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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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レジの順番守れないおっさんたち - G.A.W.
んで、これは俺の主観なんで、ツッコミ満載かもしれないですが、いままで4つくらいの店で店長やってみて、立地って実にさまざまだったんですけど、ぱっと見あきらかに所得低いなーっていう人たちのコンビニでの消費行動って特徴あるんですよ。店の使い分けしないの。一箇所で買うんですね。コンビニみたいに生活に必要なものをひととおり揃ってる店があったりすると、そこに依存する。


これはなんでなのかというのが非常に気になるね。なんでやろ?

低所得者は自分で全部買い物しなくちゃいけないから、少しでも店へ足を運ぶ手間を抑えるために、できるだけ一箇所で買おうとする、とかなのかな?

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ただ、それ読んで「横柄なおっさんにも二種類いる」っていうことをふと思ったので、このエントリを書いてみました。「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。ただどっちにしろマナーの悪いのはおっさんなので、そのへんは不思議なところなんですけどね。あれはなんなんだろう。

 余談のようにくっつけておくと「最近の若いもんは」っていう論調は、この場合はかなり当てはまりません。最近の若い子は、システムってものに過剰なくらい従順ですから。


身なりのいいおっさんも、最近の若いもんも、どちらも、システムに過剰なくらいに従順すぎるんだと思う。
その点では、学のないおっさんのほうに軍配が上がる。

次の箇所がいい例である。

 ふつうに都会で生活してて、たとえばコンビニでレジが3人並んでたとしますよね。で、自分が4人目に並んだとして、欲しいのがタバコ1個だったとする。このときに「タバコ1個ですぐ終わるんだから、さっさと自分のほう片付けれ」って思う人って、わりと少数派だと思うんです。前の人間がジュース100本買うのだとしても、順番は順番じゃないですか。まあ、ほかの店員がレジまわりでのんびりと別の作業してたら「レジやれよおい!」って思うと思いますけど、それだって、基本的には「先に待ってた人からレジに行く」がまあ、基本ですよね。

 ところが、コンビニとかスーパーとかファーストフードだとか、いわゆる作業がマニュアル化されてるフランチャイズチェーン的なものですよね、こういうのが世に一般に流布するようになった80年代以前、これより前の時期に成人したと思われる人たちって「順番は順番」っていう考えかたがあんまりないみたいなのです。都会で暮らしてれば別ですが、田舎の人だと特に顕著ですね、この傾向。だから、レジが何人並んでいようとも、自分がタバコ一個だったりすると、レジではないところから顔を出して「おい、タバコ!」とかやる。それで「順番を守ってください」って言うと「なんだよ気がきかねえな」っていう反応をする。


そうなんです。「気が利かない」んです。システムは気が利かないんですよ。
いや、厳密にいえばこれは正しくない。
システムは気が利かないことがある、ということに気がついているかどうかなんです。

いやいや、これも、まだまだ正しくない。
システムは気が利かないことがあるんだけれども、それに対してどう対応するかの部分において、前者(身なりのいいおっさん&最近の若いもん)と後者(学のないおっさん)は違うんですね。

システムが「気が利かない」と思われる場合、そのシステムを使わない、もしくは無視する、という選択をするのが、後者で、
気が利かなくてもシステムにいつまでも服従し続けるというのが前者なわけ。

これ、生き物としてみたら、前者はひどく滑稽だよね。後者のほうが優秀。あくまで単一で稼動する生き物として見た場合ね。


80年代、かまたはその前後以降ですね、学校から、ヤンキーみたいなのがだんだんいなくなってきた、べつの言い方をすると、教師に真っ向から反抗する奴が減ってきた、その反動かどうかしらないけれども、「見かけ上は従順な奴」はそれに対応するかたちで増えてきた、ということがあると思うんですよ。
その流れのままずーっと、現在、2009年まで来ていると。

なんでこんなことになってるんだろう。
たぶん、システムに反抗してきた時期、というのがあるんだよね。便利なんだけれども融通の利かないシステムに対して、「こんなもんはいらん」と、「俺たちでやっていくんだ」と、そう主張し続けた時期があったと思うんです。

