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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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長文注意。以下にアウトラインを書く。

なぜを問わない人間は「非対等性」という前提を信奉している
なぜを問う人間は「経験」の語義を書き換えてしまう
上司と部下の関係は一時的な関係?普遍的な関係?
公理の変更に恐怖に感じる?感じない?
幼児が「立場の交代可能性」をいつどのようにして獲得するかというところにヒントはある
「自分には直接関係のない立場」の人たちが繰り出してくるさまざまな命題をどう扱うべきか




コンビニの店長が人の育てかたについて語ってみた - G.A.W.
で、俺の人を育てるやりかたなんですが、ごくざっくりといえば、研修の初期で鬼のようなマンツーマンでがっちり知識を詰め込んで、あとは放任って感じです。
ただし、相手によってやりかたは大きく変えます。

分類は二つです。自主性があるか、ないか

コンビニのバイトなんて「しょせんコンビニのバイト」なので、基本的にはモチベーションの低い人間ばかり入ってきます。少なくとも好んでコンビニを選んでバイトを始める人間はほとんどいない。モチベーションが低いということは、自分の能力に関して無頓着だということです。能力が発揮されること、仕事において高い報酬(金に限らず、ですが)を得られることにさほど興味がない。そういう前提で人を育てるわけです。

自主性とか曖昧な言葉で嫌いなんですけども、具体的には自分の意見を持っているか、ということです。なんでもいい。たとえば「好きな食べものはなんですか」と質問したときに「バナナが好きです」と答えたとします。まあそれも自分の意見なのですが、重要なのは、このあと。「なぜバナナが好きか」ということについて、自分なりに明確に説明できること。言葉の拙さや理由のくだらなさ、反応の遅さとかはどうでもいい。とにかく「なぜ」という思考法を持っていること。これが重要です。そして、これは俺の私見だと特に強くことわっておきますが、この「なぜ」を問う能力は、ほとんど育てることが不可能です。そんで、これもつくづく思うんですが、「なぜ」を問える人間が実際に仕事ができるかっていうと、別にそうでもないです。どっちかっていうと「なぜ」を問える人間は内省的で、特に学生の段階では自信のない、どちらかというと気弱なタイプであることも多いんで(もちろんそうでない場合も多々あります)。だから俺のいう「自主性」は、通常の意味とはやや違ってますね、これ。

 頭の回転の速さについては、仕事の習熟でカバーできる領域です。しかし自分の力で考える能力は、努力ではどうしようもない。

 なので俺は、人を育てるにあたって、まず二つに分けてしまうんです。
「なぜ」を問える人間に対しては、俺はほぼ叱るということをしません。徹底して「なぜ」を問います。問い詰めになることを回避するために「俺はこう思うのだが、君はどう思うか」という話法を使うことが多いです。つまり「物事には正解はない」という前提で仕事を教えていきます。もちろん、実際問題としては経験の長い俺のほうが妥当であることが多いのですけれど、俺自身がその解答について「あくまで現時点の、暫定的な正解だ」としか思ってないので、その点を正直にいいます。もし「なぜ」は問えるが頭の回転はそんなに速くない、あるいは自信のないタイプだったりする場合、教育にはてしない時間がかかります。もう、それは覚悟のうえです。途中でやめられても泣かない。

 そしてこのタイプの人に俺が必ず言うのが「俺は君が仕事をよくできるようになるための道具だから。うまく利用しろ」ってやつです。「理想はここだ。そしてその理想に到達するための方法は無限にある。とりあえずみんながばらばらの理想を求めたら店はばらばらになってしまうので、理想は俺が決めた。やりかたは自由。効率のいい方法は俺が知ってるが、君が納得できないと意味がない。仕事における自分の成長を実現するために、うまく知識の宝庫である俺を使え」というような。

 もっとも、実際は、店が客にあわせて動くものである以上、理想なんてそのときどきで変わります。コンビニなんで、究極的には「地域のお客さまの役に立つこと」だけが理想ではあるんですが「そのために店はどうであればいいのか」というのは、もう、場所によって、時代によってさまざまです。

 んで、教える俺と、相手の知識、人生経験のレベルに差があるほど「俺が決めてやる部分」を大きくする。そんな感じです。相手が成長するに従って、俺はどんどん後退していく。そんなイメージ。

