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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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ふつーの場合の思考の落とし穴 - 考えることが好きだった
「英語は必要だ」は「英語以外は要らない」と解釈される。「この問題は大事だ」は「他の問題は大事でないからやらなくて良い」となる。まだまだいくらでもこの発想は日常的に見いだせる。
「猫なら動物である」は、「猫でないものは動物ではない」と言うことになる。犬も人間も動物ではないことになって明らかに変である。にもかかわらず、多くの人は、なぜこのような思考の落とし穴にはまるのだろうか。


言及バイアスがあるから。

人を当てこする常套手段として、美人じゃない人Aに聞こえるように、美人な人にBに向かって「あなた美人ね」って言うってものがある。

ここで論理学を持ち出して、
「私はBさんが美人だといったんだ。Aさんについては何も言及していない」
という釈明をすることは可能だ。

でもそれは、「ではなぜBさんについてだけ言及し、Aさんについては、或いはAさんやBさん以外のことには、言及しないのか」という問いにたぶん答えられない。

いわゆる論理学の逆・裏・対偶などといったものは、観察者がどこをどのように参照しようが言及しようが、対象は決して変化しない、ということを前提にしている。

論理学の対象は公理に裏打ちされた普遍的な真理であり、公理が書き変わらない限り、いかなる参照行為も言及行為も、対象に影響を及ぼすことなくすることができる、
というような前提がある気がするんだけど、

いわゆる「「AならばB」ならば「AでないならBでない」」といった、我々の日常的な認識や推論に近い論理体系(さしあたり「日常論理」とでも言っておこう)というのは、古典的な論理学(高校や大学1,2年で習うような論理学)とは異なる体系であると考えなければならない。

Aさんが美しいか美しくないか、Bさんが美しいか美しくないか、古典論理の文脈で言うならそれはあらかじめ決まっていることであって、
Bさんの美しさをどれだけたたえても、それはAさんの美しさを少しも変化
させることはない。

しかし、日常論理においては、それがある。日常論理が対象としているのは、真実ではなくて暫定的な真実である。そこにはだから政治がある。

古典論理の枠組みでは、嘘は100回ついても嘘のままだが、日常論理においては、嘘でも100回つけば、いつのまにかみんなが信じるようになっていて、それが真(暫定的な真)になったりするわけである。

もし、われわれの日常というものが、日常論理によってではなく、古典論理によって運用されているのだとすれば、私たちはどのような敵対する組織のアジテーションに対しても冷静でいられる。
なにせ、真実はあらかじめ決まっているのだし、敵対者がなにをわめこうが、それは変わらないからだ。

しかし、幸か不幸か、われわれは、日常論理という推論体系を与えられていきている。そこは「嘘も100回つけば真になる」世界であるから、気が抜けない。「声がでかい者が勝つ」というような経験則もここから生じる。


日常論理が支配する世界で、言及バイアスができるだけかからないように発言するためには、術語動詞が対象とする主語の範囲は、可能な限り大きく取られなければならない。
めのまえにたまたまBがいたからといって、「Bは美しい」などと、軽々しく口にしてはいけないのである。
言及バイアスが掛からないようにするためには、言及するまえに、B以外には美しいものが存在しないのかどうかをよく精査しなければならない。
そして、まとめて、「何々と何々と何々は美しい」というふうな言い方を、しなければならない。
面倒と思うかもしれないが、我々の認識や推論の体系が日常論理で動いていることを変えられそうにない以上、
皮肉や他意がこもらないためには、このようなことに配慮する必要があるのである。
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