ところが、いつからかその気力が抜けてしまった。「ま、いっか。システム、まあまあ便利だし」と思うようになってしまっていた。或いはそう思う人たちが、マジョリティとなってしまっていた。

役所はその典型だと思いますよ。意味のないシステムを延々と稼動し続けることに意味を見出すというか、不毛な稼動を止めることに積極的でないというか。
そういうマンネリ化した役所的な精神の全国的蔓延というか普及が「完成」したのが、だいたい1980年ごろなのではないかと、こう思うわけです。

先日、面白い宿の話が話題になってましたけれど、私がああいう宿がもっと増えるべきといったのも、
こういう全国的な潮流に現在もなお対立姿勢を取りつづけていられるのはある意味すごいし、
いまこそ私たちはそういうのを見習っていかないといけない、
そういうのをヒントにして、この「システムが過剰に蔓延する社会」「システムに過剰なほどまでに従順であることを強要される社会」からの転換を、図っていかなければならないのではないか、
ということを、指し示したかったからなんですね。

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もう一度引用しますね。

「客と店員」っていうシステムに過剰なものを要求するタイプのおっさんと、「並ぶっていうシステム」を理解できないおっさんと。


並ぶっていうシステムを理解できない、というよりも、並ぶというシステムになぜ服従しなければいけないのかが分からない、といったほうが適切ではないか。

並ぶというシステムがどのようにありがたいのか、また、それを一人が拒否するとどのようなかたちで他の人たちを困らしめるのか。

この問いに対する回答は、二つに分かれると思います。
コンビニの経営なんかやってる人だったら、いや、コンビニの経営だけやないね、広い意味で、コンビニ方式で経営や客商売をやってる人だったら、もう確実に「システムはありがたい」って言うと思うし、「一人が離反するとみんなが困る、だからシステムに従わなくちゃいけない」って言うと思うんですが、

だって、そういうふうに教育されてきているからね、それは学校でもそうだし、子どものうちからコンビニなどで習慣的に買い物することによって徐々に培われていったという側面もあるし、もちろん自分で商売をやる側に立ってから上司などに教わって、そういうことを知ったという場合もあると思うんですが、

これとは逆に、「システムはありがたくない」「システムなんかなくても誰も困らん」ということをはっきり言ってくれる人たちの存在が、私たちの周り、とくに都会においては、現代文化の中心とあらせられる空間においては、そういうことを言ってくれる人たちは、きわめて少ない。
ほぼいないと言っていいでしょうね。

だから都会で育った子どもはみんなシステムに従順になる。
「とりあえずシステムにしたがっておけば問題ない」という発想を生む。
なんのためにそれをやっているのかを考えろ、と言ったって、いきなりは無理ですよ。だってそういうふうに教育されてないんだもん。

そういう点では、都会的な文化からはかけ離れたところにいる、学のないおっちゃんおばちゃんのほうが、よっぽど優秀だと思いますよ。
「システムとはあくまで道具にすぎず、盲目的に従順すべき対象ではありえない」ということを心のそこから理解しているわけですからね彼らは。
だから「おい、タバコ!」というような“すばらしい芸当”が、なんのためらいもなくできる。

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大学でさ、「最近の子は、みんな授業をサボらずに出席してくる」なんて話があるじゃないですか。
でも、出席率が高いだけでね、みんなちゃんと、頭の中まで授業を受ける体勢になっているのかっていったら、たぶんそうはなっていないと思う。
「来るだけ来て寝てる」みたいな大学生は、ここ十数年で少しずつだけれども確実に増えているのではないかと思います。

でもそれは、たぶん、「そういうふうに教えたから」なんですよね。
「座っているだけでいい」と、「見かけ上、勉強しているように見えたらいい」と、そう、教えたからなんですよね。
いまよりも一つ前の時代の教師たち大人たちが。