 つまり、原則は「対等」なんです。もちろん俺が経営者で、相手がバイトである以上、この場合の「対等」なんて建前にしかならないんですが、建前だろうがなんだろうが、とにかく俺は「理念」だけを掲げて、あとは相手に任す。そういう流れになります。
では「なぜ」を問えない相手の場合はどうするのか。

 基本的には「四の五の言わずにやれ」になります。たぶんほかの店では考えられないような細かい部分までマニュアル化してると思います。ただ「なぜやる必要があるのか」という説明は、相当に執拗です。ちなみにこの場合の「なぜ」は「お客さんにとってどうであるのか」という一点突破のみです。実際には客にとって意味がない、店にとっての効率だけの問題でやることであっても「お客さんのため」という一点突破で理由でっち上げます。「なぜ」を問わない人にはそれで通じるからです。逆に理由が複数あったりしちゃいけないんです。わかりにくくなっちゃいますから。

 このタイプの人を育てるにあたっての「わかりやすさ至上主義」というのを俺は持っています。たとえば「元気のいい店にしたい」となったら、声でかくすればいいんです。声のトーンも感じのよさも関係ねえ。でかけりゃいい。でかくなったら「おまえすげえ」です。自分で考えるタイプにとっての「成功体験」は「理解すること」や「理解したことが実際に意味を持つこと」ですが、自分で考えないタイプには「目標達成」なんです。だから目標は可能な限りわかりやすいほうがいい。理由もシンプルでいい。

 そんで、大声大会になったら、次は「こうすれば、もっと感じよくなるぜ」です。そこで初めて次の段階に進ませるんです。

 同じ手間をかけるにしても、前者については「考えさせる手間」を。後者については「到達目標を細かくする手間」を

 ちなみに、自分で考えない人に対する「褒める」「叱る」ですが、褒めるのは目標達成のときです。褒めかたについても俺は完全にパターン化していて「おまえはすごい」の一点張りです。もちろん言いかたにはバリエーションはありますけど、基本的にはこれだけです。そんで「おまえがすごいので、店もすごい」です。

 叱るほうについては、細かくマニュアル化してるので、それと違うことをやったときになりますが、そのときでも基本的には叱りません。「やりかたが違うみたいだから、もう一度教える」です。ただし「3回教えてまちがったら、そのとき俺はぶちキレる」という前提でやってます。マニュアル化してるということは、個々の仕事はさほど難しくないということで、ふつう3回聞かされたらいやでも覚えざるを得ません。それでも同じミスを繰り返すということは、覚える気がないんだと断言してしまっても、まずかまいません。

なぜを問わない人間は「非対等性」という前提を信奉している

なぜを問わない人間というのは、非対等性正義の外在性に関して疑問を抱かない人間と言える。
目標を設定する権利の所在が、なぜ自分になくて、相手にあるのか。
自分は部下で相手は上司だから? 相手のほうが経験豊富だから? 相手のほうが年上だから?

たしかに、「経験者の判断のほうが、未経験者よりも優れている」ということは経験的な事実だ。
だが、それは絶対ではない。

バカな上司というのはどこにでもいて、そういう上司に就いてしまうと、その上司の権限に基づいて設定された目標に、無意味に無駄に振り回されなくてはならないことになる。

非対等性というのは、「上司がバカかどうかの判定権はお前にはない」(もしくは「上司に服従できないことをバカと言うのである」)ということを意味している。

だが、多くの人が経験しているように、経験的には「バカな上司」というのは存在する。
「いや、そんなことはない」という人は、精神的な不協和を仮想的に合理化することで一時的に安心しているだけである。つまり、「見ると自分の同一性が崩れてしまうような相手の側面は、見ない」という方針で生きていくことを、彼の身体が選択しているだけある。「上司はホントはバカなんだけれど、かしこいことにする」というやつですね。

一目惚れがきかっけの恋愛がうまくいく確率はだいたい7割くらいだというのを聞いたことがあるが、これは、未経験な人間が直観的に相手に対して感じてしまう価値の妥当性がどれくらいであるのかをうまく表している。
もちろん、7割だから、外れることもよくあるのだが、外すことのない判断なんて有り得ないことを考えると、この直観がなす判断に身をゆだねて生きていくことは十分に合理的なことだ。

***

なぜを問う人間は「経験」の語義を書き換えてしまう

なぜを問う人間の背景には対等性の前提がある。
それは、「経験豊富な人間のほうが優れている」という経験的もしくは天下り的な前提に依存しなければいけないことへの不満感もしくは非納得感に由来する。
ここに不満感を抱くか抱かざるかが、なぜを問うか問わないかの分かれ目なのである。

「経験豊富な人間のほうが優れている」ははたしてどこまで真実なのか?

