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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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> 大学と大学進学率を減らすことで、労働力を増やすと同時に、高等教育の負担感を(結果として)なくすことを主張しているのが三浦展氏で、少子化対策兼、労働力対策として意外に有効な可能性がある。

> 競争力や生産性の向上に「教育が重要である」ことは総論として誰も否定しないが、どんな教育が有意義か、ということであり、産業界と連携し、若年層の雇用を促進する職業訓練中心に転換する、ということになる
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000387.html
もし、三浦氏のいうように、大学と大学進学率をいまの半分以下にまで減らしたら、大学教員の雇用市場もいまの半分以下にまで減るよね。

大学教員の雇用数を確保しつつ、大学数と大学進学率を大幅に減らすには、潰した大学で雇用されている教員を全部、残留している大学に移籍させて、かつその人件費は税金で賄うようにする。そのために必要となる税金の増分は、大学に行かず若くして就職した人たちの増分から抽出すると。

つまりこれは、「大学に行かんくてもいい奴はさっさと働いて税金の増収に貢献しろ。その増収分は既存の大学全体の生産性維持と向上のために使わせてもらう」っつー論理だよね。

現状で大卒と高卒とで、就職差別というか、経営者から見たときの「使える度」「一緒に仕事をしたい度」に、大きな差があるからだろう。はずれを引く確率に十分大きな差があるからだろう。

では、そこから、その差の補填に大学教育の中身が貢献していると、一見言えそうだが、私はこれは「言えない」と思う。


というのは、これは、能力の問題と言うよりも自覚の問題だと思うからである。

もし、大卒と高卒との間にある就職差別が、「能力の問題」なのであれば、その差別の根拠は、「大卒の人間はこれこれができるが、高卒の人間はそれができない」ということであらねばならない。

つまり、大卒と高卒とでは、労働の「能力」に差はないけれど、「労働者たる自覚」には大きな差があるということである。

かつて、15歳くらいで成人を迎え、10代で結婚するのが当然だった時代においては、現在の高卒くらいの年齢、18歳くらいの年齢の子においても、十分に「労働者たる自覚」は芽生えていた。

現在、子どもたちから、18歳の子どもたちから、「労働者たる自覚」を剥奪しているのは、成人年齢が上昇したこと、平均結婚年齢が大幅に上昇したことがとてもデカい。

だから、高卒ほやほやの18歳の子どもに、バリバリ「労働者たる自覚」を持って頂くために必要なことは、親が子を、18で結婚させて家から追い出すことと、そのための準備を子どもの頃から着々と進めることである。

かつて、15歳が成人だった頃の子どもというのは、自分は何歳くらいになると家から追い出されるのか、何歳くらいになると独立して世帯を持たなくちゃいけなくなるのかについて、親からことあるごとに聞かされて育っていたのではないか。だから18の時点で労働者たる自覚をすぐ持てたのである。


いま、ニートやフリーターが社会問題になるのは、ひとえに、子どもが「労働者たる自覚」を、子どもの時からことあるごとに親から聞かされてこなかったということが大きい。そしてその理由は、親たちからある種の自信がなくなったことが効いてるのではなかろうか。

別言すると、職業選択の自由に(形式的にだけではなく実質的にも)晒されている社会においては、「労働者たる自覚」がなんであるかが、とても難しくなっている。二昔前なら、「父ちゃんを見習え、母ちゃんを見習え」の一言で済んだものが、それで済まなくなってきている。

職業選択の自由がない社会においては、労働者たる自覚の意味は非常に簡単である。自分がどの職業に就かなくてはいけないかはすでに与えられているので、無駄な紆余曲折を経る必要がない。教師になるのなら師範学校に行かなくてはいけないが、ならないのならいかなくてよいし行くべきでもない。

ところが現在では、その自由があるので、無駄な紆余曲折がありまくりの人間が量産される。大学卒業してから美容師になるとか言い出して専門学校に行ったり、高卒でもなれるのに、わざわざ大卒を経由してから警察官になったり。そういう人間が増えまくる。

そういう人間が増えまくると、誰がトクをして誰が損をするのかというと、とりあえず学校の経済的支持基盤の安定と増収には貢献する。一方で、親の財布泣かせになる。一方、国益という観点からは、その親の財布が、どれだけGDP向上につながっているかなどの視点が大事である。


