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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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クーラー格差? - 考えるのが好きだった
> この暑さで、教室にクーラーを設置するところが増えている。私が耳にした範囲だけだが、いわゆる困難校でクーラーが設置されたという話はない。
> クーラー設置の費用が、保護者、同窓会?負担になっているからか?

「進学しない奴は勉強しなくてもよい」という考えのあらわれでしょうね。誰がそういうふうに考えているのかというと、「みんな」である。

もちろん、このことをあからさまに言うと、いきり立つ人は多いのだろうけれど、そしてその憤りは、確かに正論なのだろうけれど、やはり、正論でしかないというところはある気がする。

学校と言うところは、「世の中がどうであれ“正論”を広めてゆくところ」だから、本来はクーラー設置を支持しないといけないのだけれど、どういうわけか、その逆になっている。

公立校向けの予算が傾斜配分されているとしか思えない。でないとおかしいじゃないか。もし、どの公立校にも同じ額だけの予算がつくのであれば、困難校は、クーラーを設置しなかった分だけ、ほかのところが充実していなくてはいけない。だが、そういう話は聞かない。

これは資源配分の問題なのだけれど、いまのご時世、資源を平等配分するのではなくて、「できる奴にどかんと与える」という方式が優遇されがちな傾向にある気がする。

そういうやり方をすると、資源を渡すほうは気分がいいし、資源を渡しているのを観客席から眺めている人たちにとっても気分がいいのだけれど、実際にその資源を受け取る人たちのことを考えると、とても善策とは言えない。わずかしかもらえなかった人たちだけでなく、たくさんもらった人たちも、いろいろな面で困るものである。

この構図は、近年では「小泉劇場」において或いは見られたのかもしれない。「権力行使者」と「観客たち」の気分だけを優遇すると、「権力を行使される人たち」が困ることになる。そして、いまの政治というか、意思決定システムは、このことを見逃しがちであることが多いのではないだろうか。


> 私は、この違いが何らかのphysicalな影響をもたらさないだろうかと思う。身体形成の若い時代の数年間をクーラー付けで過ごすのと、暑い暑いとぼやきながらでも過酷な環境で日々を送るのとでは、それ以降の身体の適性?は変わってこないだろうかと思うのだ。

同じクーラーづけということで言えば、アメリカのほうが事情はひどいと思う。それほど多くのアメリカの事例を知っているわけではないのでアレだが、「こんなに冷やす必要があるのか?」と勘ぐりたくなるほどだった。青少年向けの施設なのに、である。いまにして思えば、「さすが、エネルギーの浪費を厭わない国、アメリカ」と言ったところであろうか。

それに比べれば、日本の公立進学校の事情はまだまだ「なまやさしい」と思う。

さらに言うと、同じ「冷房完備」でも、冷えている度合いが場所によって違う。百貨店やスーパー、そして大きめの進学塾は、基本ガンガン冷えている。これが公教育の学校になると、冷え具合が穏やかである。そして同じ公教育の学校でも、公立校であったり困難校であったりするほど、冷え具合が穏やかになり、最後には冷房自体がなくなってしまう。

私の知人が、ある法律系の事務所に行ったときの話なのだが、なんでも、その事務所では、玄関に弁当がたくさん積んであったということである。どうやら、「仕事が終わるまでは帰さない」ということらしい。

この話は思い出したのは、たぶん、こういう関係からだと思う。「飯はやる、冷暖房もきちんと与えてやる、必要なものはなんでも与えてやる、だから、仕事をはやくやれ」

その事務所も、そして進学塾もだが、「特定の目的を達成する場所」である。だから、「必要なものは全部与えてやる。だから早く確実に目的を達成しろ」という論理が通用する。金のある職場ではとくにそうである。「必要なものが買えない」を言い訳にできないという厳しさがある、とも言えるかもしれない。

そこへいくと、公教育の学校というのは、「特定の目的を達成する場所」ではない。だから、「必要なものは全部与えてやる。だから何々を早く達成しろ」という論理は通用しないはずである。通用しないはずであるのに、通用しているかのような様相がはびこっているのは、公教育の場で学ぶということを、「特定の目的を達成する場所」であるとはき違えている輩が多いからであろう。


> クーラーのある進学校の生徒でも、運動部などで身体を鍛えているだろう。しかし、持続性という観点では限りがある。「現場で働く」というのは、日々の継続で、言ってみれば瞬発的な体力ではなく、忍耐強さのような耐えることができる力だろう。朝の7時から夕刻まで気温30度かそれ以上の環境に身を置いて培われる体力と、たかだか3,4時間の運動で培われる体力には質的に大きな違いが生じるのではないのかと思うのだ。(あくまでも推測だが、さほど間違っているとも思えないのである。)

