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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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『太田光の私が総理大臣になったら』、「ニート対策禁止法案」より。元ネタはたぶんこれ。いまさらだが。

斎藤: はい、えーそうですね、働いたら負けだなと思ってるんで。 (会場騒然)

太田: 「働いたら負け」!?(苦笑)

斎藤: ニートは、働いてる人を、バカな奴だなと思ってるんで。

ラサール石井: 信念もってニートやってるってことだね。

斎藤: 僕は一生就職しないように頑張ってるんです。


斎藤智成: 申し訳ないって言われたんですけど、そうじゃなくて、親はニートに投資してるんですよ。

会場: 「エーー!!」 (沢田亜矢子、口をあんぐり、呆然)

ラサール石井: 投資して何かいいことあるの?

斎藤: それは出世払いで

会場: 「エー!」

  画面外の声: 「出世しないじゃない!」 「いつまで待ってんの」

斎藤: 平成電電みたいに、儲かんなくてゼロになる可能性もあるし、化ける可能性もあるんです。

ラサール石井: 化ける可能性があるんだ

斎藤: 1%でも、それが投資なんです。

ラサール: どんな化け方すんだよ

沢田亜矢子: 冗談じゃないわよー・・・(呆れる)



斎藤: もしニート対策があるとすれば、親が亡くなった後にお金でもらえれば、それはすごいイイ。

会場: 「エ~~~!!!」 (スタジオ全体が呆然)



西田ひかる【賛成】: 日本とアメリカの大きな違いは、18歳になったらアメリカは家を出て行くってのが当然で、もし実家に住む場合は、家賃払うのが当たり前なんですよ。

沢田亜矢子【賛成】: 家庭の教育もあると思う。やっぱり小さいときから、私のほうが先に死ぬし、最後に残って自分で生きていかなきゃいけないのはあなただよ、ってことはわりと小さい時からやっぱり言って聞かせて、自分は、社会に対して何かいつもアプローチするっていう手段を持ちなさいよ、持ちなさいよってことをしつこく言っていて。やっぱりお父さんお母さんは、彼らに小さい時からそれを言ってなかったっていうのは悪いと思う。

ここはアメリカではない。
また、アメリカのやり方のほうがいいという保証もない。

そして、小さい頃から言って聞かせても、大きくなってから考え方が変わることもある。
こどもは、必ずしも親が期待したようには育たない。
もちろん、学齢期に家庭が崩壊していたなどの場合、高い確率で子どもにも悪影響が出ることは実存的にも統計的にも知られているところだろう。

ただ、斎藤氏のようなニートは、そのような理由によって出現したのではなく、むしろ、正統的な学校教育の成果として生み出されたと言って然るべきであると私は考える。
現在のニートと幾昔か前の高等遊民は、構造的には同じである。
ただ、社会的評価が違っているだけである。
だから、考えた結果としてニートであることを選択するのなら、それは誰にも止めることはできない。



斎藤: ほっといてほしい。

太田: ほっといてほしいんだろ? だったら、カネが自分たちに使われてないなんてことを、文句言っちゃダメだよそれは。

斎藤: いや、だから支援されてないのにされたことになってるから

山本博: (納得して深くうなずきながら) はいはいはい・・・

太田: ダシに使われようが何だろうが、何の文句も言えないのが君たちのやってることなの。 それは文句言っちゃダメなんだよ。


たしかに勤労の義務は憲法において規定されているが、私はこれは、「私のやっていることは勤労である」と言えるだけの何かを見つけてきさえすれば、わりかし容易にクリアできる問題であると考えている。
現に、法の目をかいくぐって違法(違憲)すれすれのことをやる人間はこの世にごまんと存在する。
ニートの例だけが特例扱いとなる理由はない。

しかしこれは、実際問題としてすり抜け可能であるということを言ったに過ぎず、一般論として、憲法違反(27条違反)であるとのそしりをまぬかれ得るわけではない。
ではこの憲法27条の根拠はなんだろうか。
それはおそらく、「国家を保持し、運営するために必要な生産活動は国民が等しく分担しよう」というものではないか。
もし私たちが、誰も働かなくても食べ物が自動的に湧いてくる世界に生まれて落ちていたならば、私たちのうちの誰も、こんな条文は規定しようと思わなかっただろう。
かつて、日本国にとって勤労は大切だった。生産は常に不足気味であり、国民が一致して労働を分かち合わないといけなかった。

つまり、勤労の義務の根拠は、「生産が常に不足気味」であることに求められるのである。
ところで、こんにちの私たちの社会は、「生産が常に不足気味」であろうか。
まさか。
どこかしこも生産過剰である。
モノが過剰である。
サービスも過剰である。
つまり、この条文は、終戦直後や高度経済成長期に代表されるような「生産が常に不足気味」である場合のみに、有効な根拠を持ちうるということである。
すなわち、以上を鑑みる限り、こんにちにおいて、この条文は、それを成立に導く合理的根拠を欠いている。
働くことが美徳であり得るのは、働くことで食えるからである。
たしかにこんにちでも、働くことで金はもらえる。
それは、なにかを生産したのことの証明であるはずだが、その生産物は果たしてだれかの口元に届いているのだろうか。

もし、「生産したものの大半がだれの口にも届かない」ことが分かっていながら、それでも金をもらうという直接的な恩恵のために、はたらくことを拒否できないのだとすれば、それはなんと悲しいことであろうか。

