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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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とりあえず安定だよね より
老人の蓄えが多いというのは行政の老人福祉に対する信頼が低いということである。
福祉が充実すればこの金が市場に流れ出て高額の消費財の購入に当てられる。

ところで前回の話の続きになるわけだけれど、老人が高額の消費財を買うということは、果たして将来に対して富を積んだ行ないなのだろうか。
俗に「無駄遣い」という言葉がある。
しかし、なにが無駄でなにが無駄でないのかに関する社会的な合意は必ずしもない。
車を庭に置いて眺めるためだけに購入する人がいても、それを以てただちに無駄であると断言することはできない。
だから、「節制」を強いれば、それは可処分所得の利用を抑えるということを意味するのだから、これは国内消費が下落することを高い確度で意味しているのであるが、「無駄遣いをやめること」を強いたら、同じ結果になるとは限らない。
もし、無駄遣いをやめることを強いた場合にでさえ、節制を強いた場合と同様の結果が待ち受けるのだとすれば、それは私たちの、物事の有用性に対する感覚がおそろしいほどに古典的かつ付和雷同的であることの証左でなくしてなんであろうか。
経済学的に言えばこれは、国民それぞれの効用関数が似通っており、かつその形状が古典的であるということを意味する。

ところで私たちの効用関数が、おおきな変更をきたす原因になっているものが、もしあるとすればそれはいったい何なのだろう。
私たちの効用関数が、相互に比較すると付和雷同的であるというのは、これは日本人の国民性によってある程度説明することができよう。
しかし、その形状自体が変わるということがあるのは、これはなんでであろうか。
端的に言えばそれは、「新たな喜びを見いだす」ことによって契機づけられているのだと考えることができよう。
車を知らない人たちにおかれては、車に乗る喜びを想像することはできない。
車に乗る喜びを想像することができるためには、車というものが現実またはフィクション上で成立していることがまず第一条件である。
そして、「車を乗り回している人を見る」というのも、付属的ではあるが重要な構成条件である。
ただ、車を乗り回している人を見たからといって、ただちに車に乗りたいと思うかどうかは別問題である。
すぐに乗りたいと思う人もいれば、しばらく経ってからやっぱり乗りたいと思い直す人もいるだろう。
要は効用とは、車を乗り回すことそれ自体から得られる効用と、車を乗り回している自分を客観視したときにそれが格好いいと思われるか滑稽と思われるかから導かれる効用との合算である。
車を知らない、または想像することができない人たちにとって、車に関する効用はとりえあえずゼロである。

ところで内需の拡大というけれど、内需がなかなか拡大しないというのは、それは人々がもう現状にだいたい満足できている証拠であるのだから、単純につくらなければいいわけである。
「もう満腹だ」と言っている人のくちもとに、なおも食物を運び続けるのは暴力以外のなにものでもない。


日本には空き家がたくさんあると言われている。
日本人全員が住めるだけの住居は、すでに日本国内に存在しているのである。
だからもうこれ以上つくる必要がない、とはならない。
やれ都会ではまだまだ家が足りないだとか、理由をこしらえては家をつくりたがる。
家をつくっている人は、家がつくられなくなれば失職するのだから、家がつくられなければ、無理にでも家がまだまだ必要であるかのような理由をこしらえてでも、家をつくろうとする。
それ自体は、個々人の純粋な動機に基づく行動としては、なにも間違っちゃいないだろう。
しかし、全体として眺めれば、まだ住める空き家がじゃんじゃん増えていっているわけで、滑稽なわけである。

養老孟司氏がかつて似たような事を言っていた気がするが、もし世の中の仕事という仕事が、一人の人間によって担われているのであれば、このような滑稽なことは起こらない。
家をつくる人が畑を耕す人をも兼務していたならば、家をつくる仕事がなくなっても畑を耕す仕事がある限り失職しないわけであるから。
もちろん仕事が一つ減ることによる収入減という問題はあるだろう。
しかしそれは、兼務している仕事の数が増えれば増えるほど問題ではなくなるというものである。
あらゆる世の中の仕事が必要なくなるということを私たちは想像することができない。

