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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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なぜ中国は人口が多いのですか? - 教えて!goo

回答者:noname#11159
中国は、過去戦争をする度に人口の均衡を保っていたのです。
(三国志などを読めばよくわかります。一つの戦で幾万の人が死んでいます)
ここ最近の歴史では、日本が大虐殺したぐらいですから。
(誤解の無いよう補足しておきますが、これはよくない事ですし心の痛む事です)
このように、戦争がなければ増えるのは常識。

「戦争をすることで、結果的に人口を保っていた」と言ったほうがいいだろう。
人口を減らすというのは当事の人々や支配階級にとって、目的ではなく結果なわけだから。

「我が国では人口が増えてきたな。そろそろ人口減らすために戦争でもするか。」ということじゃないということ。
「お前はべつに産んでも産まなくても良かったんだけど、少子化対策のために産んだのさ。」というのがほとんど有り得ないのと同じ理屈。

目的であろうが結果であろうが、同じ事実が帰結されるのであれば、それは同じことを意味するのだというのが機能主義的な考えだろう。

最終的に落着するところの事実が、当事者たちによって最初から期待されているものとして受け入れられていたのであればそれは「目的」だが、そうでないのならそれは「結果」だ。

当人たちの自由意思的なあがきの意味を捨象するところに、機能主義的な考えの非情さは存している気がする。


こういうことは法律では絶対に考えられないことだ。
というのは、法律では、自由意思的なあがきの意味こそがもっとも大切だからである。
あらゆることが、目的論的に、「動機」に照らして考察され、生産される。

同じ人殺しでも、過失なのか故意なのかで量刑が大きく変わるのは、動機の差異が量刑の差異に反映されることをよしとしているからにほかならない。
「理由はどうあれ殺しは殺し」というのは殺された側の理屈であり、裁く側の理屈ではない。

裁く側に加害者の「動機」を重視する文化がある限り、「理由はどうあれ殺しは殺し」という理屈は通用しないのである。
これは逆に言えば、「加害者の動機を重視する文化を、被害者も持ちなさい」ということでもある。


法律だけじゃない。日常生活においても同じことだ。
法律は日常生活を守るために存在しているので(存在し始めたのが最初なので)、法律が大切にしているものと日常生活が大切にしているものが一致するというのは全然不思議なことではない。


回答者:starflora
基本的に幾つかの理由が輻輳しています。
 
  1)まず、中国は、黄河・揚子江を擁し、肥沃な大平野があり、古来より、麦・米の栽培による灌漑農耕があり、「四大文明」の一つだともされています。二千年乃至三千年以前から、肥沃な土地にあって農業を営み、養える人口が、他の地域よりも多く、結果的に、古代から人口過剰になっており、農耕地をどんどん拡大し、揚子江南岸の三国志時代の呉などの地域は、あまり農業生産性が高くなかったのですが、ここも農耕地に変え、食料生産能力を高度に上昇させました。そのため、古代、二千年とか辺りからすでに人口問題があり、周期的な大戦争や天災で、死んだり、餓死したりで、人口調整がなされていたとも云えます。つまり、昔から、中国は人口が多かったのです。人口密度も高かったのです。
 
  2)上の周期的な人口減少があるということは、それを回復するための努力や、また自然に回復する理由があったとも云えます。その理由の一つは、中国の社会が、農業文明であって、農業文明では、人口調整は自分たちでは行わないのです。つまり、生まれる数だけの子どもを育成しようという文化慣習があります。この結果、戦争・天災などで、減った人口はすぐに回復するということが繰り返され、また、このような経験を蓄積した文化として、「子どもはできるだけ多数造る」というのが、歴史を越えて、文化の基底習慣にもなってしまいました。
 
