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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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こちらで発した話の余談として発展した話をこちらに書く.

自分で発した問いに対する一つの答えですが,「自分のおメガネにかなった商品を買うことに対してケチをつけない人間」(例1:オタク,例2:豪奢な商品を買う富裕層)を増やすという仕方で実現されれば,すべての人が幸せになることができる(経済発展を阻害せず,文化継承を阻害せず,周りがみんな自分みたいな人間でも世の中が困らずという嬉しいことだらけ)と踏めますが,いかがでしょう.
経済的停滞(非発展性)は,詩歌を吟じ庭で取れたきゅうりを囓り学問を楽しみとする人間が増えるから起きるのではなくて,カネがあるのに使わない人間が増えることによって生じるのではないかと思います.その意味では,「カネを持たずして考えることをよろこんでいる人間」は,いくらいても害にはならない(経済発展を阻害しない)と思います.
でも今の世の中そうじゃないんですよねぇ.「不安」だから貯蓄によってそれに対処する.カネがあるのに使わない人間がそういう判断をするのにもちゃんとした理由があるわけです.
う~む…
聖書によれば,お金儲けをすることをいけないことだとは言っていないようです.ただ,その儲けたお金をどのように使うかということに関しては,もの凄くシビアです.ここで「いかなるカネ稼ぎも,その使途がはっきりしていて,その使途がいかがなものか的なものでなければ,許される」ということが分かります.
しかし,ここで我々が直面するのは,「突如発生する需要」に対して蓄えを持つことは,いけないことか?という投げかけに対してどのように答えればよいかです.
突如発生する需要が多いと見込まれれば見込まれるほど,人々は蓄えを持つ方向に行動します.
だから,人々の不安を解消してカネが市場に投じられるようにし向けるには,「突如発生する需要はほとんどないよ」ということを皆さんがお信じになることが必要です.

ここで重要だと思うのは,ある自分が持っているカネを,「のちのちに自分の身に降りかかるかもしれない突如発生する需要」のために貯蓄するか,「すでに特定のいかがなものか的でない明確な使途の下にカネを必要としている人」に分け与えるか,という判断を,突きつけられたとき,どうするか,という問題です.
こういう問題に対し,大多数の人は,「前者の回答を下しつつ,自分の倫理性を担保する」というおいしい立場にあやかるために,次のような説明をするでしょう.

「あなたの使途は,いかがなものか的使途である」
「あなたの使途は,明確な使途でない」

こう考えると,問題は,本質的には次のようなことにあることが分かります:(1)一定の資金を,複数個ある使途のうち,どれに割くか(2)どのような使途が優先されるべきであるか(どのような使途が,よりいかがなものか的でないと言えるか)

分からなくなってきた.整理しよう.
「自分たち(すなわち,自分及びその家族,親族,親友ら)の将来が不安だから,来るべき突如発生する需要のために,いまカネを市場に投じることを保留する」という行動選択の合理性を破棄させる(破綻させる)にはどうすればよいか,というが元々の問い.
ここで私は「複数個ある異なる使途のうち,どれが優先されるべき使途であるか」という問いに還元してこの問題に当たろうとした.

そしてその「優先度を定める指標」(定義)として,「突如発生する需要のために」という使途の順位を低く抑え,かつ,各個人の合理的な行動選択を妨げないようなものを選択することができれば,なかなかに私たちは幸せになることができるのではないかと考えています.
# そんな指標はない,だから探すだけ無駄だと考えるのも一意見でしょうが,私は,その指標を探すこと以外に「みんなが幸せになる」方途はないと考えています(あればぜひ教えて欲しいといういつものパターンw).
コメント
この記事へのコメント
お世話様です、はオカシイでしょうけれども、どういったものでしょうか。
こんにちは。ほり様のブログでは成り行きで?「トオリスガリ」にしましたが、こちらでは「いまてかは」(「今出川」から)でと思います。
ブログ開設されたのですね、今日知りました。
>私はもともと,自身でblogを開設していろいろ書くというようなタチではありませんでした。
には、わたくしなりの共感・理解があります。(私はブログ開設の予定は全くありません。)
heisan様を知ったのは、内田樹様のブログです。見事なコメントに驚きました(「どう見事か」を記すのは簡単ではありません。)。ほり様のブログではつまらぬところで感心などして失礼しました。ただし、ほり様のところへのコメントも未だほとんど読んでおりません。また、目を通しているものにしましても、しっかりしたコメントを付け得るほどにまで(時間もかけて)は読み込んでおりません。
「教育、科学、工学、哲学、、、経済学?、社会学」、私にはついて行けない話題が多かろうと予測しますが、ちょくちょく拝見いたします。
2007/06/18(月) 14:20 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
早速のご訪問ありがとうございます.
今後どういう展開になるかは全く未知数ですが,あたたかくお見守り頂ければ幸いです.