職業選択の自由がない社会の人間からすると、一見とても無駄なことをしているようであるが、その無駄さは、いってみれば、職業選択の自由がある社会に生きることを運命付けられた人間が不可避的に担わざるを得ないコストであると見なすこともできる。

もっと平たく言ってしまえば、自由にはコストがかかるということだ。だから選択肢は2つである。職業選択の自由を廃止して、節約的な社会を目指すか、廃止せずに、そのコストを受け入れる社会を目指すかの二者択一である。そして後者の場合、誰がそのコストを担うべきかという問いが避けられない。

いまから職業選択の自由を廃止する方向に向かうのは、倫理的にも実質的にも難しい(ただ、さまざまな輻輳の結果、実質的に職業選択の自由を投げ捨てる道を多くの人々が選び、それが恒常化する、というようなことが現れれば別だが)。


もし、大学が、大半の学生にしてやっていることが、「自覚養成のための時間の提供」でしかないのであれば、大学教員は、授業などは即刻やめて、研究に専念したほうがよほど大学的にも国内的にも国際的にも貢献的であろう。

授業がないと学生はどうなるのか、についての経験的知見は、「学生運動全盛期の頃の学生だけが、選択的に労働能力が低い高い」というようなデータによってしか裏付けられないが、たぶんその手の差異は見いだされていないと思う。

以前にブログで触れたことだが、現在日本で、労働年齢にある人間が、胸を張って時間を確保できる場所というのが、大学くらいしかないということは大きな問題ではないか。

「時間の提供」だけが大学の役目であるなら、それはべつに大学でなくてもできるはずだからだ。できるはずなのに、やっていないのは、大学生という身分以外の形で時間を確保していると、やれニートだとか、社会的に批判されるからだ。



記憶が不確かだが、確かフランスでは、人種別の統計を取ることが禁止されているというようなことを前に見知ったと思う。私たちは、AグループとBグループを区別するための情報が与えられていなければ、その情報を利用しようだとか、活用しようだとかは思わない。

大卒と高卒とで就職差別があるのも、新卒と非新卒とで就職差別があるのも、この両者を区別することのできる情報を、採用側が手に入れることができるということがとても大きい。

これもまた記憶が不確かだが、アメリカの或る組織では、採用の際に人種の情報を取ることが禁止されているという。

日本では、例えば、内定者が特定の大学に偏らないようにと、学校名を見ないで採用したところ、かえって偏ってしまった、なんて話があって、だったら、学校名を見て、偏らないように取ったほうがいいじゃないか、という意見があるが、これは本質的におかしいと私は思う。

日本に限らず、例えば、統計上の職場の女性比率を上げるために、政府から「積極的に女性を採用せよ」なんて圧力がかかる場合があるが、それは逆差別かもしれない。女性と男性とで採用倍率が変わることになるからだ。

結局、性別にしろ、人種にしろ、学歴にしろ、そういう指標が採用のための参考情報として利用できてしまうということが本質的に差別or差別感の温床であることが分かる。であるならば、差別の温床となるような統計情報は取らなければいいわけであるが、ことはそう単純ではない。

たとえば、会うだけで、男性か女性か分かるし、白人か黒人か黄色人種かも分かるし、身長や、声紋や、顔や、しゃべり方なども全部伝わってしまう。これらの情報は、参考にしないようにと言われても、原理的にはどうしても入ってきてしまう、知り得てしまう情報だ。


或るアメリカの社会学者は、職場における女性差別をなくすには、職場の女性比率が上がることが重要だと主張したという。この言葉を素直に受け取ったお上が国民に「女性をもっと採用せよ」などのお達しを発令したりするわけであるが、そういう努力は焼け石に水であることをもっと知るべきではないか。

もし、かかる社会学者の主張通り「女性をもっと採用せよ」ということが正当化されるのであれば、「組織の大半の人間が一目見て、ないしは少し会話することですぐに伝わってしまうような情報」に基づく差別の排除はすべてこれと同質の主張によって正当化されなければならない。

「差別の温床となり得るあらゆる識別子のなかで、なぜ性別という識別子だけが、国家権力によって特権的に保護され得るのか」を説明する妥当な説明を私はこれまでに知らない。


「我が社は採用の際に学歴を見ておりません。ただ、ほかの基準によって判断したところ、結果的に学歴の差が採用不採用の差につながっているというところまで、我が社は責任を持てません。」と、どの会社もハッキリと言い放つべきではないか。学歴だけではない。性別などでも一緒。

