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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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注意:以下の文章には不備があります。たぶんあとで追記などのかたちで修正します。以下の文章をあまり真に受けすぎないようにしてください。なおこの但し書きは修正後消します。




アウトライン。

全貌を見るために必要なことは何?
締め切りに追われてばかりいると、いつのまにか、無意味な仕事を延々と繰り返すスパイラルに陥ってしまうかもよ。それでもいいの?
締め切りに追われないためにはどうすればいいのだろうか
目的があれば頑張れる? じゃあ人殺しが目的だったらお前は人を殺すのか?
「私には謝意がありません。」という“誠実な”対応
子どもの「なんで勉強しなくちゃいけないの?」に答えてはいけないということと矛盾するのでは?


「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 -ミームの死骸を待ちながら
「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の特徴

このタイプの人間には幾つかの特徴がある。

まず彼らは目的からスタートする。ひとたび目標を設定すると、それに向かって誘導ミサイルのごとく突撃する。

目に見える成果をイメージし、その実現に必要なリソースを自分の経験や他人の能力、そして環境の中から素早く探し出して投入し、カオスな資源を驚くほど見事に"形"に整える。
「この短期間でここまでできるのなら、もっと時間を与えてやればさらにすばらしい成果を出すに違いない」と思ったら大間違いである。

彼らのモチベーション/能力というものは、デッドラインから逆算した「発動ライン」を超えた瞬間から指数関数的に上昇する。HPゲージが赤色に変わってから本領を発揮する。それまでに費やされた時間は振り返ってみると誤差のようなもので、時間を与えれば与えるほど無駄になる。

この「発動ライン」はいわば本能的に備わっているものであるらしく、状況に応じてほとんど直感的に行動パターンを変える。
そこで彼らをうまく使うには、まず何より、目的を与えてやることが最重要事項となる。

彼らは目標が設定されないルーチンワークが死ぬほど嫌いである。そのため、なるべく短期的かつ具体的に、求める成果を明らかにしておく必要がある。なぜなら彼らは、ゴールを明らかにすることではじめて、必要な資源を検索し始めるからである。

また、彼らは全貌の見えない仕事がルーチンワークと同じくらい嫌いである。

全貌を見るために必要なことは何?

ある目的を自明のこととして受け入れることができるかどうかは、まさに前回の記事で問題として扱った事柄に対応する。
すなわち、なぜを問う奴と問わない奴である。

Hashさんが、「ゴールを与えてやりさえすれば、彼らは自分で効率的な方法を短期間のうちに見つけて突っ走ってくれる」ということと、「彼らは全貌の見えない仕事が嫌いである」ということを、矛盾のないこととして考えているのがなぜなのか、私は最初パッと読んだとき分からなかった。

だってそうでしょ? 彼らは「なぜこの目的が妥当なのか」については何にも考えないんだから。
「なぜこの目的が妥当なのか」を考えることこそが、全貌を見るために必要なことなのではないのか?

大学合格というゴールが与えられていれば、あとはそれに向けて自分で効率的な手法を編み出して一目散に突っ走っていく奴っていうのは、「なぜ私たちは受験をしなければいけないのか?」「大学に合格するという目的はなぜ妥当なのか?」を疑っていないか、あるいはかつて疑ってみた結果なぜなのかが分かった奴でしょ?


締め切りが迫ってきていてHPゲージが赤色に変わっているとき、人は大きく二つの判断に分かれるのだと思う。つまり、その目的の妥当性についての確信が盤石でないために、その締め切りに間に合わせることを放棄してしまう場合と、その目的の妥当性についての確信が盤石であるがゆえに、「生命の危機」と言わんばかりに火事場の馬鹿力を発揮する場合との二つに。

火事場の馬鹿力を発揮するためには、目的の妥当性についての確信が盤石でなければならない。

しかし、その盤石さがどのようにして与えられるかというのには個人差がある。大きく分けて、「自分でその目的を過去に叩いてみていて、そのとき、どんなに叩いても壊れなかったから」という経験が、確信の盤石さに影響している場合と、「自分が信用している偉い人がその目的を妥当だと言っているから、それは俺にとっても妥当なはずだ」という仕方で、確信の盤石さを確保している場合とがあるように思う。

たぶん、Hashさんの記事は、確信が盤石であることを前提として話が構築されている。そして、その盤石さを確保する方法やそのバラエティについては言及していない。そこが分からなかったから、最初私は「あれっ?」と思ったのだと思う。

***

締め切りに追われてばかりいると、いつのまにか、無意味な仕事を延々と繰り返すスパイラルに陥ってしまうかもよ。それでもいいの?