  3)もう一つの理由として、中国の社会の構造があります。中国は、大家族制社会で、もう一つ大結社的社会でもあるのですが、中国の歴史上の争い、戦争や政争などは、大家族・大結社の規模や、どれだけ、それらを糾合できるかで決まりました。従って、大家族は、人数が多いほどよいというので、農業文化の基本である、子どもは造れるだけ造るという原理以外にも、社会的競争の結果、大家族集団では、育てることのできない子どもは、力ある、大家族の別の家族が引き取り養うという形で、単に、農民家族が多くの子どもを育てるというだけではなく(これだと、個人家族の限界が出てきます)、大家族共同体が、そのなかで、多数の子どもを再生産するという、大共同体レベルで、多産多育成を可能とする社会機構があったので、そういう機構がない農業社会に較べ、多数の子どもが、成長し得たということで、人口増大がすぐ起こったのです。
 
  4)あまり説明が長くなるのも困りますから、もう少し簡単にしますが、次に、社会の「近代化」という問題があります。農業生産を基盤とする社会は、可能な上限まで人口を増やします。国連が食料を援助すると、その援助分だけ、人口が増えて行ったりします。しかし、先進近代国家は、人口減少へと現実的に向かっています。この理由は、高度文化社会となると、餓死の心配などはなくなり、国家の国民支援も、制度的に保証され、子どもをたくさん造って、家族や自分たちの「保険=保証」にしようという必要がなくなることがあります。また、高度文化においえ、義務教育他高等教育も普通となり、生活費用も高くなり、一人の子ども成人させるのにかかる費用が大きくなって行き、多くの子ども育てるということが、合理的でなくなってきます。不可能になるとも云えます。国民全体が、餓死などない、相応に豊かな生活水準になり、義務教育の普及が90%を越えて来ると、こういうことになり、人口増加は逆転して人口減少になります。これが先進国の実状です。
 
  5)現在の先進国も、1世紀前には、実は、人口増大していました。先進国はどこもかも、産業化の時点から較べて、数倍から十倍ぐらいの人口に増え、その後、増加は停止し、減少へと転じます。このパターンからすると、現在世界の後発国は、産業化をすすめ、教育の普及などを進めていますが、この結果としての人口増大があります。衛生思想や技術の普及で乳児死亡率が低下し、人口増大へと転化した国も多数あります。中国もそうであり、1世紀前に較べ、第二次世界大戦などを経過したにも拘わらず、産業化・先進化の歩みの途上の人口増加を経験していると云えます。
 
  インドやバングラデシュや、アフリカなどの人口増加はどうなるのかは、主に第五の理由が共通しています。その他には、インドには、また固有の事情があります。とまれ、中国は、先進国化してしまえば、人口増加は停止するはずですが、「先進国化」というのは、文明の展開で、最初に突破した少数の国々・地域だけに可能で、後発諸国は、そういう可能性はないのではないかという可能性もあります。つまり、中国が近代化・先進化する見込みはないという可能性が高いです。先進化への開始から、実現までのあいだに、日本・欧米で、数倍から十倍ぐらいの人口増加と言いましたが、その数字からすると、中国が近代化を進めて行く過程で、いまから、農業国であった理由での人口増大とは別の要因の人口増大が加わって、まだまだ、増えて行くと考えられます。


インドの人口はなぜ多いか - BIGLOBEなんでも相談室

質問者:PILUTO
先日、生物学的に動物の生存数は餌の量に比例するという話を聞きました。
天敵の数や生存できる面積は2次的な要素で、本質的には餌の量に起因するそうです。

これ、数理生物学的な出典があると思うな。またそのうち調べよう。

そこで全く根拠はありませんが「中国の人口が多いのは、その雑食性にあるのでは?」と思いました。

回答者:eroero1919
雑食性というより、カロリーの問題です。単純化すると摂取カロリーが増えれば人口は増えます。人間の場合社会状況などがありますから、特にここ最近はそんなに簡単じゃないですけど、少なくとも20世紀くらいまでは「摂取カロリーが増える⇒人口が増える」としてもあながち間違いではないかな、と思います。