> ちょくちょく拝見いたします。
よろしくお願い致します.
見ている人の「顔ぶれ」がなんとなくイメージできるようになると,書きやすくなるということもありますし♪
2007/06/19(火) 11:29 | URL | heisan #-[ 編集]
heisan様からは色々学ばせていただこうと思っております。ご年齢はわかりませんけれども、兄事しようと致しますものです。という立場の聞き手として、一つ質問致します。(←質問は今朝思い付きましものです。)

質問:「理想と現実について、どう考えますか?」

って、これはまた大上段な(笑い) 書く気が起きましたら、お答え下さい。いただけること期待せずお待ちします。(差し出がましい事を申しますけれども、お答えいただけると致しましたならば、コメントとして下に付けるのではなく、新たな記事として書かれた方が良いかも。と存じます。)なお、私は「下記の見解はよい」と思っております。

【以下、引用はじめ】

「いはゆる理想家のとらはれやすい固定観念は、現実が日に日に理想に近づき、現実の悪はやがて除去せらるべきであると考えることだ。つまり彼らは理想と現実の一致せる状態を理想として、その実現を目指すはなはだ潔癖な現実家であるといふことになる。一方、いはゆる現実家は、その見えすぎる眼のおかげで、現実化せられない理想に向かって呪詛の言葉を投げつけ、それが実現化されぬ以上、不要なものと見なす。彼もまた、理想の現実への一致といふ状態を理想とするはなはだ潔癖な理想家である。
 いづれも、理想と現実との対立分離をそのまま認めようとせず、その両者の間に振幅を続ける自己を楽しむことを知らない。彼らは自己の運動の場を狭め、自己を抹殺しようとしてゐるのだ。個性とは、理想と現実との間に、善と悪との間に身を処することによって、はじめて存在し得る。」(福田恆存全集第二巻「自己劇化と告白」より)

【以上、引用おわり】

※ 上記の引用は、下記の所から、孫引きさせていただきましたものです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/20050515.htm
2007/06/20(水) 14:20 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
> heisan様からは色々学ばせていただこうと思っております。
> 兄事しようと致しますものです。
たいへん恐縮に存じます.
何某か貢献できれば幸いです.
私も兄事させてください(笑).

> 質問:「理想と現実について、どう考えますか?」
いや,別にどうも考えません,というのが正直なところですが,それでは(もしこれが学校で配られたプリントに書いてある課題だったら)学校の先生に怒られてしまいそうですね(笑).
今のところ,新たに記事を立てるほど,一家言があるわけでもないですので,ご引用に突っ込みを入れる形でお答えしようと思います.

> 一方、いはゆる現実家は、その見えすぎる眼のおかげで、現実化せられない理想に向かって呪詛の言葉を投げつけ、それが実現化されぬ以上、不要なものと見なす。
改憲派の方々が依拠する思想は,ここにありそうですね.

> 理想の現実への一致といふ状態を理想とするはなはだ潔癖な理想家である
いわゆるところの理想家・現実家は,「理想と現実が一致するという状態を理想とする」という点でどちらも理想家である,という主張ですね.ふむふむ.

> いづれも、理想と現実との対立分離をそのまま認めようとせず、その両者の間に振幅を続ける自己を楽しむことを知らない。
「その振幅を楽しんでいる」という当の事実に気づかないまま,その当の事実から離れたことを理想としている,ということですね.
そしてその「当の事実」は,言い様によっては「隠れた理想(すでに達成済みの理想)」とも言えるわけで,もし,「いわゆるところの理想家・現実家」の言う「理想と現実の一致」という目標が達成せられた暁には,「隠れた理想」がすでに達成されている状態というのは破綻するわけで,その意味で(すなわち理想の語義を広く取れば),彼らが「理想と現実の一致」という目標を達成することは原理的に有り得ない,ということですね.