経験ということを一次元的に線形的に捉えている人間にとっては、「たしかに経験の豊富さというのはなかなかに一朝一夕には補いきれるものではない」と考えるだろう。
だが、経験とは何かということをより広義に解釈している人間にとって、つまり経験が表現される空間はゆがむことがあるという確信のある人間にとっては、同じ「経験豊富な人間のほうが優れている」という言明(古き良き教え)を別様に解釈する。
その別様の解釈は、経験という語義の解釈が別様であることによって支えられている。

なぜを問わない人間は、「経験豊富な人間のほうが優れている」という教えを、「上司には従順であるべき」とか「経験とは年功のことである」というふうに解釈するのに対し、なぜを問う人間は、「経験を積む速度を効率化することは可能である」「すべての人間が効率的な仕方で経験を積んでいるわけではないから、経験と年功の比例関係は崩れることが十分にあるし、その崩れの原因は効率性である」というふうにこの教えを解釈する。
そしてそれらの解釈はいずれも、もともと個人の内部にある哲学が、対等性であるか非対等性であるかでしかない。その内部にある哲学と整合性が取れるような解釈が事後的に選択されるに過ぎない。平たく言えば、「みんな自分に都合よく解釈しちゃう」ということである。
そういう意味では、「教え」の解釈の様式を先人の側が規定することは、個人がそれぞれの内部にある哲学を変更することをよしとしない限り決して「つねに成功するとは限らない」のである。

***

上司と部下の関係は一時的な関係?普遍的な関係?

上司だとか部下だとか、親と子とか、先生と生徒とか、そういうのは一時的な関係に過ぎず、社会の枠組みや与えられている情報によっては十分に異なり得る。
(上司の部下の関係は反転する可能性があるが、親と子の関係は判定し得ないから、一時的な関係ではないという主張は無効である。いかなる親と子の関係も、彼らに「自分は親である」「自分は子である」ということの認識が成立していて、かつその知識に双方の合意があり、かつまた、「親と子は生物的な規定によるので死ぬまで変わらない」ということの知識が必要である。そういう知識如何によっては、いかようにも所与の関係は崩れうる。「与えられている情報」というのはそういうことである。)

対等性の前提というのは、そういう、社会性が規定する一時的な関係を絶対的で普遍的な関係であると錯覚することでしか生まれない。
かかる関係を一時的な関係であるとみなしている人間の内部には「対等性の前提」が横たわっており、かかる関係を普遍的な関係であると見なしている人間の内部には「非対等性の前提」が横たわっている。


思うにコレは、「立場」と「人間」が分離されている西洋では「一時的な関係」だが、これが分離されていない東洋では「普遍的な関係」が帰結される、ということなのではないだろうか。

いまの日本では(いや世界的に、と言ってもいいのかもしれないが)、「立場と人間は分離して捉えられるべき」という価値観が優勢であるから、その流れのなかで、「一時的な関係」のほうが、より事態を的確に表していると捉えられてしまうのは必然かもしれない。

というよりもむしろ、一神教的な考え方への執着が、「立場」と「人間」の分離という価値観を創出し、それが結果として「一時的な関係」という概念の台頭をもたらしているようにも私には思える。

対等性と非対等性は両立する。つまり、立場は非対等性を帯びているが、人間は対等性を帯びているという考え方である。

もとより「立場」の「人間」の分離という価値観は、スパッとした綺麗なものではない。「ねちょねちょしたものである」というのが実態だろう。この「ねちょねちょ感」を捨象すると「綺麗なもの」ができるし、ねちょねちょをそのまま受け入れると、分離はできないという結論に至る。


以下では、この分離はそもそも曖昧であるということを前提にして話を進める。

***

公理の変更を恐怖に感じる?感じない?