というのもですね、アメリカにはアイルランドからの移民が非常に多いんですけれども、なぜアイルランドからの移民が多かったかというと、19世紀頃のアイルランドというのは「貧乏なくせに人口が多い国」だったんです。でも、昔から人が多かったわけではなく、中世の頃はそんなに人口はなかったんです。なぜ増えたかっていうと、新大陸からじゃがいもが伝わったからなんです。やせた土地でもたくさん生産できるじゃがいものおかげで食料が増えて、そして爆発的ともいえるような人口増加をしたのです。これと似たようなことはドイツとロシアでも起こっています。つまり人間腹がふくれるとやることやりたくなってくるんですね。
ちょっと話が横道にそれますが、禅寺で修行した奴から聞いたのですが、禅寺では非常に厳しい食事制限をします。すると、真っ先に減るのは性欲なんだそうです。一冊のエロ本より一本の羊羹のほうが嬉しくなるそうですよ。

で、No.6さんも書かれているようにインドというところは実は非常に食べ物が豊富なところです。豆類が豊富なのでたんぱく質も充分に摂取できます。カレーはインドの食べ物ですが、何種類もの香辛料をブレンドします。ということは、それだけ香辛料の種類と量が豊富だということです。中世にはヨーロッパ人はインドの香辛料を大変に有難がって購入したことはご存知だと思います。インド料理店にいけばインド料理が貧しいかどうかよくわかるでしょう(まあいわゆる宮廷料理が多いのですが、おいしい店のナンは絶品ですよ)。

じゃあなんでアフリカ南部のような食料が豊富じゃないところが人口が増えるんだというと、先進国が食糧援助などをやってしまうからです。自分たちでちゃんと作物を作らなくても子供を作る気が起きるくらいに食べ物が配られちゃうからです。また乳幼児死亡率が高い地域では「すぐ死んじゃうかもしれないから、とりあえず産んでおけ」という価値観になります(これは昔の日本もそうでした)。だから、とりあえずじゃんじゃん作っちゃう。でも食えない。でも見殺しにするわけにいかないから支援する。だからまた作っちゃう。この連鎖です。
最近はこれじゃいけないということで自立化を促す農業支援などに力を入れる方針になりつつあるようですが、これがどうもなかなか上手くいかない。あんまり大きな声ではいえないんですが、どうやら南部アフリカ人というのは働くっつう概念が薄いらしいです。働いて食料を得るより働かなくても食料が得られるなら、それがいいじゃん、それのなにがいけないの?って考えるみたいです。

回答者:mariam
第一には、中国は一人っ子政策をしていますが、インドは無策に等しいです。中国は一党独裁の共産圏なのでかなり強引な政策が取れます。しかし、インドは宗教・民族が非常に多く複雑なので、強引な政策が取れません。真偽の程は分かりませんが、中国政府は一人っ子政策で、4億人の人口の増加が抑えられたといっています。
第二には、やはり貧しさのためと思います。中国にも貧しい人はいますが、数にしても程度にしてもインドのほうがひどいです。インドではまだ不可触民や奴隷に近い人がいますから。こういう人たちにとっては子供も立派な労働力となります。
私は、ロンドンのインド人街にいますが、ここの人たちは豊かでもないけれど、貧しくもないという程度の人たちなので、子供は二人か三人です。

回答者:fen_jalan/自信:自信あり
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nomuray/indozakkan/4syou.html

こちら↑の前半にヒントが隠されています。
途上国の人口増は、
貧困層では幼い子どもでも、有用な労働力であること、
子どもが多いほど、収入が多くなると考えられています。)
避妊の知識と道具が、貧困である故に無いことが大きいと思います。
日本が人口が増えないのは、貧困層がないこと、
子ども全員が義務教育など高度な教育を受けていることに他なりません

