@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
前回の続き。

共通点か。
あまりうれしくない。
だって、違うのに一緒くたにされてるわけだからね。
前にも言ったけど、ふじとジョナゴールドの違いについて語ってるところに、「ああ、りんごの話ね」という突っ込みを入れることは禁句である。
「だって、『ああ、りんごの話ね』って言いたくなっちゃうんだから」というのは、倫理的に通らない。
相手がいやがっていることをすることになるわけだからね。
構造的にはいじめの典型例である。

それからだね、似たような種類の批評がいくつも出るということは、そのような批評の妥当性が高いという風には推論しないのだろうか。
べつに多数決がいつも正しいとは言わない。
多数決が正常に機能しないときというのは、投票者の過半が日和見主義である場合においてだけである。
今の場合は、隣の人の投票結果を詮索することは無意味だし、突然あらたな投票者が参画する可能性があることから、上記の可能性は排除される。

もしそう推論しないのだとすれば、そのような、多数の批評をはじくだけの何かがあるということになるが、果たしてほんとうにあるのだろうか。

無根拠になにかを直観できることはすばらしい。
しかし、それは悪用可能である。

聞く耳を持たない人としゃべろうとは最初から思わない。
聞く耳を持てる可能性があると自分が信じられる人が、聞く耳を持たないかのようであるということが、最も厄介なのである。

ま、「科学と宗教の対立において、科学者が宗教家を小馬鹿にし、宗教家が科学者を小馬鹿にすることが、愚かなことではなくしごくまともなことだ」とする考えからは、私のような発想は出てこないだろうが。
けっきょくここをおさえにゃどうしようもないということか。
ここをなんとかクリアしない限り、話は進展しないということか。

「科学者も宗教家も、みずからの職業的桎梏を離れて、一市民として、一学者として、考えなければいけないことが存在する」というテーゼに、賛成してくれる人は少ないのだろうか。
そう思えるたびに、わたしはひどく慨嘆するのである。

わたしは基本的に、○○のところに、自分の役割をあてがい「私は○○です。だから…」と続ける人に違和感を覚えたためしが多い(いつもというわけではない)。
彼らがその責務を全うしようとする姿勢はすばらしいものだ。
けれども、彼らは「あなたは○○である以前にまず人間である」ということを忘れているかのようである。
べつに忘れてもいいが、ときどきは思い出すべきではないのか。
自分を客観的に見ることができない「「私は○○です。」は、社会的にも困ると思うのだが。

結局、この点に収束する話題において、彼らと一定の合意に至ることは、私が先方のどちらかの頭に、とてつもなく新しい発想が降臨しない限り、現状では非常に難しいと言わざるを得ないだろう。
私の煩悶はなおも続くのであった。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/26-2cb70635
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。