対等性の前提を信奉している人間にとって、正解とは経験することで少しずつ発見してゆくものであり、学ぶとは、自分で自分なりの正解を見つけていくことである。
これに対して、非対等性の前提を信奉している人間にとって、「正解とは外在するもの」であり、学ぶとは、「外在する正解を身体化する」ことである。
だから、その「正解とされる情報」をより多く摂取すること、そのようにして摂取した情報をもとに合理的に行動することの二点が、彼らが自発的に駆動するための原点になる。

彼らは公理に対して疑義を抱かない。公理の設定のようなめんどくさいことは、それこそ、上司とか、歴史上の偉人とかに任せておけばいい話であり、自分たちは、その公理のもとでいかにパフォーマンスを最大化できるかに意識的なリソースを集中すべきだという倫理がそこにはある。

彼らは、公理が急遽天下り的に変更されることについて疑義を抱かない。「なんかしらんけど明日から○○になるらしいで」と言われて、「ふうん」と言える人たちである。
彼らが公理の妥当性について疑義を抱かないということの意味は、彼らが公理を普遍的なものとして受け入れているというよりかは、公理の選択というめんどくさい問題を自分の問題として取り入れることのほうが、アイデンティティを恐怖に陥れるものであると覚知されているがゆえであると私は考えている。


これはつまり、公理の変更に伴って各命題の推論関係が地殻変動的な構造変化をおこすことを、自分自身のアイデンティティの変化だと思う奴思わん奴がいるということにほからない。

「思う奴」にとって、公理の変更は自分のアイデンティティを脅かす一大事である。「え、いままで築いてきたもん全部台無しかよ? ないわー。もう奴らの言う公理なんて信用できん。やっぱりこういうことは自分で考えなくちゃな。」となる。
その「台無し感」は、彼らには「奴らの裏切り」として映る。

だから、この手の経験を経た人間のその後の行動は、「真に信用できる師」を求める旅になる。それは、言うことがコロコロ変わらない人間を選択的に親友として迎え入れることや、客観的な知識の重視、普遍性の重視と言った傾向を生む。

なぜを問う人間というのは、師が師に値するかどうかをつねに品定めしている。「師が信用できるかどうか」がとても重要だからである。
これに対して、なぜを問わない人間というのは、「師が信用できるかどうか」ではなく、「師は信用するもの」であり、それ以上でも以下でもない。


古き良き師弟関係において、弟子が師に対して「ええ? まえと言うてたことちゃうやん。」という感情を抱いたり、「やっぱり○○先生はすごいな」というかたちで信用の度合いを強めたりすることは、よくあることであるが、この手の感情は、なぜを問う人間に固有の感覚であり、なぜを問わない人間は、この手の感覚を抱くことがない。

というのは、このような感覚は、立場の交代可能性に対する想像によって担保されているからである。
つまり、彼らは、「師もかつては誰かの弟子であり、自分もまたいずれは誰かの師にならなればならぬ日がくる」ということにつねづね想像が及んでおり、そういう日がくることを受け入れる心の準備ができている。

「立場」と「人間」をあまり分離して考えていない人間は、異なる立場を担わなければいけない日がくることを信じない。だから、そういう日がくることを想像することにリソースを割かない。


幼児が「立場の交代可能性」をいつどのようにして獲得するかというところにヒントはある

幼児というのは往々にして、「親はずっと親であり、自分はずっと幼児である」と考えているものである。
一つの概念を二つに割るにはコストが要る。だから、割っても割らなくてもよいのであれば、人間は割らないほうを選択する。「立場」と「人間」を分離することにおいてもそれは同じである。「立場と人間を分離することでしか現状を整合的に解釈することができない」という事態に立ち会ってはじめて、割るコストを割く覚悟が生じる。

つまり、すべての幼児は非対等性の前提から出発する。
先生は昔から先生なのか? 親は昔から親なのか? 幼児にとってはYesである。
幼児の理解の範疇では、先生はずっと先生なのである。

だが、「そのように理解している」ということと、「それを心からよしとしている」かどうかということは別である。

すべての人間には、生まれながらにして、相手の感情を模倣する能力が備わっている。
「立場」と「権利」は一対一で結びついており、立場に非対称性がある以上、権利にも非対称性がある。
幼児は、権利を行使するときの「心地」がどんなものであるかを想像することができる。
相手の立場を理解するというのは、相手の権利を理解するということである。
そして、相手の権利を理解するということは、相手の権利を行使するときの心地を想像上で実感してみることが可能であるということを意味する。