別言すれば、「結果の平等にまで我が社は責任を持てない」ということでもある。


結果の平等を追求すると機会の不平等が生じ、機会の平等を追求すると結果の不平等が生じる。どちらが“まだマシ”だろうか。(もちろん、全部をいい方向にする方法があればそれが一番いいのだろうが)

結果の平等と機会の平等のジレンマは、差別の温床となる情報を入手できてしまうということから生じる。学校を卒業したあとで、どの学校を卒業したのかをみんなが忘れてしまえば、「結果の不平等」という概念それ自体が立ち上がり得ない。

だから、差別の温床となる可能性のある情報は、できるだけ忘れる、せめて、忘れることにする、ということは、差別撤廃ということのためには、とても重要なことである。

「忘れることにする」というルールが共有されていれば、わざわざ忘れたことにしたことを掘り起こすようなことをしてまで結果の不平等を主張したがる奴は、袋だたきにされるだけである。

もちろん、そこに、そのルールに関する偽善がはたらいていれば、結果の不平等をどんどん主張したほうがいいのかもしれないけれども、そのルールが完璧に貫徹しているなら、怪訝な詮索は無用のはずだ。

現在、この「忘れることにするorほんとに忘れる」「みないことにするorほんとに目がいかない」というルールより有益なルールを私たちはたぶん知らない。


このルールは、結果の不平等という概念を廃絶することでジレンマを断ち切っているが、一方で、これからの類推でいくと、機会の不平等という概念を廃絶することでジレンマを断ち切るというような道もまたあるんだろうなと思った。そしてそういうルールのほうがずっと歴史が長い。

歴史が長いというのはどういうことかというと、長い間人類は、機会の不平等を不平等だと思わなかったということである。王族の子は王族、庶民の子は庶民、そういうものだ、それは、不当なものでも不公平なものでもない、と長い間人類は思い続けてきたということである。


職業選択の不自由、ないしは王権神授説は、機会の不平等という概念を廃絶する。論理的にはそうだが、歴史的にはむしろ逆で、王権神授説への疑義が、機会の不平等という概念を立ち上がらしめた。

結果の不平等という観念は、王権神授説によって擁護されてきた。だから、王権神授説が否定されるような価値観を持つ社会において、結果の不平等という観念が廃絶される方向に向かうのは当然である。

現在においてもなお、結果の平等ということを主張したがる人たちというのは、差別を廃絶したいという気持ちからではなく、より根源的には、職業選択の自由という呪いへの恨みと、職業選択の不自由への憧れから生じたものであると解釈するのが穏当ではなかろうか。


http://twitter.com/hosakanorihisa/statuses/2511269743
> @heis101 大学は教育機関ではない。という暴論はどう思う?

@hosakanorihisa 大学は教育機関だと思いますが、どういう意味で教育機関かという所が重要だと思います。「時間の提供」だけが教育機関の意義であれば、そういう意義は大学じゃなくても提供できるから、大学以外も教育機関を名乗っていいことになってしまう。そうじゃないと思うんです

http://twitter.com/F_name/statuses/2511596916
> @heis101 ううみゅ、男女の差は明らかに分かってしまうので、定員を分ける意義はあるかもしれません。学校歴とは同列に論じられないと思います。学校歴は履歴を見ない限りは分からないですからね。

@F_name 学歴も、履歴書見なくても会話や身なりである程度判別可能ということも有り得ます。男女差も、気にしないということができれば学歴と同列に論じることができます。問題は、この「気にしないということができない」のだとすればそれは何が原因かということです。




話を元に戻すと、高卒が大卒に比べて、使い物にならない度が高いのは、能力が低いからではなくて自覚が足りないからであると。で、かつては高卒段階で大卒並の自覚が芽生えていたんだけど、その根拠は早婚と厄介払いにあると。

いまの高卒に、いまの大卒並、かつての18歳並に自覚があれば、就職差別はなくなるはず。なくなって、「勉強したくないけど就職のために大学行かざるをえない、大学に金を“奉納”せざるをえない」人は激減するはず。

では、どうすれば、いまの高卒に、いまの大卒並、かつての18歳並の自覚を身につけさせられるかだけど、まず、「早婚によって」という選択肢は現実的でなさすぎる。ではほかに選択肢はあるのかというところが焦点になるわけだが…