ところで、私は締め切りに追われるかたちで仕上げた仕事で、あとでよくできたなあと思える仕事だったことがあまりない。
たいていは、「よく分からないけどとりあえず急場はしのいだ」ということくらいの感覚しかない。
つまり、「俺は急場をしのぐことができる人間だ」ということに対する自信は強化されても、「あの仕事はいい仕事だった」というかたちで強化されたことは、思い出せる限りではまずあまりないのである。
(【追記】いろいろ考えていたら、締め切りに追われたほうがはかどる仕事もあることを思い出してきた。仕事の種類や性質にもよるのかもしれない。思うに、「誰かを助ける」ことが目的の場合は、締め切りに追われたほうがはかどる気がする。つまり、「自分がこの仕事を完成できないとあの人がこういうかたちで困る」ということがありありと想像できる場合は、「負けていられない」感がむくむくと頭をもたげてくる。でも、「別に誰も困らないんじゃね?」的仕事や、誰がどのように困るのかが具体的に想像しづらい場合、自分だけが困る場合は、はかどらないことが多いのではないか。自分の部屋の掃除とかが後回しになったりするのはその好例だろう。)

逆に、締め切りに追われることなく、余裕のある段階から着手しており、締め切りの二三日前くらいにはもう完成していて見直しをする程度、というくらいのときは、「納得できる仕事をした」「これぞ仕事だ」という感じがする。
仕事をしたことに対する満足感が強化されている。「この仕事は俺だからこそできたのだ」的な自己満足が自分の充実感を支配している。仕事を達成する過程そのものが自分のアイデンティティに不可分の存在として取り付けられている。「あの仕事が完成しているという事実は、たしかにそのとき俺が存在していたということを証明する」ということからくる満足感が取り付けられる。

これに対して、締め切りに追われるかたちで仕事をした場合、「急場をしのぐ」型の体験をした場合には、そのような満足感や充実感はまったくといっていいほどない。「急場をしのぐ」型の体験において、仕事とは「敵」であり、自分のアイデンティティから積極的にできるだけはやく切り離すべきものである。

仕事が「敵」であるか「味方」であるかといった感覚の違いが、締め切りに追われて仕事をした場合とそうでない場合とを分けている一つの基準なんだろうとは思う。

***

敵を殺すというマインドで仕事をする人間と、味方を充実させるというマインドで仕事をしている人間との間には、決定的な違いが存在しているように思う。

敵を愛するというか、「敵は存在しない」という仮説を第一級の信条として信奉している人間は、「敵を殺す」という非人間的な仕方で仕事をすることは、そもそも的に有り得ない気がする。
逆に、「いかにして敵を倒すか」というマインドで問題解決を図っている人間にとって、問題とはイコール「敵」である気がする。

「敵を殺す」のが非人間的だと思っている人間にとってのマインドは、「いかにして敵を倒すか」ではなく、「いかにして敵という概念を破壊するか」にある。つまり、自分がある対象を敵だと思ってしまう心の在り方そのものが真の敵だというわけである。

だから、締め切りに追われる仕方で仕事をする人間の割合は、そのまま、「いかにして敵を殺すか」という心の持ち方をする人間の割合に反映する。

だから、みんなが締め切りに追われない形で仕事をするようになれば、自動的に世界平和は訪れるのではないかと思うのだが、どうだろう、話が飛躍しすぎかな(笑)。


締め切りに追われることが危険だと思う理由は、単に世界平和的でないから、ということだけではない。
仕事の内容に意味を感じているか、という、根本的な問題がある。
つまり、「その仕事がなんのために行われているか」という視点を失いやすい、もしくはその視点に想像がおよびにくいのである。