回答者:maharani/どんな人:経験者/自信:自信あり
インドの食料事情に絞って言えば。

インドではターリーと呼ばれる定食が1食10ルピー(約25円)から食べられる。チャパティとダル(豆のカレー煮)だけなら2,3ルピー(10円以下)。インドにはかなりの貧困層がいるが、貧乏人でも食いっぱぐれはあまりない。
なのに高価な方の食文化は絢爛豪華、多種多様。タンドゥーリーチキンに代表される肉料理(主にマトンとチキン)はもちろん、ヒンドゥーのマハラジャ(王族)階級がベジタリアンだったので菜食文化も充実している。

インドの食料の種類が少ないなんて、いったいどこをどうしたら言えるのか?主食だけでも小麦粉系でチャパティ、ナン、プリ、パランタ、米系でビリヤニ、プラオ、南なら赤米飯、米粉と豆粉でドーサ、ィドゥリ、ヴァダ、アッパム、タピオカ芋、チャッカ・・・etc.そのバラエティに富んだ食文化は中国にも勝りこそすれ、劣るとは思えません。
国土のほとんどが熱帯気候で、水の心配さえなければ農作物は一年に何回も収穫できるし果物の種類も量も多いしカカオ豆コーヒー豆ナッツ類も獲れるし香辛料の豊富なことは言うまでも無い。海岸線が長く海の幸も多い。日本でもよくインド産エビなど輸入されている。
肉はマトンとチキンが主だが、ムスリムは水牛を食べるし一部肉食ヒンドゥーは豚を食べる。クリスチャンは両方食べるし、一部地方ではウサギ、カエル、アヒル、カモも食べる。
スナック類も甘いハルワやグラブジャムーンからジャガイモから作るアールーブジやらバナナチップスやらタピオカチップスやら上げ連ねたらキリがない。

もちろん、人口の増加には別の要因もあるでしょうが、中国とインドの人口の多さにはその食料事情が大きく関与しているという意見には賛同します。

回答者:nacam
私は、雑食性による人口増はありえないと考えます。
人口密度でいいますと、むしろ日本のほうが人口過密ではないでしょうか。
また、バングラディシュなども人口は超過密です。
アジア圏は、世界的に人口過密地帯です。
人口過密地帯は、米を主食とする地域に重なります。
米という作物は、単位あたりの収穫量も多く、条件が良ければば年に何回も収穫でき、連作障害も無い優れた食物です。
ジャワなどでは、年間4回も収穫できるそうです。
それに対し小麦の場合は、単位あたりの収穫量も少なく、化学肥料のできる前は、3年に1回程度の収穫しかできませんでした。
このことからも、どちらを主食とした場合に、多数の人口を養えるか明白です。
中国においても、華北よりも江南のほうで人口が多いのも、江南が米の産地であるからです。
そのため、バングラデッシュも、常識では考えられない人口があります。

経済的に発展してきますと、米だけで満足するものではありません。
そのため、色々な物を食するようになります。
それが中国の場合に、肉に偏ったため、「4つ足で食べない物はイスと机」と言われるようになり、日本の場合は、魚関係に偏り、ナマコやウニまで食べるようになりました。

中国において、人口過剰感が出てくるのが、明末期ころからです。
多分そのころから、色々な肉を食べだしたのではないかと推測されます。

インドはこれからでしょう。

回答者:alpha123
人口が増えるのは新生児が死なないからです。
日本も明治憲法制定時(1890年)の人口は3500万人くらい。100年前は4200万人、世界人口は16億。当時でも生きる人は80歳でしたが、若死にも多かった。赤ちゃんが死に、小中学生が死に、20歳になれるのは2/3、40歳までに半分死ぬ。
いま1億2700万人、60億人、中国は13億人でインドは10億人。
しかし2050年には中国15億人くらいでインドは15億人超え世界一の人口です。世界人口90億人!
100年後の日本の人口4200万人(^^)。100年増え100年減り、元に戻る。これが適正人口らしいです。
一人当たり住宅は2倍の広さに、一人当たり自然もいまの倍です!