その「心地」が、自分にとって特に心地よいものでないならば、そのような想像は一過性のものとして処理されるに過ぎない。
だが、それが心地よいものであったならばどうであろうか。
その体験をなんども繰り返し味わいたくなるなるだろう。
しかし、残念ながら、幼児自身にはその「立場」にいないのだ。
そのような立場にいる自分というものが社会的に受容されることは、残念ながらなさそうなのだ。

ではどうすればいいのだろうか。幼児の答えはこうである。すなわち、そのような立場にいる自分というものが受容されるような社会をみずから空想的に創造するのである。
(これは、発達心理学で言うところの"Imaginary Companion"(空想上の友だち)というものに或いは相当するのかもしれない。)

権利の非対称性に不満があるのだが、自分には、「相手の立場を奪取する力」も、「その非対称性を消滅させる力」もないとき、人は、そういう力を存在させることのできる社会をみずから生み出すのである。

幼児がおこなう「ごっこ」というのはそういうことである。
ジャイアンがのび太を殴るのは普段から母ちゃんに定期的に殴られているからであるという説があるが、これは、ジャイアンが、非自覚的に「親ごっこ」を行なっているからであると解釈できる。
同じように、一部の幼児たちは、師が行使する権利を模倣して、「師ごっこ」をおこなう。

これらの「ごっこ」は、立場の交代可能性に対する想像力をはぐくむ上で大いに有効である。
しかし、どういう「ごっこ」をおこなうかは、どういう立場に居心地を感じるかに規定されているのであって、それには個人差がある。
ある子は「おままごと」ばっかりするだろうし、ある子は、「なんちゃらレンジャーごっこ」ばっかりするだろう。
これはすなわち、子どもの間で、「どの領域(立場)に、交代可能性に対する想像がより優先的におよびがちになるか」がばらけるということを意味する。(完全に拡散はせずに、いくつかのクラスターができることは予想されるが、いずれにせよ「ばらける」ことには違いない。)
そして、ある「おままごと」ばかりしている子どもは、将来の夢として「お嫁さんになるの」とか言い出したり、ロープを使って電車ごっこに勤しむ想像的な経験を選択的に積んだ子どもは、「将来は電車の運転手になるんだ」と言い出したりするのである。


あらゆる子どもは、非対称性という前提から出発するのだが、一部の子どもは、その前提から脱出する。そしてその脱出が成功するに当たっては、
ある「上の立場にいる者」の権利に関して想像が及び、
その権利を行使する心地がいかなるものであるかを実感し、
その行使が心地よいものであると当人に感じられ、
しかしそれを現実に置かれている社会的立場において行使することは認められていないがゆえに不満がたまり、
その不満を解消するために空想の社会を創造する
というそれぞれのステップが段階的にクリアされていかなければならない。
(これは、子どもにおいて「ごっこ」が作動するまでのステップを一般的なかたちで表現したものを、「上の立場にいる者ごっこ」に適用した格好になっている。)

そして、大人になってもなお「非対称性という前提」を自明のものとして受け入れている人たちが、どの段階でとまっているのかには個人差があるのではないだろうか。
多くの場合では、「その行使が心地よいものであると感じられるかどうか」という点が律速段階になっているものと思うが、断定はできない。権利を行使する心地を想像する力に遺伝子レベルで違いがあるという仮説が完全に否定されているわけではないからである。

平たく言えば、「早く先生や親になりたい」と思っている子と、そんなことを全然思わない子がいる、ということでもある。もちろん、以上は権利の話だけをしていて、実際には権利と義務はセットであって、でも幼児にとっては権利のほうだけが見えているために、現実の「上の立場にいる者」に割り当てられている役割を正しく認識できていない可能性は十分にある。

***

「自分には直接関係のない立場」の人たちが繰り出してくるさまざまな命題をどう扱うべきか

人間は生物的に成長すれば、いずれは親になるし、親にならなくても、子育てを誰かから頼まれるとかして、実質的に親の役割を負わねばならないようになるということは、よくあることだし、日常的な風景の一つである。
会社のなかで、最初はぺーぺーの新入社員だったけれど、何年もやっているうちに、昇級して、部下ができて、後輩たちから「先輩」だとか「上司」だとかいう言われ方を経験するようになるということもまた、よくある日常的な風景の一つである。
中学や高校のクラブ活動においても話は同じである。中学や高校のクラブ活動というのは、自分の役割が一年単位で変化するという「高速回転体制」であるがゆえに、生徒自身に、上下関係という立場の交代可能性に対する想像力をより短期間で効率的にはぐくむことができるような環境になっている。
昨年まではぺーぺーだったのに、一年後には「先輩」と呼ばれて「えっ?」というような驚きの感情を抱いた経験というのは誰しも多かれ少なかれもっていると思うが、まさにそれである。