締め切りに追われていない人間にとっては、
「その仕事がなんのために行われているか」→お客様のため、会社のため、自分自身の成長のため
といったところだろうが、締め切りに追われている人間にとっては、
「その仕事がなんのために行われているか」→知ったことではないor俺を不幸にするため
となる。
ある対象を「敵」認定するというのは、「自分を滅ぼすことを目的として対象が迫ってきている」という含意がある。
つまりそれは、仕事を勝手に擬人化して、目的論的に解釈することでである。
だがそれは、ほとんどの場合、客観性の低い身勝手な妄想でしかない。

***

けだし、相手(仕事)を「敵」認定するというのは、相手に関する思考停止かもしれない。
相手が「敵」であるならば、こちらが取るべき行動は「やっつける」というただ一つに限られ、いろいろと考える手間が省ける。
「敵をやっつけるためにはどうすればよいか」を考えるために必要な思考リソースと、「敵という概念を破壊するためにはどうすればよいか」に必要な思考リソースは違うのかもしれない。前者のほうがリソースを節約できると(いや、知らんけど)。
だから、僕たちは、締め切りが迫っているときには、無意識のうちに前者を選びがちなのかもしれない。

仕事イコール敵、と思っている人間は、仕事の内容に意味を感じないのではないか。そういう人間にとって、仕事の内容の意味とは、「敵」以外ではないのだからね。

***

仕事というのは、「納得できるものができたら見てもらう」くらいの感じでやるのが健康的にも仕事の効率上もいいのだし、そうでない場合にはやるべきではないというのが本来の姿な気がする。

もちろん反論もあるだろう。

仕事はつねに制約のなかで仕上げていかないといけないものだから、締め切りに追われるのは当然である。「納得できるものができたら見てもらう」なんて悠長なことを言っていたら、いつまで経っても納得できなくて、いつまで経っても仕事が完成しない、ということにもなりかねない。それでは仕事にならない。仕事とは締め切りのことである。締め切りのない仕事は仕事とは言わない。

ってね。

私も、満足のいく仕事ができているのなら何も言わない。だが、多くの場合はそうではないのではないか。
もう少しちゃんと言うと、たとえ締め切りに追われてやった仕事であったとしても、仕事後の感覚として、「仕事を自分のアイデンティティの一部として受け入れた感」があるのであれば、私はなにも言うつもりはないのだが、多くの場合はそうではないのではないか、ということである。

***

締め切りに追われないためにはどうすればいいのだろうか

締め切りに追われないためには、早めに着手すればいいわけであるが、これができる場合とできない場合がある。
できない場合のパターンというのはたいていこうである。まず、その仕事の存在を知ったときにちょこっとモチベーションがあがる。そして、次にモチベーションがあがるのは、締め切りが迫ったときである。

つまり、モチベーションを駆り立てられる時期というのが、「相手がその仕事をするように要求してきた」ときと「締め切りが迫っている」ときの二つしかないのである。

これでは、仕事の量が少ししかない場合は、その仕事の存在を知ったときにパパッと終わらせてしまえばそれでいい話なのであるが、仕事の量が一定量を超えると、そうもいかなくなってくる。また、いつもいつも、その仕事の存在を知ったときにすぐ取りかかれる状況に置かれているとは限らない。そういうときは、他のことをやっているうちに、その仕事の存在を忘れてしまう。そして、次に思い出すのは「締め切りが迫ったとき」だったりする。
しかし、もともとの量がハンパねぇから、締め切り直前にまとめてやることはほとんど不可能である。だから結果として、よくて「そこそこ」、たいてい「ダメダメ」な結果に終わってしまう。

こういうことを回避するためには、仕事の存在を知ったときと締め切りが迫るまでの間に、自動的に思い出してしまう仕組みを生活の中に組み込むことが必要になってくるような気がする。

それを実現する方法は一つではないだろう。たとえば、タスクを細切れにするというのはその一つであるが、ここで言いたいのはそういうことではない。
私の実感でいくと、うまくいったときというのは、タスクは「気がついたら細切れになっているもの」であるときが多いような気がする。逆に、細切れにすることに意識的なリソースを割くと、細切れにするという仕事でおなかいっぱいになってしまって、それで安心してしまって、結局締め切りギリギリになってしまう、ということのような気がする。
このあたりはまだ自分でもよく分かっていないので、また何か新しいことを感じたらいずれ書きたい。