世の中には、私がこの「悲しい」と表現したことを「将来への投資」であると言う風に片付ける人がいる。
今日だれも食わないかもしれないけれど、明日だれかが食うかもしれない。
あるいは、明日予定通り生産できないかもしれない。
そんなときのために、たくさんつくっておくことは必要なのだ、と。

たしかにそれは間違ってはいない。
しかし、その「将来への投資」らしきもののために、「現在の直接の満足度」が大幅に犠牲になることがあるとすれば、それは本末転倒と言わなくてはならない。
過労死などはその典型である。
なにも過労死は、度を超した低賃金ゆえに生じるものばかりではない。
百年後に誰かの口に届くご飯をつくるために、みずからの健康を害するほどまでに労働するのはいかがなものかと申し上げているのである。
百年後に誰かの口に届くご飯をつくること自体は、なにも一律に敵視されるべきものではない。
教育の営みなんてものは、半世紀後の私たちの社会的中枢を構成させるためにあるのだし、科学技術もまた然りである。
宇宙の果てがどうなっているかが分かったところで私たちの日常生活が激変する可能性は、とりあえずは低い。
でも、もしかしたら、半世紀後には、その可能性は今より高くなっているかもしれない。
昨今、本邦では基礎学問の研究が文科省の政策によっておろそかにされていると聞き及んでいるが、これは、文科省が「人智を超えた投資」という発想に関する認識を欠いていることによるものだろう。
人智を超えた投資は、こんにちでは根拠を欠く投資であるとして斥けられがちであるが、宗教的世界観が人々の行為規範を統制していた時代においては、かならずしもそうではなかった。
「神のお告げ」が根拠としての条件を満たした。
この「神のお告げ」というのは要するには誰かの直観なわけであるが、私欲に駆られた連中によって悪用される危険もある。
こんにちでは、悪用されるリスクを抑えることで、結果として、「人智を超えた投資」の有益性、直観の有益性が犠牲になっている側面がある。
もっとも、直観の有益性を担保しつつ、私欲による支配を回避できる方法もないわけではないと思うし、それをさぐる試みは現在もなお続けられているとは思うが。
要は属文的根拠と属人的根拠の使い分けの問題に帰するのだから。
あ、属文的根拠というのは、理由を説明する成文化されている文章の内容に説得力がある根拠のことであり、属人的根拠というのは、信頼されている特定の人が言うから説得力がある根拠のことある。

さて、話は、豊かな現代においても、勤労の義務を規定する憲法27条が有効である理由(この条文の正当性を支える根拠)は何かというものであった。
生産過剰である現代において、ニートなどの働かなくても食える人は、それでもなお、将来における富を積むという半分空虚な理由のために、勤労しなければならないのだろうか。
私はいまここに「半分空虚」と書いたが、実はこれが、勤労の義務が有効か無効かを分ける生命線なのではないかと考えている。

ぜんぶ空虚なんだったら勤労の義務は無効である。
ぜんぶ実存に帰するのだったら勤労の義務は有効である。
これは、誰の目にもおそらく明らかである。
すなわちこれは、こんにちにおいて、「勤労の義務の正当性を支える根拠はグレーである」と言うことができる。



原口一博【反対】: 採る側の経営者だったとします。 経営者だったらどういう人を採りますか?

斎藤: 能力の高い人ですね…

原口: ねぇ。 若い頃からトレーニングを受けて、やっぱりいろんなことをやってきた人を優先的に

斎藤: いやだから、帰国子女とかあるじゃないですか。 だからそのうちニートも、ニート10年ぐらいやった人材のほうが欲しいっていう・・・・ (会場笑い。西田ひかる失笑)

別室の田中裕二: (手をたたきながら爆笑) 馬鹿じゃないかコイツ(笑)。 「帰国子女とかあるじゃないですか」(笑)。 【隣りの女性も呆れたように爆笑】


帰国子女の例は適例ではないと思うが、ニートであること、ニートであったことの社会的評価が今後も変わらないという保証はない。
また、もし仮に、(国民の代表値的な)社会的評価が今後不変であっても、特定の人たちが市場価値を見いだすことになる可能性も十分にある。
この間、たしかクローズアップ現代で、ネットゲームが趣味の会社員が、仕事で忙しくてゲーム世界の通貨を稼ぐ時間が取れないから、誰かにそれをお金を払ってやってもらうという例が取り上げられていた。
そういうのを引き受けそうのは誰であろうか。
また斎藤氏自身は、最近は芸能事務所に登録されているようであるが、これも、ニートであるという肩書きが有効に活用された結果であると判断できはしないだろうか。

こういうことはよくある。
大学教員採用の口は減っており研究者の就職戦線は厳しいはずなのに、なぜか非正規ルート経由で大学教員になる人の数は増えている気がする。
政治家も、議員秘書経由でなく、お笑いタレント経由でなる人たちが増える。
それを最初からねらっている抜け目ない人間もいる。
ところが国や市町村のいわゆる制度設計者(ないし設計者の立場を想定する人たち)は、そういう「非正規ルート経由である種の職にありつく人たちが無視できない人数存在する」というこの当然の事実を、しばしば忘れたかのようである。
でなければ、番組中で斎藤氏の数々の印象的な言葉を聞いた人たちは、驚きさえすれ、唖然とするはずはないではないか。
私は「斎藤氏は自分で考える人だが、番組出演者の大半は自分で考えない人であった」と判断せざるを得ない。
(あ、もちろん彼らが本心ではない、演出である可能性もないわけではないが。
だとすればこの番組はかなり視聴者をばかにした番組であると言うことができる。
私自身は、一応、演出ではないだろうと信じているが。)
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