> 彼らは自己の運動の場を狭め、自己を抹殺しようとしてゐるのだ。
まあ,「自己を抹殺」とか,レトリックが強烈ですが,要は,我々は「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」(神?)に近づくことを目標とするわけですが,それが達成されてしまった暁には,もはや人間でなくなるよ(自己が抹殺されちゃうよ),ということを言われているのでしょう.
でも,なぜこれほどまでに「強烈なレトリック」が採用されているのでしょうね.こういう言い方だと,「君たちは自分で自分の首を絞めているのだよ.」「それに気づかないとは… 愚かだ.」というような含意をも持ってしまうので,反感を買うと思うのですね.反感を買うことが予め意図されているのなら納得できますが.

> 個性とは、理想と現実との間に、善と悪との間に身を処することによって、はじめて存在し得る。
私の言い方で言えば,ここで言われている「個性」はそのまま「人間」に通じると思います.善悪の観念を持つことイコール個性,イコール人間,みたいな.

ここで言われていることは,いわゆるところの「理想主義者と現実主義者の対立」という構図に,「実は君たちは同じところに居るのだよ」と耳元で囁くことで,不幸な対立を回避することに貢献するという意義がある(あった)のではないでしょうか.
ただ,この文章は,「かかる対立の内側に潜む構造(かかる対立を生み出すタネは何か)」には,少しも言及していないように思えます.「そこ」が,多くの方々の「興味のあるところ」だと思うのですが…
2007/06/20(水) 18:56 | URL | heisan #-[ 編集]
早速のご返信ありがとうございます。今後も適当な(テキトーな)「質問」を投げかけようと思っておりますけれども、それをダシに好き勝手な事を書いていただければと思っております。もちろん気が向きましたらで。

こちらの「質問」は、ジャズピアニストに曲を「リクエスト」するといったノリです。私は或る腕利きのジャズピアニストが好きでそのライブによく行くのですが、その方は自分で曲を決めて演奏する時よりリクエストに応じた即興の方が「勝るとも劣らず」だったりします。(だいたい、自分で曲を決めるのはよく面倒臭げにしています。)スタンダードのみならず、「ビートルズナンバーを」などの注文にも応じ凄い演奏をします。しかし、或る年配の女性が「冬ソナのテーマを」とリクエストされた折には却下していましたけれども(聴いたことも無かった様で)、しかし、それらしきムードの演奏をしてその女性を満足させておられました。

いただいたご返信につきましては、後でまた読み返そうと思っております。

ただし、
>ただ,この文章は,「かかる対立の内側に潜む構造(かかる対立を生み出すタネは何か)」には,少しも言及していないように思えます.「そこ」が,多くの方々の「興味のあるところ」だと思うのですが…
につきましては、その通りかと思いますし、またそれは私が気付かなかった視点ですが、ピンと来ないコメントでした。(引用文以外のところで言及しているのかも知れませんが、それは置いときまして。)特に、「「そこ」が,多くの方々の「興味のあるところ」だと思うのですが…」というのは判らないのですが、私は多くの方々とは異なるということか・・・
2007/06/21(木) 09:35 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
上記コメントの続きです。

【要は,我々は「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」(神?)に近づくことを目標とするわけですが,それが達成されてしまった暁には,もはや人間でなくなるよ(自己が抹殺されちゃうよ),ということを言われているのでしょう.】

↑これは、ピンと来ない、判らないです。まず、“我々は「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」(神?)に近づくことを目標とするわけですが”から。

【>いづれも、理想と現実との対立分離をそのまま認めようとせず、その両者の間に振幅を続ける自己を楽しむことを知らない。
「その振幅を楽しんでいる」という当の事実に気づかないまま,その当の事実から離れたことを理想としている,ということですね.
そしてその「当の事実」は,言い様によっては「隠れた理想(すでに達成済みの理想)」とも言えるわけで,もし,「いわゆるところの理想家・現実家」の言う「理想と現実の一致」という目標が達成せられた暁には,「隠れた理想」がすでに達成されている状態というのは破綻するわけで,その意味で(すなわち理想の語義を広く取れば),彼らが「理想と現実の一致」という目標を達成することは原理的に有り得ない,ということですね.】

↑これもよく判らないのですけれども、しかしこれにつきましては「じっくり読めば文意つかめるかも」というのが今のところです。

なお、今週はもうコメントする時間とれませんけれども、また来週以降コメントさせていただきます。
2007/06/21(木) 10:23 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
コメントありがとうございます.
特にリアクションがなければ自然にフェードアウトしていっても全然おかしくはないのですが,こうやってコメントを頂けると,そういう意味で(リアクションのリアクション,リアクションのリアクションのリアクション…,というのができて)嬉しいです.