結果、かれらは限りなく静かになった。従順になった、寡黙になった。その代わりなにかを訊いてもなんにも返してこない。反応がない。


ではかれらの魂はフヌケになってしまったのかというと、それもまた違うと思うんですね。
たぶんね、みんな「別世界で活動する術」を覚えたのです。

テレビゲーム、漫画、ネットはその典型ですよね。古い時代では「本の虫」も、その類かもしれない。
「自分の世界に引きこもる」という、ね。或いは「自分たちだけが分かる世界で暮らす」という、ね。

なにも珍しいことではありません。幼児たちは常日頃からやっていることです。
幼児たちが日々つむぎだす物語に対して、大人たちはいちいき介入していきませんが、そこでは「子どもたちの間だけで通じ合える世界」というのが存在しています。
大人たちは知らないか、もしくは忘れてしまっているだけです。

でね、私はこのモデルが、幼児たちの間で繰り広げられる世界の存在と、その世界の存在に気づいていない大人たちという関係の構図が、
現在の「最近の若いもん」に見られる行動の傾向を説明するのに、非常にふさわしいのではないかと、勝手に思っているわけですね。

「自分たちだけが分かる世界で暮らす」ということの意味は、それです。

でもそれは、学校の先生とか、社会の人から見ると、「単に従順であるか若しくはフヌケであるか、そうでなければ押しても跳ね返らない、反応のないつまらん奴」という、評価になってしまうわけですね。「ああ、最近の若者はどうなってしまったんだろう?」と。

---

現代人は「システムへの過剰適応」を強いられた結果、「別世界で活動する」という術を覚えたのだと思うんです。

でもこれは、ある程度若いときに、過剰適応を強いられるという経験をしないと、身につかない術だと思うんですね。
だから、そういうのを強いられた経験を持たない「学のないおっちゃんおばさんたち」は、システムからの要求要請に対して非常に自由なわけ。

私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。

そこが、課題なんだと思います。

コメント
この記事へのコメント
お久しぶりです.

覚えていらっしゃいますか.ほり先生ブログに出入りしてますゾウムシです.まだ,出入り禁止にはなってません(笑).

まあ,基本的に真っ向反対の意見は出してませんからね.言ってもムダだから(笑).

ところで,本題.本エントリについては,賛同です.というか勉強になりました.

>私たちはこの財産、「システムからの要求に対して自由な人々」の存在を、どのようなしかたでならありがたく受け止めることができるだろうかと。

ということですが,最近,エントリ本文の例とは逆のことを知り合いから聞きました.

このエントリでは,タバコ1つくらいええやろと「割り込み」をしてくることが書かれていますが,私の知人は前の男性がタバコ1つのような感じで,知人が買いもかごにいっぱいいれていたもんだから,「お先にどうぞ」と言われたそうです.

早いもの順のシステムには反していますが,こういう反しかたもあるわけです.

これなら

>システムからの要求に対して自由な人々

をありがたく受け入れることができます.

そういう意味での合理性のほうへもっていければ,自由な人々が迷惑にならないんじゃないでしょうか.

タバコ1個で割り込んでこられても過去に私はタバコ1個だからと順番を譲ってもらった経験があれば,そこまで腹立たない.

まあ,品物が5ヶ以内ならこちらのレジでなど,もありますけどね.そういうのも全部システムに落とし込む作業ですよね.

平凡な表現ですが,あとはお互いを思いやる気持ちのような基本的なところだと思います.
2009/10/19(月) 14:20 | URL | ゾウムシ #-[ 編集]
ゾウムシさん、いらっしゃいませ。
もちろん覚えてますよ^^


> このエントリでは,タバコ1つくらいええやろと「割り込み」をしてくることが書かれていますが,私の知人は前の男性がタバコ1つのような感じで,知人が買いもかごにいっぱいいれていたもんだから,「お先にどうぞ」と言われたそうです.

これは、タバコという例が「譲る側」であるか「譲られる側」であるかという観点からすれば確かに「逆のこと」ですが、
「システムに杓子定規に従うのではなく、それを弾力的に運用する」という点からすれば、逆のことではないように思われます。


> 平凡な表現ですが,あとはお互いを思いやる気持ちのような基本的なところだと思います.