さて、自動的に思い出してしまうためには、その仕事の具体的内容が、
「つい思い出したくなること」(その仕事を、自分の生活を豊かにしてくれる「味方」として理解していること)でなければならない。
「つい避けてしまうこと」(その仕事を、自分の生活を脅かす「敵」として認識していること)であってはならない。

もっとも、やりたくないことがなぜやりたくないのか、やりたいことがなぜやりたいのかというのは、本格的に考え出すととても難しい問題だ。
私は、とりあえずの理解として、「これらの違いは、アイデンティティを充実させるものであるか恐怖に陥れるものであるかの違いである」と認識することにしている。

この考えに則る限り、ある仕事を自動的に思い出してしまうためには、いまの自分のアイデンティティが「つい思い出したくなる」ような仕事を選択するか、その仕事に整合するように自分のアイデンティティを調整するかのいずれかしか方法はない。
平たく言えば、仕事を自分に適応させるか、自分が仕事に適応するかのどちらかしか道はないということである。

きわめて当たり前のことを言っている。適応とは要するに相性のことである。本質的な問題は相性が悪いことにあるのだから、相性がよくなれば問題は解決するよね。相性がよくなるためには、相手が変わるか自分が変わるか、このどちらかしかないよねっつー話。簡単でしょ。
(もちろん、ここでいう相手が人間であれば、「双方が歩み寄る」という第三の選択もあり得る。いまは相手は仕事だから、第三の選択はとりあえず除外してよい。)


自分のなかには、自分の意思で能動的に変えられる部分と、なかなか変えられない部分とがある。どこがそうなのかは、自分を変えようと足掻いた経験に比例して分かるようになってくるような気がする。

(1)自分の意思で能動的に変えられる部分が原因で、ある仕事に対する不適応(=その仕事を知った直後と締め切り直前以外にその仕事をやらない)を起こしているのだったら、能動的に変えれば済む話である。

(2)自分の意思ではどうにもならない部分が原因で不適応が生じているのだったら、仕事を変えるしか方法はない。「この仕事は私にはできません。ほかの人に回してください」と表明することが、長期的に見て、会社にとっても自分にとっても周りの人にとってもプラスである。

(3)このどちらであるのかが分からないのであれば、自分を変えようとあがいてみることが必要である。


以上である。極めて簡単な理屈である。だが実際にこれを実践するとなると、「あがき」の過程で、それはそれはもう、いくつもの文学(というか、エピソード?)がそこから立ち上がってしまうくらいに、さまざまな人間的なヴァリエーションが存在することは目に見えている。そこについてはここでは言及しないが、エピソード性を排除すると、あるのは上に示した簡単な構造であることを頭に置いておけば、同じ「ついつい後回しにしてしまいがちな仕事」が存在してしたとしても、自分がいまどの段階にいるのかが分かっているだけでも少しは安心でき、それゆえに、自分がいま何をしなければいけないのかが分かってさらに精神的にラクになることができるのではないかとひそかに期待する所存である。

追記:
あとで見直してみたら、けっこうどうでもいいことばかり書いてる気がしてきた。
なにが言いたかったかというとね、要するにね、
なぜその仕事をしなければいけないかをこころの底から納得すること
が最重要で、ここが押さえられていないと、仕事のモチベーションは劇的に低下してしまう、ということ。それだけ。


***

目的があれば頑張れる? じゃあ人殺しが目的だったらお前は人を殺すのか?