> ジャズピアニスト
「自分で喋り始めるよりも人にネタを決めてもらった方が話しやすい」ということは,結構あるがしますね^^(コミュニケーションってそういうものかも.「相手に役割を与える」ということなしに語ることが自然であるなら,私たちは独り言をぶつぶつと唱えるだけの人生を送ってなんら不満を感じない筈でしょうから)

> ピンと来ないコメントでした。
> 「そこ」が,多くの方々の「興味のあるところ」だと思うのですが…
私の書き方が少々傲慢に過ぎましたね^^;
「I→we」への拡張をいつのまにか(断りなしに)行なうというのをよくやってしまうw
正しくは,「皆さんは知りませんが,少なくとも"私"は「興味のあるところ」なのですよ,ほほほ」ですね(笑)

> 我々は「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」(神?)に近づくことを目標とするわけですが,> ↑これは、ピンと来ない、判らないです。
「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」に焦がれることは,「(仏教で言う)四苦八苦からの完全な解放」に焦がれることと同義であるという意見には,ご賛同頂けますでしょうか?
「苦しみから完全に逃れたい」と思い,そのための行動を取ることは自然なことですよね.そして,もしこれが完全に達成されれば(=あらゆる苦しみから完全に逃れることが達成されれば),それは同時に,(苦しみと対をなす概念である)楽しみから完全に逃れることを達成してしまうことを意味するので(なぜなら苦しみと楽しみは表裏一体だから),その人は「一切の苦楽から逃れることに成功した存在」と言えるでしょう.これは「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」と表現しても同じ事ですよね.
どうでしょうか.
2007/06/21(木) 23:56 | URL | heisan #-[ 編集]
ご返信ありがとうございます。
昼休み時間とれました。

「理想と現実」の件は、わたくしが別の所(福田恆存著『私の幸福論』の「あとがき」)から引用をしていればまた異なるリアクションになったものをと思いますけれども、瓢箪から駒と言いますか、面白いお答えをおうかがいすることが出来ました。

で、そちらの方へ。

仏教に関しましては、わたくしは、A・スマナサーラ氏の著作(及び下記のサイト)から知見を得ています。
http://www.j-theravada.net/
仏教に於ける「解脱」を想定していらした訳ですか。(って、しかし、ジャンケンの後出しの様ですが、その様な境地の事をおっしゃっていらっしゃるのかしらとは思っておりました。ただし、「エッ、そうなの!」という感想と共に。)

>「苦しみから完全に逃れたい」と思い,そのための行動を取ることは自然なことですよね.
これは“自然”観にもよりましょうが(“自然”かも知れませんけれども)。

「解脱」を求める行動を取る方は現実には千人に一人も居ないかと。縁無き衆生?は「解脱」など求めない様です。(その理由は上記のサイトでも話題とされていると思います。その理由の説明はとりあえず控えて置きます。(heisan様はともかく、不特定多数の方に)誤解を受けない様に書くのはちょっと手間です時間もかかります。)

で、私が、「エッ、そうなの!」と思った件は、次の質問につながります。

質問:heisan様は、「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」に近づくこと(「近づく」というより「成る」か)を目標(理想?)とする行住坐臥なのですか?

↑何かさらに不躾な質問になりましたけれども(笑い)、成り行きで仕方なく。兄貴殿(笑い)、気が向きましたらお答え下さい。
2007/06/22(金) 13:20 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
コメントをありがとうございます.

> 仏教に於ける「解脱」を想定していらした訳ですか
YESと答えると,若干の誤謬を含んでしまいます.
「"仏教で言えば"解脱に相当する」と言えば少し誤謬がなくなります.
なぜ完全に誤謬がなくならないかというと,それは次の いまてかは 様のご質問がヒントになります.

>「解脱」を求める行動を取る方は現実には千人に一人も居ないかと。
たしかにそんな気もしますね.
どういうことか説明します.「解脱」と行ってしまうと,なにやらとても高尚な概念のような気がしますね.「解脱」という言葉は本当に高尚な境地を指す概念なのか,それとも,私が以下で言うような広い概念なのかは,専門的な見地からでないと判断が難しいと思いますが,私は後者の意味で使ってます(それが許されるのかという問題はさておき(笑)).
私の言う「全ての人々は苦しみからの解放を望む」というのは,「暑すぎるところや寒すぎるところは避けて適温のところに住むことを望む」ことや「食べ過ぎたり全然食べなかったりすることを望まず腹が空いたときに空腹が満たされるまで食うことを望む」というような,原初的な欲求をも全部ひっくるめた概念です.これを方便で「解脱」と言っても別に間違いではないが,「完全に正しい」かどうかは怪しい.そういったところかなと思っています.