システムというものがつくられるそもそもの動機が、おもいやる面倒くささから解放されるというところにある気もするので、なかなか一筋縄ではいかないようにも思います。

数十人とか百人とかの村で済んでいるのならシステムなんてなくても暮らしていけるのでしょうが、
それ以上になると、村人の顔とか、だれがどの面においてどれだけ信用で着るだとか、いちいち覚えていられなくなるので、
それ以上の規模の集団を集団として維持しようとするとどうしてもシステムが必要になってくるのでしょうが、
一方で、「システムは冷たい」「システムは融通が利かない」という負の側面をつねに背負っていかなっくてはいけなくなったというところがあるわけですね。

本気でシステムを嫌うなら、それこそ百人くらいで無人島に引っ越して、そこで百人で自給自足の生活をすればいいわけです。
それで、おそらくは閾値であろう150人くらい以上に人間の数が増えてきたら、何らかの方法で口減らしを行なうと。
そういう覚悟が持てるんなら、それも一つの選択ではあるのでしょうが、日本にふつうに生まれてふつうに暮らしている限りでは、そういうことはまずできないので、仕方なくシステムの負の側面を抱え込みながら生きていくしかなかったりするわけですね。

とはいってもこれは両極端な話で、お察しの通り、実際には、グラディエーションがあります。
「おいタバコ!」的なおっさんは、なにも150人以内の村で自給自足で暮らしているわけではありませんからね。

国というでかいものが成り立ちつつ、末端では「弾力的運用」が当たり前のようになされていて、しかもそれが、とりあえずはバレなかった時代というのがあるわけです。

ところが、ここ最近、10年くらいは、なんでもかんでも一本の理屈をどこにでも通そうとするあまり、これまで当たり前のように行われていた「弾力的運用」ができなくなり、
末端が苦しむ、もっとドぎつく言えば、末端が人間性を失ってただただ機械的に振る舞うことを強要されるようになってきているわけですね。
それに対して、「おかしいよね」って考えているのがちょうど「いま」なんだと思います。
内田先生の、憲法の規定と自衛隊の存在との間にある矛盾は必要な矛盾であるとの主張も、この一例(すなわち、末端の理屈とシステムを統制する側の理屈が首尾一貫しない状態を何十年も維持し続ける一つのメタシステムの存在)であると私は捉えています。
2009/10/19(月) 22:42 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
お返事ありがとうございます.

>システムというものがつくられるそもそもの動機が、おもいやる面倒くささから解放されるというところにある

そうですね.正にそう思います.でも,その面倒くささを避けたがゆえに,今度は別な煩わしさを抱え込むようになったんでしょうね.

近所付き合いをせず,マンションの隣に誰が住んでいるかも分からない.その分,お互い気楽.で,何か問題があればマンションの管理会社にやってもらえば良い.でも,隣がどんなヤツか知らないってのは基本的に不安なものです.

>末端では「弾力的運用」

そもそも人間というシステムがそんなに完璧なものじゃないですからね.人間程度の融通性や矛盾を抱えたシステムにしておけばいいのですが,どうも「人間以上」のシステムを作りたがるようですね.

いや,むしろサイボーグに適用するようなシステムのほうが作り易いんでしょうね.人間の感情を入れ込むのは大変だから.
2009/10/20(火) 10:07 | URL | ゾウムシ #-[ 編集]
> そもそも人間というシステムがそんなに完璧なものじゃないですからね.人間程度の融通性や矛盾を抱えたシステムにしておけばいいのですが,どうも「人間以上」のシステムを作りたがるようですね.

