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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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http://www.wasedajuku.com/wasemaga/unipro-note/2009/06/post_451.html

リベラル・アーツについて書いた記事がホッテントリ入りしている。はっきり申し上げて、茶番だなと思う。記事そのものではなく、リベラル・アーツの本義が「商品」として、顧客のお眼鏡にかなうように加工されてゆく「さま」とその「加工品」が茶番だと言うのである。
リベラルアーツの起源がリーダの育成というのは事実なのかもしれない。だが、「リーダの育成」というのは、高校生を対象とした市場においてすでに言い古された、手あかにまみれた、言われてもピンと来ない、すでに「古典」化しかかっている言葉であるような気がしないでもない。

なぜこのように、リベラルアーツの良くも美しい本義が、ことに「彼ら」の手にかかると、「ふぬけ」に映ってしまうのか。その理由は、リベラルアーツの本義が、「社会をよくしてやるぞという気概」を宿しているのに対して、これを商品化する者はその気概をぶっこ抜いてしまうからである。

社会をよくしてやるぞという気迫が全身にみなぎっている者でなければ、リベラルアーツを学ぶ資格はない。そういうことを、そういう学部を抱える大学側は伝えるべきであるのに、たかが高校生に遠慮して、伝えられずにいる。

リベラルアーツの学部を抱える大学が、気迫のない学生にも無理矢理に振り向いてもらおうと思えば、どうすればよいか。簡単である。「まだ進路決めなくていいよ」的な、気迫とは無関係についてくるメリットを強調すればよいのである。

ところで、これにはまた別の問題もある。大学教師から見ると「気迫に欠ける学生」である場合でも、本人は気迫にみなぎっている場合がある。つまり、教師と学生の生活レベルでの価値観が違ってきているので、気迫の有無の判定すら容易ではないということがあるということである。

教師と学生が別の次元の世界を生きているとき、こういった「認識している気迫のすれ違い現象」はよく起きる。だから、傍目には、目立たない子が急に化けたり、将来を嘱望されている子が今ひとつだったりすることが起こる。

医学部などの「職業訓練校」においては、あらかじめ教師たちが「このような能力を持つ人材を育てたい」という目標を設定して、そのレールのうえを、学生たちに否が応でも歩かせる、というようなことがあってもいいのかもしれない。

だが、今日の一般大学のような、卒業後の学生がてんでバラバラの業界に就職していくことが常態化しているような状況下においては、いくら教師たちが「このような能力を持つ人材を育てたい」と力んでみても、無駄であるし、無駄であるばかりか、ともすれば学生の学ぶ意欲を殺ぐことにも繋がってしまう。

であるのに、あいからわず、「大学は職業訓練校である」という、「昔の夢」を捨てきれない教師たちが、「このような人材を育てたい」的な「激しい思いこみ」にしがみつき、それゆえに学生たちの勉学意欲を積極的に剥奪している様というのは、なんとも滑稽である。

「リベラルアーツ的な学校」と「職業訓練校」は相容れない存在である。この相容れない存在が、同じ「大学」という機関に同居していることが、異なる理念が一つの理念として周囲に解釈される「誤解」を生み、双方に(特に前者に)不幸な帰結をもたらしている。

逆に言えば、こういうことでもある。卒業後の進路がてんでバラバラであることが常態化している、もしくは今後常態化することが目に見えている大学やその学部学科は、リベラルアーツ的な方向へ舵切りをすることでしか生き残ることはできないであろう、ということである。

というのはさすがに言い過ぎかもしれない。現在大学に入学している層(というのはつまり約半数ということだが)の全員が、社会をよくしてやるぞという気迫に満ちあふれているということは、現状を見る限り非常に考えにくいことだからである。

まず第一に、(このようなことを言うと偏見だろうと言われかねないが)今の学生というのは、「自分はどうするのか?」ということばかり優先的に大人たちから問いただされてきているために、「自分がどうするのかの結論が出ていればそれでよい」という利己的な陥穽に陥りやすい習性があるという点。

もうちょっと別の言い方をすると、傍目にはボーっとしているように見える子どもや学生が増えた。この「ぼーっ」は何を意味しているのかというと、自分の選択能力に対して選択肢の数が過剰でありすぎることを意味している。「なにしていいかわかんない」という、あれである。

ここで、一部のめちゃすげえ奴は、過剰な選択肢に対応すべく自力で自分の選択能力を向上させて、ぼーちゃん状態から脱出するが、大半はなおもボーちゃん状態。では彼らから選択の自由の一部を剥奪すればいいのかというとそれもまた当たらないと思う。

学校という一時的な箱庭のなかでだけ、選択の自由の一部を剥奪してもあまり意味はない。彼らは最終的には学校を出て、剥奪者なしのところで生きていかなくてはならない。日本ではこの観念は根づいているとは言えず、会社に剥奪権を委譲する「赤ちゃん引き渡し型」が取られるケースが多い。

終身雇用が基本な場合、「赤ちゃん引き渡し型」でも社会はうまく回るが、頻繁に会社が潰れたりできたりして、雇用が流動化している社会情勢においては、「剥奪者のいない状況下でもうまく自分で判断して動ける人間」でないことには、色々な人が不都合をこうむる。


コメント
この記事へのコメント
はじめまして!
美紀といいます。
この度ブログを始めたので挨拶で
コメントさせて頂きました。

私のブログは競艇やギャンブルが主になっちゃうと
思いますが日常の事もいろいろ書いていくので
よかったらコメントください☆

http://ameblo.jp/boat-gals/
2009/07/02(木) 11:40 | URL | みき #-[ 編集]
こんにちは。
ブログ紹介どうも。

ただ、本記事に無関係のコメントは、できるだけお控えください。

2009/07/03(金) 08:32 | URL | heis101(管理人) #QyEQ/AbM[ 編集]
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