100年前、人口一番多いのは新潟県です(^^) 横浜、福岡はベスト6都市に入れない!
21世紀は中国の世紀で、あとインドの世紀が200年続くとか

超大国中国、と呼ばれる時代がいまから数十年を待たずしておとずれ、その後には超大国インドができてくると。う~む…。


回答者:noname#21370
セックスしか楽しみが無いからじゃないですかね。
睡眠は誰でもとれる、貧困だけど飯はある、残るはセックスだ。
あとは昔から言われている、生き残りにくい動物ほど子供をたくさん
生むってやつ。中国・インドは富俗層と貧困層の差が激しいから
貧困層で子供が増えるのかも。今は、中国は貧困層の増加は抑制されて
富俗層が金払って子供を数人持つようですが。

確かに、源氏物語などの時代の貴族は、いまみたいにレジャー産業がないから、ハマることが「恋」(色事)か「権力争い」くらいしかない。
あとは「神学」(仏教、宗教、学問(哲学))か。でもまあ「神学」にハマる人間は少数派だから、大衆受けするレジャーとしては、やっぱり「恋」と「権力争い」だな。
(まあ他にもグルメとか旅行とかも有りだけれど、田畑に縛りつけられてるから旅行しにくいし(江戸時代くらいになってくると生産性があがってそれほどでもないのかもしれないけれど)、グルメも、グルメを楽しめるほど食材がたくさんあったのか、食材を安定的に確保できたのかって考えると、まあ一部の特権階級が例外的に享受してたかもねという話なわけだし、なによりグルメと旅行には金がかかる。要するにコストがかかる。
それに比べて「恋」は男女二人がいればあとは何にもいらないし、「権力争い」は、後継者争いのあるところでは必ず起きる。つまり、権力争いは、やりたくてやってる部分とやらざるをえないからやってる部分の両側面があるということ。


回答者:masa20061001
インドで大多数を占めるヒンズー教で、牛を食べるのを禁止しているのも、そもそもは、田畑を耕す労働力としての牛を食べてしまうと、次の日からの労働に事欠いてしまうから…という生活の教えがそのベースにあります。

宗教的な禁忌というか戒律には、合理的根拠があるのだが、その根拠や合理性に当事者たちが自覚的である必要は必ずしもない。
「なんかしらんけどこんな戒律が昔からある」「この戒律を守ってるととりあえず親父やおじいさんがやってたような暮らしはできるようだ」、この2つが分かっていれば、合理性とか根拠とかそういうことに思いを馳せなくても、日常生活を維持するための心理的な安定性はとりあえず保証される。

戒律にも自然淘汰的な原理が働き、その社会の存続にとって、その社会のなかで生きる人々の日常生活の安定的な維持にとって有用な戒律が生き残っていく。

戒律の合理的根拠を問う視点というのは、当事者の立場を対象化する視点、当事者の立場を客観視する視点なのだけれど、そのことは、日常生活の安定的な維持にとっては必ずしも必要とされないことだ。

「有用な戒律とは何かということを自由意思の俎上で考え、人工的に有用な戒律をはじき出していこう。」という考えがなければ、戒律の合理的根拠を問わなければならない必然性がない。
「あらゆる戒律には合理的な根拠が存在する」ということは、「あらゆる戒律には自然淘汰的な原理が働く」という仮定のもとでは、つねに正しい。
原理にゆだねたほうがいいのか、自由意思の俎上ではじきだしたほうがいいのかは、実はよく分からない。
「自由意思の俎上に乗せるか乗せないかということに無関係に、この原理は働くのだ」という考え方も取れるし、この場合にはさきの問いは意味がない。
ただ、「とにかく対象と認められたすべてのものに対して制御可能性を最大化する」ということがインセンティブとして働くときには(このインセンティブは西洋的かもしれない)、「(俎上に)乗せても乗せなくてもよいのであれば、乗せたい」という欲望が働くことは必至である。
つまり、「当事者の立場」というものが対象としての資格を得た時点で、すでに賽は投げられている。