なにをもって「完璧な人間」であるかということも、重要なポイントでしょう。
かりに、閾値が150人ではなくって、1億人だったとしても、集団の規模が1億人を越えれば同じ事です。結局、どこかで天井にぶつかることになります。

また、もし天井がなくって、青天井だったとしたら、
つまり、地球上に人間が何億人いようが何十億人いようが、全部の人間と深いコミュニケーションを取り、かつ、互いに信頼し合うことができるくらいに、人間の能力がすごいものだとしたら・・・、
なんて考えたりもするのですが、物理的・生物学的制限に見舞われるだけなような気がしています。

どこでもドアがあるわけでもないこの世界。それだけでも、遠距離の移動にはコストがかかります(地元は地元のなかでコミュニティが形成されやすいということ)。

人生80年で、10億人の親友ができるとすると、生まれてから死ぬまでまったく不眠不休で、約2.5秒に1人のペースで新しい人と出会って行かなくてはいけないことになり、これもまた、我々の現実感覚とは著しく異なったものになります。

かりに、人体改造まがいのことが技術的に可能になったとして、「その改造手術を受ければ10億人の親友ができますよ」ということになったときに、その手術を受けたいと思うかどうか。
たぶん、ほとんどの人は受けたくないんではないかと思うのです。
それはなにも、新技術に対する懐疑からだけではなく、
我々の現実感覚は、2.5秒に1人のペースで新しい人で出会っていくような状況を、まともで健全なコミュニティ形成のあり方だとは認識しないだろうということなんですね。

もはやそれは人間ではないと。


ですから、150人のところに閾値が設定されていることをもって「これぞ人間の不完全性だ」と言うときに重要なことは、
たんにその閾値があがれば人間は幸せになれるんだと素朴に信じることでは、たぶんないでしょう。

そうではなくて、閾値が存在する限り、言い方を変えれば、そこでいうところの不完全性が存在する限り、

自分の立ち位置の近くにあるシステムや人間に対しては、原始時代と同じコミュニケーションの仕方で対応し、
自分の立ち位置から遠くにあるシステムや人間に対しては、彼らが自分たちに示す建前をもとに、整合性のあるかたちで人間社会全体の描像を構築するといったことが、
必要になってくるんだと思います。

建前の向こう側にある本音が大事だ、というのは、たしかにそうなんだけれど、人間はすべての人間と深い関係になれるほどよくはできていないという、人間の能力の限界性をふまえる限り、本音にはあえて踏み込まず、建前だけを受け取って処理するという姿勢をつらぬくことがどうしても必要になってくるわけですね。

その建前と、自分たちのコミュニティ内での理屈が整合するのなら、とりあえずはよしとする、という。

その建前という壁をやぶって向こう側の本音を引っ張り出すからややこしいことになるわけで。

もちろん、談合とか犯罪とか、壁をやぶるほうが正義の場合もあるんだけど、、なんでもかんでもやぶりまくれば正義が貫けると思いこむことはたいへんに怖いことでもあろうと。
そういうふうに思うわけですね。

「中央と末端のあいだにある矛盾をあえて解決しない」というときの「末端」というのは、末端の「本音」を指しています。少なくともここでは。
2009/10/20(火) 18:04 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
システムの気の利かなさ加減は、難聴者にとっては非常に煩わしいんですよね。

パッと見た目、健常者なので店員はマニュアル通りに対応(接客ではない)するのだけど、難聴者と分かってもこちらが「筆談でお願いします」と言わない限り、おろおろしてマニュアルを押し付けようとする。それ自体は店員に同情はするものの、しかし、こちらもどう対応してあげたらいいか、「聞こえない」から分からない。

システムってそういうイレギュラーに非常に弱い面があって、システムを嫌う人ってのは性格的な面の他にシステムが用意しきれていない状況に対して非常に不親切な面に苦労してるから嫌いという人も居るわけです。

まぁ・・・件のおっさんってどうも、コンビニをKIOSKみたいな感覚で考えてる節も考えられますけども。
2009/11/01(日) 10:54 | URL | kaiou #uS2JIe22[ 編集]
確かに、ぱっと見で分からない非健常者に対する対応というのは、マニュアルのなかに組み込まれていて然るべきかなと思います。
まあ、規定にはあっても、それがごくたまにしか使われないなら、運用の難しさというのはどうしても付きまとうものかなとも思いますが。


> システムが用意しきれていない状況に対して非常に不親切な面に苦労してるから嫌いという人も居るわけです。

その通りだと思います。

2009/11/02(月) 04:56 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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