とはいうものの、まだ重要な問題に答えられていない気がする。そもそも私がこの記事を書くに至ったのは、次の箇所に強い違和感を覚えたからだ。

> 彼らをうまく使うには、まず何より、目的を与えてやることが最重要事項となる。

どうも、ここでいう「彼ら」は、目的が無意味であるか有意味であるか、そんなことはどうでもよく、とにかく目的さえあれば彼らはがんばれるのだ、というふうに読める。読めるし、実際にそうである気がしてしまう。


つまり、ここでいう「彼ら」は、目的の妥当性についての確信がなくてもがんばれてしまう、というような気がするのである。

私は、そういう心情は心底理解できない。理解できないし、理解できるようになりたいとも思わない。なんというか、これはとても怖い気がするのである。
なんというか、「じゃあなんだ、目的が人殺しだったら、お前は人を殺すのか?」というか。

現実には、この問いに「うん」って答えてるのと同じだよね、と言われてもしかたがない人は多い気がする。

私が、「目的の妥当性について十分に理解して納得したことでなければ決してはじめたくないし、恐怖ですらある」というのは、
「わがまま」とか「仕事をしたくないことの言い訳としてそう言っている」とかではなくて、
私が過去に「自分がされて嫌なことをしらずしらずのうちに人にやってしまっていた」経験を持っていて、そういうことはもう二度と繰り返したくないと強く思ったことが原因である。

私にとって、「目的の妥当性について十分に理解したうえで行動すること」は、非人道的で良心にこたえるあやまちを繰り返さないための、せめてもの「つぐない」なのだ。

私は幼少の頃からこの手の経験を幾度となく繰り返しており、あやまちを繰り返す頻度は現在に至るまで、漸減はしているがゼロにはなっていない。

そこにはつねにジレンマがある。

「目的の妥当性が理解できない」という意味のことを幼少のころの私が言うと、決まって大人たちは「それはわがままだ」とか「言い訳にすぎない」とか「やりたくないだけだろ」とか言う。実際、そうかもしれないと思えてくるところも厄介である。

「やりたくない」というのは、間違っていないわけである。でも、「やりたくない」にもいろいろある。「わー、雨降ってきた。買い物にいきたくないなー。でもいかんとあかんなー。」というときのやりたくない感と、小学校高学年的な権力構造の渦中において、ガキ大将から「あいつをこの棒で殴ってこい」と指令されたときに従いたくないと思うときのやりたくない感は違う種類のやりたくない感である。
でも、大人たちはこのように詳しく解説してくれたりはしない。たいていの場合は、
「やりたくないことでも、やらなければいけない」の一点張り
である。
思うに、多くの大人たちも、この構造についてきちんと理解できていないのであろう。だから説明ができない。だから、自分が子どものときに親から言われたことをそのままリピートしてしまう。

だが、なんども繰り返すように、これは極めて危険な思想である。言葉で表現するのが難しいのだが、単にめんどくさいからやりたくない場合と、
良心に反するからやりたくない場合は区別されるべきである。
そして、さらに厄介なことには、一見「めんどくさいからだろ」に分類されるような場合であっても、注意深く見ると、「良心に反するから」ということに起因している場合も少なくないということである。

***

「私には謝意がありません。」という“誠実な”対応

誠実に生きる、自分に正直に生きる、というのはどういうことか。

幼少の頃の私は、「誠実に生きる、自分に正直に生きる」ということを確保するために、わがままであるとか言い訳であるとかいった仕方で罵られたり叱られたりすることのほうを選択したのだと思うし、そうせざるを得なかったのだと思う。

大人たちは、「やりたくないこともやらなくてはならない」という一方で、「誠実に生きよ、自分に正直に生きよ」という。この二つが両立しないことは、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、どういうわけか、大人たちはこういう矛盾した要求を子どもたちに突きつける。

矛盾した要求を突きつけることがつねに非教育的に作用するわけではないから、「それも教育の一環なのだ」と言われればそうなのかもしれないが、この手の理由づけには注意する必要がある。
つまり、「教育の一環」という言葉は、必殺技or思考停止ワードとして機能するということである。そういう意味では、教育とは暴力である。
「この暴力に対抗する反権力への意思が子どもたちの間で自主的に育ってくることこそが、教育の目的なのであるから、教育が暴力であってなにが悪い?」というよう理屈も可能である。

謝るとか謝らないとか言った問題もここに関わってくる。
謝意がないときは、正直に、「私には謝意がありません。」と言うほうが誠実である。
へたに「とりあえず謝っておけ」と上司に言われたから謝るというのは、「不誠実な対応」である。みかけ上は或いはその場的には誠実に見えるが、化けの皮がはがれたら逆効果である。