> 質問:heisan様は、「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」に近づくこと(「近づく」というより「成る」か)を目標(理想?)とする行住坐臥なのですか?
# おお,不勉強でこの文脈での「行住坐臥」の意味が分からんw
# 日常の立ち振る舞いのこと,らしい
# そういうことを「四六時中」目標として生きている人間であるか否か,という質問であると解釈しようっと
YESかNOかと問われれば,YESです.ただ,そう答えるにとどめてしまうと,誤解があります.というのは,私は「全て人間は」四六時中こういうことを目標として生きている,と思っているからです(本人が意識しているか否かはともかく).
この考え方がただちに受け入れられるかどうかは怪しいですが,「全て人間は,理想と現実を一致させることを目標に据えて生きている(少なくとも,傍からはそのように見える)」と言えば,これは,受け入れてくださる方々が増えそうな気がしますよね.ぼく的には,両方とも同義なので,どちらでも良いのですが.

> 兄貴殿(笑い)
さきの「兄事」もそうですが,照れるのでできればお控え願いたいのですが,どんなもんでしょう…?(笑)
# お気持ちはたいへんありがたいのですが…(笑)
2007/06/22(金) 22:39 | URL | heisan #-[ 編集]
ご返信ありがとうございます。

「兄事」「兄貴殿」の件、了解いたしました。

ところで、話を戻しますが、
>「苦しみから完全に逃れたい」と思い,そのための行動を取ることは自然なことですよね.
に対する、私の、
「これは“自然”観にもよりましょうが(“自然”かも知れませんけれども)。」
という返答は、イイカゲンな返答だったとあとで反省したものですが、簡単には記せない問題で、とりあえずこれ以上は止めて置きます。

今回いただいたお答えも、わたくしには面白いもので、先ずは己が感覚と照合させて考えてみます。
2007/06/25(月) 09:31 | URL | いまてかは #Q1JW2Cg2[ 編集]
続けまして、

【以下、引用はじめ】

> 質問:heisan様は、「一切の幸不幸を感受しなくて済む存在」に近づくこと(「近づく」というより「成る」か)を目標(理想?)とする行住坐臥なのですか?
# おお,不勉強でこの文脈での「行住坐臥」の意味が分からんw
# 日常の立ち振る舞いのこと,らしい
# そういうことを「四六時中」目標として生きている人間であるか否か,という質問であると解釈しようっと
YESかNOかと問われれば,YESです.ただ,そう答えるにとどめてしまうと,誤解があります.というのは,私は「全て人間は」四六時中こういうことを目標として生きている,と思っているからです(本人が意識しているか否かはともかく).
この考え方がただちに受け入れられるかどうかは怪しいですが,「全て人間は,理想と現実を一致させることを目標に据えて生きている(少なくとも,傍からはそのように見える)」と言えば,これは,受け入れてくださる方々が増えそうな気がしますよね.ぼく的には,両方とも同義なので,どちらでも良いのですが.

【以上、引用おわり】

> この考え方がただちに受け入れられるかどうかは怪しいですが,
はい、その考え方は、ただちには受け入れられません(笑い)
テーラワーダ仏教http://www.j-theravada.net/からみると違う様ですけれども、ただし、私の仏教理解もナマクラですし、議論したいというのも無いです。こちらの意図は、もっぱら、heisan様の文章を楽しませていただくというものです。
気が向きましたら敷衍していただければと存じます。
2007/06/25(月) 13:27 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
ところで、
一応、「兄事」の件につき、簡単な説明をしておきます。

前提となる考えは、
「我には特定のレトリックを硬直的に偏愛する癖あり。」
で、
「それを反省するのに、heisan様の文章は実にありがたい。」
という訳で、
「兄事しようと致しますものです。」
という次第です。

ですから(話は端折り、飛躍しますけれども、)
「議論したいというのは無いです。」
己の反省材料にしようというものですから。

という訳で、これからも楽しみに拝見させていただきます。
2007/06/26(火) 10:42 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
コメントありがとうございます.

