬ(というか、なしているらしい)。
だが、その想像を、想像によって支持可能とするのは、おそらくは人だけである。
人間以外の霊長類も、相手の顔がそこにある限りにおいては、そのような他者理解の感情をもよおすやもしれぬが、それはあくまで「相手の顔がそこにある限り」であって、そこから相手の顔が消え去ってしまえば、ほぼ同時にそのような想像も潰えるらしいのである。
しかし人はその想像を、想像のみによって維持することができる。
SF的にたとえて言うならばそれは、マッチがあって初めて火が熾せる人と、燃えるものがなにもなくても念力だけで火が熾せる人の違いと言ってもいいだろう。
人は想像のなかでは、燃えるものがなにもなくても、念力だけで火が熾せちゃうのである。
すごいでしょ。
こんなことができるのはおそらくは人しかいない。

かつて、古来の人々は、石や木や太陽や月に、人格が宿っていると考えたらしい。
文章も同じである(飛躍が大きすぎる気もするけれど)。
文章は「インクのしみ」に過ぎないわけだが、そんなことを言ったら、人の表情だって、「特徴的な筋肉の動き」に過ぎないわけである。
だからそれを以て無機質と言うか有機質と言うかは、ひとえに観察者が、観察者と同じ心をその対象に見いだすかにかかっているのであって、それ以外の何者でもあり得ない。

わたしは別に、これを以て、文章を理知的に解析することを本分とする英文法の価値をおとしめたいわけではない。
だが、英文法だけでは英文は読めない。
英文法だけで英文を読もうとすることは、それは、機械翻訳をするように英文を読もうとすることである。
だが、機械翻訳機に文章の「心」は分からない。
機械翻訳機と同じような仕方で文章を読もうとしても、その試みはついに「その文章の心を読む」というところまでは行き着かないであろう。
そんな気がするのである。
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