当事者たちの立場を当事者が対象化するためには、当事者たちのなかに、当事者たちでない視点に憑依する人が現れる必要があるが、そのためには、(A)当事者たちではない人(たち)が実際に過去に或いは現在に存在していたか、或いは、(B)そういう存在を仮構しないことには発狂してしまうような人が当事者たちのなかにいるかのいずれかの事態が生じなくてはならない。

さらに言えば、厳密な条件はこれらですらない。条件(A)(B)は、いずれも「第三者が存在している」ということへの言及であるが、「第三者が存在している」だけではダメで、「その第三者の気持ちになってみる」ということへの動因が存在していなければ、条件として十分とはいえない。
そしてこの2つの条件は段階的である。第三者が主観的に存在していない段階で、第三者の気持ちになってみるということは論理的に不可能だからである。
ちなみにここで言う第三者とは、「当事者たちの社会以外の、心を持った存在」のことである。


以上の事柄を形式的に整理すると次のようになる(新しく追加されている事項もある。(2)とかね。)。


(1-1)第三者の存在を主観的に認めることができる。
          ↓
(1-2)第三者に憑依して、「彼ならこう考えるかもしれない」ということを考えてみることができる。
          ↓
(1-3)「当事者たちの立場」というものが対象としての資格を得る。(←→ 「私たちの社会」という概念が当事者たちの間において成立する。)
          ↓
          ↓←(2)
          ↓
(1-4)「当事者達の立場」の制御可能性を最大化するというインセンティブが働く
          ↓
          ↓←(3)
          ↓
(1-5)当事者たちの暮らしを縛っている戒律の選択を支配する規則が「自然選択的な原理が働くことはあっても、それを人工的に修正していこうとする集合知的な意思は存在しない」状態から、「集合知的な意思が存在する」状態へと移行する。
(←→ 現行の戒律の合理的根拠を積極的に問い、根拠が存在しない戒律は廃止し、現行でない戒律であっても、合理的根拠が存在するのであれば、その戒律を人工的に現行化していこうとする文化が存在している。※1



(2)「「当事者達の立場」の制御可能性を最大化する」というゲームに勤しまなくては暇を回避できないほどに退屈している。

(3)当事者たちの少なくない一部に「あらゆる対象は、その制御可能性を最大化したほうが、自分たちにとって嬉しい」という欲望が存在する。(←→ 多くの男性に見られる特徴的な傾向として、「支配することに喜びを見出す」というものがある。)


補足:ちなみにここで使っている下向きの矢印↓は、「命題論理学で言うところの「ならば」を表す記号」ではない。つまり「AならばBである」という意味のことを「A→B」と表記したくて矢印を使っているのではない。
ここでの矢印の意味は、「A→B」の意味は、「Aという状態のまま十分に放置すると、Bになっている」という意味である。ここでAという状態をBという状態に遷移させる力がなんであるのかを今は詳しく問うていない(理由は難しいからである。でも、問う価値のある力である)。
べつの言い方をすると、命題論理学においては時間という概念が存在しないが、私はいま、時間という概念が存在するような状況の話をしているということである。


※1…こういう文化が優勢になる背景には、自分たちの「合理的根拠の存在不存在を問う能力」への過信ないしは十分な自信(確信)がある。これは言い換えれば、「戒律の合理的根拠の存在不存在を問う能力の有無を規定しているポイントは、私たちの置かれている戒律的な現状というものを対象化してみる、ということができるかどうかということだけであり、それ以外にはないのだ」と、彼らが思っているということを意味する。


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世界で最も多い民族というと中国だね。その事実は今も揺るがないわけだけど・・・。それもいつまでも続かないみたい。中国も知らない水面下で事態は起こっているという。それはインドの人口増加傾向である。
2010/07/13(火) | 家出少女野郎
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