> 私の仏教理解もナマクラですし、議論したいというのも無いです。こちらの意図は、もっぱら、heisan様の文章を楽しませていただくというものです。

まあ,営利を目的としないすべてのブログは,閲覧者方に,「楽しんでいただく」以外の目的はすべて付属的な目的に過ぎない,と思います.
これからもよろしくお願いします.
2007/06/27(水) 14:48 | URL | heisan #-[ 編集]
「議論したいというのも無いです。」というのは、論戦に向かう発言は基本的にしない(避ける)という事です(←heisan様以外の方への言明でもあります。基本的にheisan様を“慮る”立場で行きますという。)。その方が、お互いによいもの、面白いものになりそうだから。議論するからには生産的なよい議論をしたい訳ですけれども、それはネットでは大変だと思います。(ネットに跋扈する多くの方々、甘く見すぎていると思えます。なお、余談ですけれども、「解脱」についてheisan様と議論するとなると、先ずは仏教で言われる「懺悔」の問題から始めなければと考えましたけれども、そこから所説を滔滔と長々とのべ、それに対する的確な回答が得られるまで問い質すコメンテーターって、どう思われますか(笑い))。それより(heisan様が関心を持っている事に関する)よい聞き手の立場を目指そうというものです。
そこで、例えば、用語の定義やテキスト解釈に対する疑義ついて細かく問い質すといった事も、基本的には、しないという事です。それが面白い方向にむかう事って、少ないんじゃないかなぁ。
heisan様のブログにというより、パソコンに向かう時間は減らしたいという要求にもよります。
ただし、しばしば脱線もすると思います。
しかし、よい聞き手を目指す(よい質問をすることを目指す)といっても、「守備範囲は、教育、科学、工学、哲学、、、経済学?、社会学?、…etc」自然科学にも社会科学にも疎いですから、コメント限られると思います。
2007/06/27(水) 17:41 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
いまてかはさん,たいへんよく分かる解説をありがとうございます.
了解致しました.
これからもよろしくお願い致します.
2007/06/27(水) 17:57 | URL | heisan #-[ 編集]
> heisan様のブログにというより、パソコンに向かう時間は減らしたいという要求にもよります。
これのウエイトが大変大きいです(パソコン話は措いといて)。わたくしの大抵のコメントは、息抜きがてらの、「先ずはいいかげんな思い付きをチョコチョコっと入力する」といったタイプのコメントになるかと思いますけれども(考えるのはそれから後)、中に面白い文言とかがありましたならば、
>それをダシに好き勝手な事を書いていただければと思っております。もちろん気が向きましたらで。
こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。
2007/06/28(木) 12:12 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
 わたくしが先にここで「議論したいというのも無いです。」」と、つたなく記して置いたところのココロを、うまく表している文章に出合った。池田晶子著『暮らしの哲学』144ページ。

【以下、引用はじめ】

 ダイアローグとディベートとは全く違うものですが、どうも人は、そのことをよくわかっていない。ソクラテスは、すでにこれを、「真実を知るために行われる議論」と「相手を言い負かすために行われる議論」と、はっきり区別しています。そして、そんな不毛はやめてしまえ、もし僕と議論がしたいなら、僕と同じ種類の人間になてから来いと、見栄を切る場面があります。
 じっさい、相手を言い負かすために議論をしかけてくる人と議論するほど、うんざりすることは滅多にないですね。その人の目的は、相手を言い負かし、自分の意見を主張することであって、真実を知るためにものを考えるなんて、そんな行為が人間にあり得ることすら知らないような蒙昧な状態のわけです。よって、相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。そんな人々が集まって、開かれた対話の場と称して、ああだこうだやっているのを見ると、独善同士がお前は独善だと我を張り合っているとしか見えない。内なるダイアローグを知らない人に、外なるダイアローグは不可能です。

【以上、引用おわり】

 まあ、これは言い訳だが、前者のダイアローグを「対話」、後者のディベートを「議論」と規定することにしての作文も出来ると思う。(「論」は「あげつらう」と訓読みされるものでもあるという理屈のもと、)「対話はするが、議論はしない。」と。
 引用文の内容は、自ら考える楽しみを知る者には、あたりまえのひとつと言えようか。しかし、その池田晶子の文章、上記の引用文よりもその前後の文章の方に、もっと紹介したい内容を含むものがあるのだが、関心を持ったならば、本を手にとっていただきたい。毎日新聞社から、出たばかりの新刊書である。
 ところで、池田晶子の著作には、例えば「世間知らず」な発言や「(産官学など問わず、.)業界(やその用語)に疎い」発言も散見されようが、それをあげつらう方々に対しては、わたくしは「それがどうした」という以上の事を記す気はない。
 なお、池田晶子はよく「私は理屈が大嫌い」と云う言葉を吐くが、これが腑に落ちないならば、その方は未だ池田晶子の書いていることがわかっていない言ってよい様だ。この言葉は、小林秀雄の「無私の精神」にある、「私は、よく理窟は大嫌ひだと言つて笑はれる事がある。理窟を言ふのが商売の癖に、といふわけである。」から来ている。この小林秀雄の「無私の精神」という随筆に表されている「實行家」像には感銘を受けた。まことの實行家の鏡。全集にも収められている随筆で、四ページに満たない短編である(もと読売新聞に掲載されたもの)。日本の図書館の多くに収蔵されているものでもあると思う。関心を持ったならば、本により全文を通読するがよいと思うし、やはり本を手にとっていただきたい。
2007/07/03(火) 09:08 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
dialog =「真実を知るために行われる議論」
debate = 「相手を言い負かすために行われる議論」
と言われると,確かに両者には歴然たる違いがあると私も思います.