学校の清掃活動にたとえてみれば、私たちの社会で動いている仕事という仕事が、いかに滑稽であるかが想像がつくであろう。
廊下掃除が終わったのにいつまでも廊下掃除を続けるような人はいない。
すでにきれいになっているのにさらに磨き続けるというのは不毛なことだからだ。
すでに廊下がきれいになっているのであれば、まだきれいになっていない教室の掃除に取りかかればよいだけのことである。
ところが社会ではこうはいかない。
社会では仕事は明確に分業化されていて、廊下職人は廊下を掃除することで糊口を凌いでいるのであり、教室職人は教室を掃除することで糊口を凌いでいるのである。
金箔職人がある日突然紙漉職人になれと言われても、どだい無理な相談である。

学校における清掃活動が、全体としての滑稽さを回避できるのは、おおむね、「掃除という仕事はだれにでもできる」「だれがやってもたいして変わらない」ということに担保されている。
金箔職人と紙漉職人は、まったく異なった能力が要求されると思うし、そのために必要な修練も全く異なったものであろう。
しかし、廊下職人と教室職人の場合はそうではない。

つまり、社会に見られる滑稽さを放擲したいのであれば、社会の構成員全員が同じ能力を持っていることがポイントであるということになる。
当然ながら、そのようなことは難しい。
でもかつては(百年くらい前までは)、難しくてもいまほどの滑稽さはなかったように思う。
仕事において求められる能力というものが、だいたい共通していたからである。
田畑を耕して収穫を得る能力である。

ところが機械技術の進展により、世の中は滅茶苦茶になってしまった。
機械技術の進展による生産効率の上昇は、「一定の失業者を生む」ということを、必ず保証する。
失業者は、失業したままで黙っているわけにもいかないし、だれかに食わせてもらうわけにもいかないので、仕事を探すしかない。
しかし、人手はすでに事足りているのである。
学校における清掃活動のたとえで言えば、廊下拭きも教室の机拭きも靴箱磨きも、とりあえず人が足りているのである。
これが学校における清掃活動のような、ボランティア的色彩の強いものであれば、ほんとに仕事量が少ないということでない限り、人手が増えることは純粋にうれしいことであるから、歓迎されるであろう。
しかし、ことに仕事の場合は彼に相応の報酬を取らせねばならないから、いかなる雇用者も一定の躊躇を示してしまうのである。
だから社会における清掃活動業者においては、人手が足りているので新たな人を雇うことはできないという主張は妥当であって、失業している求職者はそれを呑まねばならない。
そこで求職者は次のような手を考えるのである。
ある求職者は、廊下拭き職人のところを言って、おもむろに肩を揉んであげる。
廊下拭き職人はそれが心地よいことに気づく。
このようなサービスを受けられるのならば、少しくらい対価を支払ってもいいと思えるような気分になる。
そこに契約が成立して、失業者は被雇用状態を回復する。
またある求職者は、これからは運動場を掃除することも重要だと言い出して、おもむろに運動場の掃除を始める。
また別の求職者は、教室掃きをしている者からほうきを強引に取り上げて、自分のほうが素早くきれいに掃くことができることを周囲にアピールしてみせる。
そのうち、自動掃除マシンを開発した者がこれを教室に持参して、これがあれば私一人でもすべての清掃の仕事をこなせると言い出すに至って、大部分の清掃従事者が失業するという事態に立ち至るのである。
これが、私たちの社会の縮図である。

これを「良い社会」と呼ぶか「滅茶苦茶な社会」と呼ぶかは大いに主観が関係する。
でも、私はこの「滅茶苦茶な社会」を、少しでも、より多くの人が「良い社会」と思えるように遷移させるにはどうすればよいかに、つねづね頭を悩ませているのである。
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