だが、あらゆる上下関係に対して交代可能性への義務が存在しているわけではない。
親子や上司-部下といった関係は、流動的で世代交代を必要とする「過程」であるが、では、官民関係はどうであろうか。だれもがいずれは総理大臣にならなくてはならないのだろうか。

そんなことはない。

一人の個人の視点に立つとき、私たちは、あらゆる「過程」に関わらなくてはならないわけではないということにもっと着眼すべきなのだ。
なぜそのようなことが可能なのかというと、それは、「過程」が階層化されているからである。
上のほうは上のほうでぐるぐる回っていて、下のほうは下のほうでぐるぐる回っていて、一人の人間がすべての立場を経験しなくてはいけないというわけではないということである。

こういうときに、「自分には特に義務のない立場」(たとえば総理大臣。ほとんどの人は総理大臣にならない。)をどう扱うかという点においてもまた、なぜを問う人間と問わない人間の傾向は大きく分かれてくるような気がする。

つまり、「自分には特に義務のない立場」の人たちが繰り出してくるさまざまな命題をどう扱うべきかに関する倫理が、なぜを問う人間と問わない人間では大きく異なるのである。

なぜを問わない人間というのは、「自分には特に義務のない立場」の人たちが繰り出してくる命題を「公理」として扱う。「疑ってはいけないもの」「受け入れるべきもの」というふうに扱う。そして、それが受け入れられるように自分の内部状態を変更しようとする。それが「なぜを問わない人間」の適応の仕方である。

これに対して、なぜを問う人間は、「自分には特に義務のない立場」の視点に内在化してみるという努力を怠らない。その努力は、いつもいつも義務感とか高い道徳心とかに支えられているわけではなくて、むしろ好奇心(という非利他的な視点)がそれを下支えしている側面が大きい気がする。
「自分には特に義務のない立場」にいる人も、同じ人間である。人間であるからには失敗する可能性もあるわけである。「そういう人間の言うことを、つねに公理として受け入れることが、どれほど危険なことか分かっているのか?」というふうに、なぜを問う人間は考える。

平たく言えば、なぜを問う人間というのは、「なんでも自分でやらないと気が済まない人」である。彼らは「自分でやったことなら、失敗しても、自分の責任で失敗したのだから、まあ仕方ないか」と思える。だから、「自分でやろう」となる。
これに対して、なぜを問わない人間というのは、「自分の失敗で自分の被害を受けること」と「他人の失敗で自分が被害を受けること」の違いにあまり実感を持たないのではないだろうか。「被害を受けたことには変わりがない」「失敗したことには変わりがない」というふうに。

「自分には特に義務のない立場」に好奇心が向くのと向かないのとはいったい何が違うのだろうか。このあたりは私もまだよく分からない。



***

★おまけ★ ↓上の文章を書くにあたって削ったいろいろな文言↓

・アイデンティティというのはとどのつまり、あなたは何を失うことを怖れるのか、何を取り入れることを怖れるのか、ということである。

・彼らにとって「怖れ」とは、自分の内部にある価値体系が大きく揺らぐことであり、しかしその揺らぎは、感動などのポジティブな感情として表れることもあれば、アイデンティティの崩壊といったネガティブな感情として表れることもある。
この違いを規定する変数は、一見すると「衝撃のでかさ」ただ一つであるように見えるが、どうも違う気がするんだよね。

・「めんどうでも自分で考える」というのは哲学性と呼んでもいいかもしれない。
哲学性とは支配欲の変種である。
つまり、支配欲というのはそのままでは紛争の火種になるが、哲学性というかたちを取るとき、それは無害化され、紛争の原因としての性質を失う

・だが、経験豊富ということの意味は、たいてい、どれくらいそれに従事しているかという「年功」で評価されることがほとんどだ。分かりやすいし、まあまあ的を射ていることが多いからね。


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