# でも,その違いを「客観的に識別」することは本当に難しいことだと思います.科学の場合は,それを「反証可能性の担保」という形で実現しますが(「どういう実験結果が出れば俺の主張は間違いであるということになるのかがはっきりと言える」ということです),そうでない場合は,相手の主張を咀嚼した結果,自らそれを常識として受け入れうるかどうかというところにかかっていて,しかもそれを担保する方法がないので,どうしようもないのですね.


> その人の目的は、相手を言い負かし、自分の意見を主張することであって、真実を知るためにものを考えるなんて、そんな行為が人間にあり得ることすら知らないような蒙昧な状態のわけです。

debateは弁護士の理屈だと思います.
よく弁護士に相談を持ちかける人が起こしがちな間違いらしいのですが,弁護士は「真実を明らかにする」のが仕事だと思って相談を持ちかける人が多いようです.
でも,実際は違う.
真実なんてコギレイな概念は不要.
「いかにして裁判で勝つか」だけが重要.
そういう世界.
アメリカの裁判になるともっとえげつなくて,カネのある依頼人は一流の弁護士をなんにんも雇って,倒すべき相手の人間的特徴を,裁判中のこまかい仕草や表情を含め,すみずみまで調べ上げさせると言います.
dialogの概念で物事を考えているともう全然ついていけない世界です.

だから結論から言うと,「科学には(客観的)真実があるが,司法には(客観的)真実はない」のです.
少なくとも現行の司法制度はそのようにできています.
そして,「およそ最も客観的真実っぽく振る舞うことのできた主張」が,社会における我々の行動を法的に拘束します.
これが現実です.
「司法には原理的に,客観的真実は存在し得ない」にも関わらず,「我々の社会はその開闢以来,そのような何らかの司法上の真実に根を張る形でなければ存立できなかった」という矛盾のうちに,我々の葛藤はあります.
人間個人の歴史にしても,およそ「そのような葛藤」の連続として構造化されています.
「そのような葛藤」を打ち消すことこそが,我々にとっての「理想」であり,そうでないものを「現実」と呼びます.


> 相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。

「相手の話を聞く気がない」というのは言い過ぎだと思います.
debateというのは,相手の話を聞かないのでは成り立ちません.
相手の話を聞いて,その論旨を理解することが必要です.
「でも,わたしはその論旨に賛同することはできない」
どのように相手が話を展開しようとも,つねにこのような結論にしなければいけないことが決まり事になっている遣り取りをdebateと呼びます.


> 前者のダイアローグを「対話」、後者のディベートを「議論」と規定することにしての作文も出来ると思う。(「論」は「あげつらう」と訓読みされるものでもあるという理屈のもと、)「対話はするが、議論はしない。」と。

いまてかは様のおっしゃる「議論はしない」とは「debateはしない」の意味だったのですね.
それならば私は心から納得です.
もとより私はweb上において,debateをする気など毛頭ありませんでしたから.
# 私はdialogのことを「議論」と呼んでいたようです.
# 私の言う「議論」の英訳として想定しているものは,debateではなくdiscussionです.
# ただ,discussionの原義が何かとか,dialogとdebateのどちらに近いかとかについては分かりません…
2007/07/03(火) 15:10 | URL | heisan #-[ 編集]
【以下、引用はじめ】

「司法には原理的に,客観的真実は存在し得ない」にも関わらず,「我々の社会はその開闢以来,そのような何らかの司法上の真実に根を張る形でなければ存立できなかった」という矛盾のうちに,我々の葛藤はあります.
人間個人の歴史にしても,およそ「そのような葛藤」の連続として構造化されています.
「そのような葛藤」を打ち消すことこそが,我々にとっての「理想」であり,そうでないものを「現実」と呼びます.

