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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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アタマは良くなる! より

ちゃんと見たわけでないが、NHKの再放送で、100才を超えて中国語の勉強をしているお爺さん幼稚園の先生(?)などの話をやっていた。MRIか何かの写真で、ふつーの人の海馬は、5ミリくらいらしいのに、その人のは1センチもあると言う。海馬は記憶を司る。これまでは、年を取ると海馬はやせ衰える、つまり、新しい神経細胞が作られることがないというのが定説だったが、年を取っても成長することがわかったのだ。(ロンドンのタクシー運転手の海馬が年を取った人の方が大きいという検査結果もあるらしい。ロンドンのタクシー運転手は、道を覚える試験が大変なのだ。何かで読んだ。)


おもしろい事例である。
裏が取っていないので手放しで信じるわけにはいかないのだが。
しかし、これは前座である。

とにかく私は記憶力が悪い。抽象化能力と思考力はある方かもしれないし、読解力もある方だろう。でも、それに比べてとにかく記憶力が悪い。特に言語で表現すべき記憶力が悪い。とにかく覚えられない。
(自分で考えた論理でも忘れる。いきなりその場で説明することができない。笑)

 社会科の先生は、記憶力の強い人が多いようだ。「覚えるのに苦労をしたことがない。」と言っている人を知っている。わからないことを聞くと、たちどころに帰ってくる。コトバにもよどみがなく、素晴らしいものである。(こういう知人は実に有り難い。)しかし、この人、数学が弱い。だからか何か、論理的な話になると整合性に欠ける。(社会の先生には「独創的」な方が多いのはだからかと思う。)

で、私の社会科は、中学時代からもの凄く苦労をした。中一で地理、中二の歴史が大変だった。白地図を自分で書き、覚えることを全て書き込んで勉強をした。年表を自分で作ってすべて纏めて覚えるべきことを整理した。実に涙ぐましい努力である。教科書を読んだくらいでは覚えられないんだもの、しょーがない。。。その中学生の時に思ったのは、「中学の勉強でこんなに大変なのだから、高校に入ったら、私、どうなるのだろう? ついていけるのだろうか」だった。ホントに心配だった。でも、実際は、何とかなった。もちろん、高校に入っても、同じように大変な思いはした。しかし、振り返れば何とかなったようだ。
 不思議である。高校の知識量は半端じゃない。それでも、何とかなった。

 考えられるのはただ一つ、強調文中学の勉強があったから、私は高校の勉強ができたと言うことである。

世の中には、「私は記憶力が悪い」と堂々と叫ぶ人たちがなぜか一定数いる。
わたしは不思議でならない。
いったいなぜそれがお前に分かるのか、と聞き返したくなる。

思うに、「私は記憶力が悪い」と叫ぶ人たちというのは、「何かを覚えなくてはならない必要に迫られているにもかかわらず、様々な努力を施してもなかなか覚えることができなかった」という屈辱の経験に基づいて、そう確信しているのではないかと思う。
あるいは、上記女史の回想にもあるように、「他のさまざまな勉学に必要とされる能力に比べて、記憶能力は劣る」と考えられるがゆえに「記憶力が悪い」と判断している人たちも一定数いるようだ。

じゃあどういう人が「記憶力が良い」のだろう。
上述に基づく限り、それは、「覚えるのに苦労しない人」らしい。
しかし、思うに、そういう人は非常に稀なんではないか。
大部分の人は覚えるのに苦労する。
つまり、上述に基づく限り、大部分の人は「記憶力が悪い」ということになる。

私が興味があるのは、こういう記憶力の良し悪しを判定するボーダーラインがどこかということではなく、「なぜ、覚えるのに苦労する一部の人たちは、自分自身に、自分は記憶力が悪いんだ、という烙印を押したがるのか」ということについてである。

個人的感想を言えば、烙印を押してもなにもいいことはないと思う。
ひがむだけである。
ちぢこまるだけである。
そんなことをしている暇があるのなら、その時間を、覚えるための努力に割いた方がよっぽど生産的である。
よっぽど生産的であることが分かっているにもかかわらず、それでも烙印を押すのは、押したくて押しているわけではなく、押さざるを得ないから押しているんだ、という風に考えることもできる。

私は思うに、彼らは、「記憶力というものが存在するという信仰から逃れることができていない」ということなんではないか、と思う。
さながらそれは、自由意思を束縛する科学的根拠があるかもしれないと仄めかされるだけで、自身の自由意思がすでに少なくとも部分的には奪取されてしまったかのような錯覚に陥ることにも似て。
これは発想の転換かもしれない。
でも私は記憶力という神話を信じていない。
サヴァンの患者など特殊な例はあるが、そういう特殊な例を除けば、私は記憶力という神話を信じていない。


記憶は、ある年齢までは、コピーだが、ある年齢以降は、意味付けが重要になる。
意味付けさえちゃんとされていれば入るのである。
記憶力が悪いということを自称している人は、どこか、損をしている気がする。
いったい何に確証づけられてそう信じ込んでいるのか。
せいぜい、学齢期において友人よりものを覚えるのに苦労した、という程度のことでしかないのではないか。
だいたい、小中高で覚えなくちゃいけないことなんて、たかが知れている。
大人になって、社会に出たら、覚えなくちゃいけないことなんて、もっともっと増えるはずだ。
なぜ、大人にできて子どもにできない?


ちなみに、私自身は、記憶力が良いと思ったこともないし悪いと思ったこともない。
「そういう判断を、自分自身がすることはできない」ということを信じているからだ。

人は、その人の身体が欲している情報であれば、すぐに覚えられるしすぐに定着してなかなか忘れないけれど、その人の身体が欲していない或いは拒んでいる情報であれば、なかなか覚えられないし定着率も悪い。

もちろんこれには例外もある。
私のある中学校の先生は、英単語を百回書いて覚えられない人はいないと言った。
たしかに百回書けばよっぽどのことがない限り覚えられるのである。
だから百回書けというのは半分正論である。
そして、半分正論でない。

というのは、意義を感じずに不満げにただ漫然と写生していても、定着率は悪いからである。
人間は、自分の生命に貢献することでないと、なかなか、能動的には動けないようにできている。
これは人間に限らず、あらゆる動物でそうである。
この意味でいけば、ある単語を覚えたければ、「その単語は、自分の生命をいかしとどめる上においてどういう意味を自分に賦与するのか」ということを考えながら写生するのがよい、ということになる。
実際、私は、おそらくそうであろうと信じている。
人間には、スッと入ってきてなかなか離れない情報というのがある。
その感覚を自分で制御することができるようになれば、一番良いのだが、それはなかなか難しいことだ。
でも、それを目標に据えておけば、同じ「百回書く」でも、かなり楽しくなるはずである。
そのうち、ぼーっとしていてもある日突然「なにか書きたくなる」ような衝動に見舞われたら儲けものである。
書くこと、書いたものを見つめることを自分の命が、自分の指の筋肉が欲しているなによりの証なのだから。

以上のことが、神経生理学的にどれほど検証されているかどうかはさほど重要ではない。
それよりも、自分の主観的な感覚を操縦できるようになること、或いはそれを目指そうとすることは、勉学に行き詰まるがゆえに科学的な知見に依拠したくなる気持ちにまかせることよりも、ずっと生産的であることを、私は経験的に知っているつもりである(実践できるときもあれば実践できないときもあるが)。
そしてまた、同じような知識を体感的に得ている人が、私以外にたくさんいるであろうことも、同時に私は信じているつもりである。
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