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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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計画性の有無で罪の重さが変わるというのがわからない - ロックンロールに蟀谷を
突発的犯行のほうが「ついうっかり」度が高いという考え方もできるけど、突発的な犯行だからこそ「何の躊躇もなく」行われた犯行だと考えることもできる。そんな拠り所のない理由で刑罰が変わるのが理解できない。

一番納得できないのは、周到に計画練ってたから残忍という考え方。

だって、誰しもあると思うんだ。実際に行動を起こそうなんて思ってなくても、計画だけしてみることで少しでもその願望を満たそうとすることが。

例えば自殺にしたって同じで、死んじゃおーかなーなんて軽い気持ちで、遺書を書き上げて、縄を買ってきて、縛り目つくって、踏み台用意したあたりで、なにやってんだおれはって我にかえることとか、あると思うんだ。あるいはそのまま我にかえることができずにうっかり死んじゃうことだって、あると思うんだ。

「実行」よりも「計画」のほうが、とりかかる際の抵抗がずっと小さい。だから、全然実行する気なんてもともとなかったのに、計画をしてるうちに、最後の最後で「ついうっかり」殺人を犯してしまったっていうケースだって全然少なくないと思う。

これは根深い問題のような気がする。


責任 - ja.wikipedia.org
刑法上での狭義の責任とは、構成要件に該当する違法な行為をしたことについて行為者を非難できること(有責性)をいう。これは、行為者が他の適法な行為を行うこともできたのに(他行為可能性)、あえて違法行為をしたことに対する法的非難である。

責任の類型としては、故意と過失がある。故意は、違法な結果を認識しながら行為をしている点で他行為可能性・非難可能性があり、過失は、注意義務を尽くしていれば違法な結果を回避できたのにこれを尽くさなかった点で他行為可能性・非難可能性があるからである。

「故意」と「過失」の双方ともに、どこに「他行為可能性」があるのかについては述べられているが、どこに「非難可能性」があるのかについては陽に述べられてない。
「計画的な犯行のほうが重罪」という知られた通念を導くためには、「非難可能性」に差異があることを利用しなければいけない気がするが、その肝腎の非難可能性についての言及が、少なくともここの記述では避けられている。

「他行為可能性」については、自由の有無、自由意思の有無、そしてその自由意思を正しく行使しうる能力の有無(責任能力の有無)ということが、要件として重要になるのだろうが、では「非難可能性」の要件とは何だろうか。


過失 -ja.wikipedia.org
日本の刑法では「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」(38条1項)として、過失犯(過失を成立要件とする犯罪)の処罰は法律に規定があるときにのみ例外的に行うとされている。犯罪論における過失とは、注意義務に違反する不注意な消極的反規範的人格態度と解するのが通説であるが、過失犯の構造については議論がある。

故意 -ja.wikipedia.org
故意(こい)とは、[..略..] 刑法においては、「罪を犯す意思」(刑法38条1項)をいう。
名城大学コンプライアンス研究センター長・教授の郷原信郎(検察官出身)が刑法第38条を引いて「犯意が存在することが刑事処罰の大原則であることは、刑法の基本中の基本」と指摘

どうやら、刑法38条の規定が、過失犯よりも故意犯のほうが罪が重い根拠のようである。
しかしなぜこの規定が妥当なのかについてはまだ不明瞭だ。「基本中の基本」と言われても、なぜそれが基本なのかが分からなければ、それを知っていることの価値の半分くらいは無いようなものだ。

昔、弁護士を目指していた知人から、「刑法は悪い人を懲らしめるためにあるんじゃなくて、更生させるためにある。更生が刑法の目的である。」という話を聴いたことがある(←調べてみたところによると、これは刑法の新しい解釈らしい。旧い解釈では、刑法の目的は更生ではなくて応報となっている。)。
たぶんこのことが、刑法38条に妥当性を与えているのだと思う。
「更生させる」というのはつまり、「罪を犯す意思が頻繁に芽生える状態」から「ほとんど芽生えない状態」への移行を積極的に支援するということであり、それは、罪を犯す意思があったことによって有罪となった者に対しては有効な支援だが、そうでない理由で有罪となった者に対してはあまり有効な支援ではないような気がする。
ではなぜ過失犯もまた有罪となるのかについてだが、二つ上の引用にしたがって考えると、それは、「消極的な反規範的態度が罪に相当するから」ということになる。であれば、過失犯に対する更生措置とは、「消極的反規範的態度を頻繁に取る状態」から「ほとんど取らない状態」への移行を積極的に支援することであると言えることになり、これもまた、刑法38条の規定をおのずから得心させてくれるものではなくなってしまう。

この2つの有罪性の違いは、一つには、罪を犯す意思が、行為者の積極的な意思によるものか、消極的な意思によるものかというところであろうか。
しかし、「消極的な意思のほうが罪が軽くてよい」というのは誰が決めたのだろうか。