体力というよりもむしろ主観の問題だと思うんですよね。いくら暑くても、冷房という存在や概念を知らなければ、「冷房がないけど我慢する」みたいな発想にはならない。「なに、暑い? 夏は暑いものだ。」で終わるものである。

なまじ、冷房という「ありがたいもの」を知ってしまっているから、それとの対比で、後悔や怒りなどの喜怒哀楽が起伏するのである。

かつて私は、エアコンのない部屋で暮らしていたとき、扇風機をじかに風射しながら、勉強や仕事をしていたわけだが、あるときエアコンが設置されることになると、今度はそれ以降は、ちょっと暑いだけでエアコンをつけたくなる衝動に駆られるようになった。

「エアコンが部屋に設置されている」という事実が、かつてならば生じなかったはずの衝動をわたしの内側においてかき立て、それが結果的に用事の邪魔をするので、私はその衝動に対処するために、しかたなく冷房のスイッチを入れたのである。

もちろん暑さそのものによって仕事の能率が妨げられるということはある。しかし、そういう場合は実は少数なのかもしれない、と最近思うようになってきたのだ。

いまになって、暑いのの何が嫌かということを考えてみると、それは、正確には、暑さそのものではなく、「暑さによって汗をかき、その汗がシャツにしみこんでベタベタと気持ち悪いのだけれど、着替えることができない」ということのほうだと思うようになってきた。

「ならば、代えのシャツを持ち歩けばよいではないか」とおっしゃるかもしれないが、汗というのはかく人は5分と待たずかくので、その「気持ち悪さ」から逃れるためには、1枚や2枚では到底足りないのである。

結局、「汗拭き用のタオルをいくつか常備しつつ、裸同然で事に当たる」というのが、暑さに対処するための最も効率的な方法なのだが、通念では、それほど親しくない第三者がいるところで裸同然になることは許容されていない。

こういうふうに考えてみると、冷房や暖房というのは、暑さや寒さに対抗するというよりはむしろ、人間の紳士的な心の構えに打撃を与えてしまわないために存在している、とも言えるのではないかと思えてくるのである。

すべての人が紳士的に振る舞うことが要求されるような場では、必ず冷暖房が完備されている。「正装」というのがそもそも、自然の暑さ寒さに適応するようにはできていないのだ。

繰り返すが、暑ければ裸になればいいのである。そして定期的に水浴びをすればいいのである。そういう意味では、必要なのは冷房よりもむしろ「いつでも水浴びができる環境」である。


今日の子どもたちは、いろいろな店が、基本冷暖房完備であることを知っている。私たちは、子どもたちはもちろんそうだが、冷房というものの存在を知らずに過ごす権利を与えられていない。そういう意味ではこれは権力である。この圧倒的な社会的権力の前に、私たちは、「ああ、うちにも冷房があったらいいのになあ」などと“要らぬ雑念”に吹かれる結果となるのである。

「暑さに耐える体力というものが存在する」という考えに私はやや懐疑的である。あったとしても、それは筋肉的な体力ではなく、精神的なものだと思う。

さらにまた雑談になるが、今日では、「人間のためというよりも、パソコンなどの電子機器の暴発を避けるためにこそ冷房が必要である」という側面もある。

人間やほかの生き物たちは、自然と調和するようにできているが、いまだかつて、自然と調和するようにできている電子機器というものにお目にかかったことがない。

本にしてもそうだ。風雨に晒された電子機器は、その寿命を著しく縮めるのとまったく同様に、雨風に晒された書物は、より早くボロボロになる。ほんとうに本を大切にしている人間であれば、真夏の日なたで読むのではなく、冷房のきいた図書館で読むのが正解というものであろう。

冷房のある環境で生きるというのは、自らを電子機器化するようなものでもある。そして、電子機器化している人間のことを私たちは“紳士淑女”と呼び習わすのである。

もちろんいかなる紳士淑女も、自然と触れ合えるだけの体力や精神は持ち合わせている必要があるが、それは自然を観察する必要のあるときであり、それ以外の時間においてはむしろ自然は邪魔なのである。

田舎の公立小学校で、ある子の椅子に虫が付いているときに、キャッと言ってその虫に驚いて一歩引く子と、その虫に対してまったく驚きもせずに素手でつかんでニヤニヤしている子と、どちらがより紳士淑女的であるかということである。

例えば女の子であれば、虫に驚くことができる能力を持っているほうが、男の子にモテるかもしれない。かつての貴族が下衆どもを見下したように、その女の子もまた「虫」という下衆のごときものを見下すことができるということを誇示することによって、自らは気品溢れる人間であるということを勇に外部に対して発信しているとも考えられる。

私たちは、どのような、男の子、女の子、ひいては子どもが育つことを、真に望んでいるのであろうか?




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