大人になってくると、処世術として、このような不誠実な対応を迫られるときがある。ジレンマである。誠実な対応を取ると、「もっと大人になりなさい」とか訳の分からないことを言われる。不誠実な対応を取ると、強い内的な呵責感に吹かれる。誰々の言うことにしたがったのが間違いだった、もう二度とこのようなことはするものか、との思いをいっそう強くする。この繰り返しである。

正直なところ、私にはまだよく分からない。

この世の中のすべての人間が、いかに処世術であっても「絶対に不誠実な対応を取ることがない」という状態が、ほんとうに一番最高の状態であるのかどうかということが。
そうでありたいと願うことが単なる自己満足ではないことをどうやったら証明できるだろうか。

誠実に生きるということは、我が儘に生きるということなのかもしれない。
我が儘な生き方をしないということは、良心の呵責に吹かれても、そんなことには気にも留めず、堂々と「自分がされて嫌なことを人にする」ということなのかもしれない。


誠実さとは何なのだろうか。誠実さとは単なる自己満足に過ぎないのだろうか。
サービス業で、顧客からクレームつきまくりのときに、ただひたすら謝りたおすだけの人がいるが、あれは誠実な対応なのだろうか。
あれは単なる自己満足にすぎない気がする。「こんだけ謝ってんだからいい加減引き下がるべきだろJK」という、不遜な態度の反映であると思うからである。

仮に、処世のために「不誠実な対応」を取らざるを得なかったとして、良心の呵責には吹かれるのだが、幸か不幸か、一生相手にはそのことがばれないことが分かっているのだとしたら、不誠実な対応をとることこそが真に誠実な対応であると言えるのか言えないのか。
私は言えないと思う。
サービス業の例のときに思うことと矛盾しているように思える。

でも、私の中では矛盾していないはずだ。だからこれはまだ単に言葉になっていないだけなのだ。

思うに、どちらも「自分の価値観の押しつけ」であることには変わりがない。
しかし、「自分の価値観の押しつけ」が妥当な場合と、妥当でない場合とがある気がするのだ。

サービス業の例の場合は、「真の問題の発見とその解決のために努めている」のならばそれは真に誠意ある対応と言えるだろうが、その努力を放棄して、謝意を表明すること自体にコストを優先的に配分するようになるとしたら、いささか本末転倒である。
つまり、誠実さの追求というのは、ほんらい、つねに、良心を基準としてなされなければならないのだが、この例の場合、誠意という言葉は、謝意表明をすることが誠意の意味だ、という見かけ的な意味で使われている。そこに誤用があるのだと思う。

つまり、同じ「自分の価値観の押しつけ」でも、それが良心に照らして妥当なものであれば、たとえ相手から一生ののしられようが、どんどんするべきだし、たとえ相手がどんなに喜ぼうとも、それが自分の良心に照らして妥当なものでないならば、それはするべきではないということになる。

この事実は、「見かけ」や「相手のその場的な反応」にこだわってそれに迎合的に対応してしまうことの危険性を説いているようにも思える。

***

子どもの「なんで勉強しなくちゃいけないの?」に答えてはいけないということと矛盾するのでは?

小さな子どもが「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と聞いてきたとき、答えてはならない、と内田先生はどこかで書いているらしい。
私は内田先生の真意を理解できている確信があるが、この記述はそのままでは私がうえで滔々と述べてきたことに背馳するようにも取れる。
そう取れることは気持ち悪いので、気持ち悪さを解消するためにここに書く。

トリックは過剰な一般化にある。
私には最近の小さな子どもと直に接する機会があるが、そもそも小さな子どもは「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と訊いてきたりしない。これは、「大人を困らせる言葉とはどんな言葉か」ということを、大人が考えた結果出てきた言葉ではないのかというのが私の印象である。つまり、最初から大人目線の疑問なのである。
もし、百歩譲って、実際に、「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と小さな子どもに訊かれたら、私なら「なんでやろな? 不思議やな。」とものすごく楽しそうに笑顔で答えると思う。

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