まだ分からないことがある。「この意思というのは、どの時点での意思を言うのだろうか」ということである。
「カッとなってやった」というのは常套句であるが、本人は、カッとなる直前までは、カッとなったあとに自分がなにをしでかすかについての認識がないわけである。で、カッとなって、やっちまったあとになって、「たいへんなことをした」と気づくわけである。
この場合、本人の責任能力の有無はどのように判断されるのであろうか。
カッとなっている間に生じた意思は、法的には意思扱いを受けないのだろうか。受けないのだとすればそれはなにゆえに免除されるのだろうか。

酒を飲んだら人が変わるという人がいるように、カッとなったら人が変わるというような人もまたいる。
たとえば、カッとなって人をナイフで刺し殺した場合だと、「そもそも自分はときどきカッとなってしまって、その間はなにをしでかすか分からないような人だ」ということを自分で認識していれば、ふだんからナイフを持ち歩くなどという愚かなことはしなかっただろう。
ではカッとなって殴り殺してしまえるくらい腕力のある人で、なおかつ、ときどきカッとなってしまってなにをしでかすか分からないという性質を持った人というのは、かりにそのことをまえもって自覚していたすれば、この人はどうするのが最適なのであろうかと考えると、まあたぶん、この場合はほとんど病気認定を受けるだろうから、病院で薬物投与などの治療を受けるのかな、というような気はする。

ところで、「ときどきカッとなってしまって、なにをしでかすか分からないような人」というのは、どれくらいいるのだろうか。ものすごく少なければ「病気」ということで片づくかもしれないけれども、2人に1人とかだったらどうする? いや、あながち冗談でもない気がするのだが。カッとなる条件が人それぞれ違うだけでさ。

「カッとなっている間の責任能力がどれくらいであるか」についての蓄積された所見はあるのだろうか。
全然違う話になるが、走っているときに横腹がいたくなるのがなぜかというのは、科学的にまだ究明されていないそうである。聴いたのは何年か前の話だから、いまは究明されているかもしれないが、その理由というのが、「走っている最中の人間の腹のなかの状態を調べることが困難だから」というものだ。なるほどと思った。あの痛さは、走るのをやめると同時に消えてしまう。
同じようなことが、「カッとなっている間の責任能力」についても言えるかもしれない。「カッとなった瞬間に頭に測定装置を取り付けて…」というわけにはいかないだろう。カッとなっている間の責任能力が、平常時のそれに比べてどれくらい変化するのかについての科学的な所見は、少なくとも私は知らないし、そういう所見を得るのはとても難しい気がする。

よく、カッとなって人を殺してしまった人に対して、「精神鑑定」によって責任能力の有無を判定するということが行なわれているが、あれってどうなのかなと思う。平常時は責任能力があっても、カッとなると突然責任能力もなにもなくなる可能性がある。それについて刑法は、刑事裁判はどのような判断をしているのだろうか。

刑法によれば、心神喪失者は責任無能力者とされ犯罪が成立せず(刑法39条1項)、心神耗弱者は限定責任能力者とされ刑が減軽される(刑法39条2項)。
逆に言うと、こういうことが認められない限りは、「責任能力はある」と、法的には判断されるということである。
「心神喪失」も「心神耗弱」も、どちらも、「精神疾患」という医学上の所見を参照して裁判官が判断することである。
ここで、「突発的にカッとなって一時的にみさかいがなくなる状態」が訪れる人を、精神科医が「精神疾患である」と認めるかどうかというのが、おそらくは焦点になる。
これはぼくの予想だが、たぶん精神科医の多くは、そういうのを「精神疾患である」と認めたいと思う。だって、その人が「精神に医学的に問題を抱えた状態」であることには間違いないんだし、そうである以上、なんらかの治療や改善のためのメニューを提案したりして、積極的に支援していくことは医者としての義務だと思うから。
しかし一方で、なんでもかんでも精神疾患を認定してしまうと刑事裁判が成立しなくなる。「なんのための刑事裁判だ!」というふうに、殺された被害者の遺族は叫ぶだろう。
もちろん、責任能力の最終的な判断の権利は裁判官にあるので、精神科医の主張を軽視することもできるわけだが、それをしまくると今度は、「なんのために医学的知見を参照しているのかね君は!」となじられるハメになるだろう。

こういう事柄に対して、「精神医学が未熟であるから、こういったややこしいことが起こるのだ」という向きもあろうが、私は必ずしもそれが原因であるとは思わない。
何度も言うが、たぶん、誰しも条件さえ整えば「カッとなったら理性を失う人」で有り得るのである。そしてその条件がなにかということを、部分的には知り得るけれども完璧には知り得ないということである。
そして私たちが暮らしている社会は、人口の三分の一とか二分の一とかを精神病院に送り込むことができるほど、社会的インフラに余裕のある社会でもまたないということである。ロボットが生産労働の大半を担っている社会であればともすれば可能かもしれないが、そうではないということである。

やはりこの種の問題は根深そうだ。

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2009/07/14(火) | ロックンロールに蟀谷を
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