【以上、引用おわり】

上記の記述はピンと来ないもの(「そーかなー」って感じ)なのですけれども・・・(→ペンディング)
2007/07/04(水) 10:24 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
【以下、引用はじめ】

> 相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。

「相手の話を聞く気がない」というのは言い過ぎだと思います.
debateというのは,相手の話を聞かないのでは成り立ちません.
相手の話を聞いて,その論旨を理解することが必要です.
「でも,わたしはその論旨に賛同することはできない」
どのように相手が話を展開しようとも,つねにこのような結論にしなければいけないことが決まり事になっている遣り取りをdebateと呼びます.

【以上、引用おわり】

Debateに関するご見解は正しいのだろうと思います。
ただし、ここで問題とされているの事は、「相手の話を“聞く”」の内実の事かと考えます。
相手を言い負かすために議論をしかけてくる人には、自己の既存の立場を捨てる用意は本質的に無い、自己を改新してゆく用意は本質的にない、相手との交際しながら変化してゆく自己を迎え入れる用意は本質的に無い、という事から、「相手の話を心から受容する用意は最初からない」という事かと存じます。(←養老先生がよく話されるような事だな(笑い))
2007/07/04(水) 10:57 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
>「相手の話を聞く気がない」というのは言い過ぎだと思います.
>debateというのは,相手の話を聞かないのでは成り立ちません.
>相手の話を聞いて,その論旨を理解することが必要です.
たしかに、「議論以前」といいますか、「相手の話を聞いて,その論旨を理解する」気などさらさら無く、己が勝手に抱える貪瞋痴を発散したいがために人にカラむ様だと思しき人も。

>「でも,わたしはその論旨に賛同することはできない」
>どのように相手が話を展開しようとも,つねにこのような結論にしなければいけないこと>が決まり事になっている遣り取りをdebateと呼びます
わたしは、基本的に、そのような遣り取りに己を晒したくないと思っている様です。

なお、余談ですけれども、わたしくしはよく「己」と「人」とを対比する文を綴ります。「己」と「人」との対比は孔子の言行録『論語』でよく出てきます、そこからのものです。奇異なものではありませんね、二千五百年の伝統を踏まえてのものでありマス(←ホントかよ(笑い))
2007/07/05(木) 09:33 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
「聞く気がない」ですが,まあ,広義に解釈すれば,そういうのもアリかなと思います(僕は混同を招きやすいので積極的に使おうとは思いませんが)
2007/07/05(木) 18:19 | URL | heisan #-[ 編集]
日常たいていの言葉の遣り取り、「対話」でも「議論」でもない「会話」(ビジネスに於けるものも含む)における聞き方の基本は“聞き流し”でしょうか?(←この場(ブログ)で、咄嗟の思いつきを記すのは控える筈だったのに(笑い))
2007/07/06(金) 09:32 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
> 聞き流し

どんな内容にも緩急があるものです.
「聞き流し」というと言葉が悪いですが,要は,枝葉末節に当たる部分を聞き流して,根幹に当たる部分だけを耳に入れる,ということだと思います.
もちろん,なにが枝葉末節でなにが根幹なのかは,なかなか難しいところなのですが,それが自然にできちゃうというスゴい人も世の中には居るようですね(うらやましい).
2007/07/07(土) 12:09 | URL | heisan #-[ 編集]
相手は、なんじゃかんじゃ理屈言ってるけれど、甘えたい、おセンチになりたいで、“(ただ)あたたかく聞いて欲しい(だけ)”らしい、そうして貰えれば満足、という場合のただしい対応は・・・・・・
というのもありますしね。
2007/07/09(月) 11:32 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
「そうすることによって貴方は私にどのように振る舞ってもらうことを期待ないし欲望しているのか」という視点が重要だと言うことですね.
2007/07/12(木) 02:58 | URL | heisan #-[ 編集]
[60]で自ら記しましたコメントに触発され、『プロカウンセラーの聞く技術』(東山紘久著)
http://www.sogensha.co.jp/mybooks/ISBN4-422-11257-0.htm
を手に取る流れになりました。私には役立ちました。私の振る舞いには、改めるべき処が多々ある様です。
上記の書籍内容紹介の中に、31章の目次が載っていますが、そういう事に就いて書かれております。
帯には「阿川佐和子さんの推薦」、「この本を読むと、自分が今までどれほど人の話を聞いていなかったかに気がついて、思わず吹き出してしまう。」とあります。
2007/07/12(木) 11:28 | URL | いまてかは #N7L4NfKk[ 編集]
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