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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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諏訪さん、お返事ありがとうございます。

社会科学における先行研究の存在意義 - 諏訪耕平の研究メモ
ただちょっと以下の箇所の理解に苦しんだので、少し言及させていただこうかと思います。

対象の一部を捨象することで対象について分かった気になるというのは、物理学などに特徴的な発想ですが、女性で物理学科に進む人はとても少ない。対象の一部を捨象する、というものの見方が苦痛なくできるためには、「何々は見ないことにする」みたいな芸当が苦労なくできることが必要です。こういう芸当は、最初から全体が見えていて、全体は全体でしかない、と思っている人には苦痛に感じられます。
「子育てという重要で楽しい営み」という発想そのものが男性中心社会の思想@heis.blog101.fc2.com
「対象の一部を捨象することで対象についてわかった気になる」のはまずいことですが、「捨象した結果残ったものにそもそも興味がある」のなら問題はない。

う~ん…、ここで言う「わかった気になる」というのは、別にまずくはないんです。物理学は「そういう学問」なんで。たぶん。
なんでぼくがここで「わかった気になる」というような、あたかもまずいかのような表現を使ったのかというと、意地の悪い哲学者がしがちな穿った見方をしていたからだと思います。20世紀におこなわれた人工知能研究とその研究者に対して、「奴らは木に登って月に近づいたと言っている」と言うようなものです。こういうふうに言えば、あたかも木に登ることに価値がないかのようですが、実際には、情報科学的にはとても価値のあることなわけですよね。要は、ピントをどこに合わせるかで、いろいろなものの価値は大きく見えたりもするし、小さく見えたりもする。そういうことです。そういった文脈で捉えて頂ければいいかと思います。


そこで思うのは、やはり自然科学と社会科学の差かなあとか思います。自然科学における細分化って、「いつかは総合的な理解につながる」という前提で行われていると思うんですよ。自分はここだけ見てるけど、誰かが他の部分も見てくれるはずで、それを集めていけば対象全体を見渡すことができるということですね。そしてそれはある程度うまくいってきたんじゃないかと思います。
一方、社会科学において対象の一部を捨象することに抵抗を持つというのは、僕は非常に健全な態度だと思っています。なぜなら、その後、誰かがその捨象した部分を補完してくれる可能性はかなり低いからです。これは、社会科学において不思議なほどにインパクト・ファクターが重視されないといったあたりから僕は着想を得ているのかもしれません。僕は発達心理学の世界に身を置いて4年目になり、その間発達心理学研究などに載っている多くのこの分野における論文を読んできましたが、さて、ではどの論文がすごい論文で、どの論文はたいしたことない論文なのかということが全然見えてこない。もちろん僕の勉強不足という可能性はあると思いますが、例えばゼミの中で「こないだ出たあの論文すごいよなあ」みたいな話もほとんど交わされないわけです。自分の関心に照らし合わせて「すごい論文」というのはありますが、「やられた」と思うことはほとんどない。
最近これについてちょっと興味深い議論を目の当たりにしました。ある後輩が、研究発表の場で、「今まで自分はこういう関心で研究を進めてきたが、レビューを行っていった結果、この論文は自分の関心を満たしていると感じてしまった。なので、方向転換の必要があると思う」というようなことを言ったんですね。それに対して、ある先輩が、「心配しなくていい。関心がまったくかぶるなんてことはありえない。差別化はいくらでもできる ので、今のまま進めたほうがいい」と指導したわけです。
そこでね、それは現実的にそうかもしれないけど、それでいいんだろうかと思ったんですよね。どういう先行研究があっても差別化は可能であるなら、なんかレビューという行為自体の意味合いが変わってきてしまう気がします。自然科学系におけるレビューって「既にやられているかどうか」を探すものだと思うんですけど、上記の考え方に従うなら、社会科学系のレビューって単なるお勉強になっちゃいませんか。だって既にやられていてもいいんだから。

いや、私はそうは思いません。
まず、「差別化はいくらでもできる」のは、なにも社会科学に限った話ではないと思います。
いかなる学問分野であれ、
「Aはもうやられているけど、AはあくまでAのA’という側面について言及しているだけで、AのA’’という側面については言及していない。先行研究Aは、Aの持つA’’という側面の重要性を見逃している可能性がある。いまあなたが、のA’’の側面の重要性に着眼して研究を進めれば、それはオリジナリティのあるものとして認められる可能性がある」
というような可能性は十分にあると思うんですよ。

社会科学で「やられた」と思うことがほとんどないとすれば、それは、「関心が本質的にかぶることがほとんどない」ということを意味しているものと考えられます。
理系と文系の違いについて、次のような説明が考えられることがあります。

兄に教えてもらった、文系と理系のたったひとつの違い - 院生兼務取締役の独り言
すなわち、文系と理系の違いは

文系・・・考えるときの基準が、自分の内心(自分が正しいと思うかどうか)
理系・・・考えるときの基準が、自分以外の客観的な事実

なのです。

この指摘は、経験的には非常に的を射ているように思うのですが、一方でまた、この違いは、文系と理系の方法論の違いに由来する違いではないだろうとも思うのです。
すなわち、「関心がどれくらいかぶるか」の違いが、上のような経験的な違いを生み出しているのではなかろうかと思うわけです。


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ある日、真ん中の兄*1と話していました。 俺「俺って結構理系っぽい思考パターンしてると思うんやけど」 兄「それはない。」 俺「何で?論理的な思考は結構得意な方やと思うで?」 兄「お前は自分が正しいと思うかどうかで物事を考えてるやろ。   それは典型的な文系型思
2009/06/29(月) | 院生兼務取締役の独り言
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