自覚ってどうやったら育つんだろう? 例えば、子を子離れさせる気のない親のもとで育った子どもは、そうでない親のもとで育った子どもよりも、労働者としての自覚が発達する可能性は低い。


自覚を育てるのが教育の役目だ、という主張も有り得る。しかし、だとすれば、かつて長らく存在していた「18歳で結婚して所帯を持っていた子たち」は、周囲の環境による教育効果ゆえであるということになってしまう。昔のほうが教育が優れていたということになる。

そして事実、そうなのかもしれない。モノや金に不自由していた時代の子どもたちのほうが、よほど、将来立派な大人になってやる、という野心は強かったのかもしれない。

一つ気がかりなことがある。それは、気概や気迫はどうやったら育つのかということだ。自覚がないということは、気迫がないということでもある。働いてやろうという気迫がない。だから、傍からは、「お前には労働者としての自覚が足りない」というふうに映る。


「お前には労働者としての自覚が足りない」「気迫が足りない」「負けて悔しいと思わないのか」などと説教すると、「どうして気迫を持たないといけないんですか」「どうして負けて悔しいと思わないといけないんですか」「なんで気迫があるほうが偉いという扱いなんですか」とくる。

おそらくだが、気迫が偉いという価値観は、学生運動の失敗によって「かっこわるい」という扱いを受けるにいたり、その余波が現在まで続いているということなのではないだろうか。



かつての18歳が、労働者としての自覚を、わりと簡単に持てたのは、そこに職業選択の不自由があったからだ。すでに敷いてある物語に乗っかるだけでよかったからだ。そこでくるといまは「自分の物語を紡ぎなさい」とくる。18歳時点で自覚が不足しているのは当然とも思える。

つまり、私たちは、「職業選択の自由」を選択することで、「経営者が今までと同レベルの「使える度」を持つ人材を手に入れるには、以前よりもコストがかかるような社会」「教育コストが高い社会」を選択することにも、同時になっていたということ。

いまの社会で、働くために必要な「教育コスト」が高いのは、「自分の物語を紡いでください」という、人権尊重の観点からの要請によるところが非常に大きい。

教育に、それまでの社会では不必要だった、「真に自由な選択を可能にするために必要な、個々人の選択能力の涵養」ということが、上乗せ的に要請されるようになったからだ。


その教育コストの増分は、経済成長による利益の増分で賄われてきたという側面もあるが、足りない部分のしわ寄せが、「優秀なのに金がないから進学できない人」みたいなかたちで生じている事も確か。

「優秀なのに金がないから進学できない人」がいるということは、もちろん、「優秀じゃないのに金があるから進学できちゃってる人」もまたいるということでもある。ただ、優秀さをはかる基準は必ずしも客観的ではない。人間というのはしばしば「化ける」ものである。

優秀かどうか(ここでは「進学する価値があるかどうか」)の判断を、責任を持って引き受けてくれる第三者的な機関というのは存在しない。だから、そういう責任は本人が負うことになってしまっている。個々人の直観に委ねられている事と相成っている。


一人一人が、与えられた自由の大きさに見合う選択能力を身につけるにあたって必要な社会的コストは何か。誰が、どういう機関がその能力を育て上げることができるのか。大学にはその育て上げ能力がある、ということになるのだが、大学にだけ可能であるということでもない。

であるならば、研究機関ではないが、選択能力涵養機関ではあるような機関が、大学と並行的に存在していて、かつ極めて廉価であれば、べつに研究がしたいわけでもない大半の人間は、そちらに流れるだろう。

だが、そういう、選択能力涵養に特化した機関として、具体的にどういうものが思い浮かべられるかといわれると、微妙である。専門学校ではだめだ。だからといって、フリースクールのようなものでは、うまく機能するとはあまり思えない。

いまの就職戦線において採用側が求めることというのは、具体的な問題をどのようにして乗り越えてきたかという経験量とその中身がどれくらい凄いものであるか、ということであって、そういうのは、何らかのかたちで問題が定期的に降ってくるような状況でなければ体験されない。

もちろんフリースクールにも色々あるから一概には言えないが、自分にとって何らかの意味で困難な問題にぶちあたる、という体験ができて、それを乗り越えるために足掻く体験もできる、そういう機能を満たす機関として大学が優れているのはなぜか、というところをまずは問わねばなるまい。
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