@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

長文注意。

とりあえず長文のエッセンスだけを箇条書きするとこんな感じ。


(Q1)子育てという楽しい営みは女性が独占してきたのか?

(A1)「子育てという重要で楽しい営み」という発想そのものが男性中心社会の思想

○全体が見えていない男の利己的な行動が、傍目には利他的な功労者として映ることが有り得る
○利他的な行動を説明する原理は、男と女で違う可能性がある
○男は「支配」することに満足を覚えるのに対し(「ふはははは、世界は私のものだ」)、女は「共感」することに満足感を覚える(「ちょっと奥さん、これ見てみてよー」「ねえ聞いてよ、うちの上司ったらひどいのよ」)
世界征服が夢である典型的な男性は、本質的に孤独な世界を生きている
・「世界平和」という自己満足と、「世界征服」という自己満足は、根源的には同一の満足感なのではないか

男性中心社会的な思想に基づく行動は、「傍目には利他的な功労者に映る」ことがある一方で、「残忍で非道な侵略者として映る」こともある
○女性たちが日常生活を守るために手に入れた裁量権は男性中心主義的な思想もセットになっていた
○権力争いに熱中している男たちの命やその勝敗やゲームそれ自体が、家庭で「子育て」や「スーパーや公園での井戸端会議」に熱中している女性たちから、自分たちのゲームの楽しみを妨害されることが「悲劇」を引き起こす可能性はほぼゼロ
○妨害要因を排除するために取った行動が、「その妨害要因を繰り出している対象の価値観に自分自身が浸潤される」ということを経ずして達成されることは有り得ない
共感それ自体に満足感を覚えられる典型的な女性は、「相手の立場に立って物事を考える」訓練を普段から意識していないところで積んでいる。一方、権力争いにばっかり熱中して、そういう訓練をあまり積んでいない典型的な男性にとっては、「相手の立場に立って物事を考える」こと自体が大きなコスト
○女性にとってもスーパーマリオブラザーズは面白い。でも、典型的な男性たちほどには狂信的にハマりはしない。
○「全体が見えている」女性にとっては、「権力争いのほうに主眼が移ってしまって当初の目的を見失ってしまう可能性」が男性よりもずっとずっと低い
「俺、専業主夫なんだ。」って胸張って言える度は、「あたし、キャリアウーマンなのよ」って胸張って言える度と、果たして同じか?


(Q2)科学的な議論はときに人を傷つけることがある
(A2)個々人が自分たちの実存を確保するために必要とする際の「宗教」と、「学問的に真摯な態度が追求されるべき場」というのは、異なる次元で捉えられなければならない


(Q3)「科学は善悪を判定できない」と言ってるから、「悲劇」が繰り返されるのだ
(A3)科学が人間を幸せにするためには、科学が発達するだけじゃダメで、新しい科学に対応する新しい科学倫理が存在していないといけない。このバランスが大事なんだけれども、現実には科学倫理が追いついていないことが多い。
国同士がこぞって自分たちの国の科学倫理のレベルを高めることに勤しみさえすれば、科学と科学倫理のアンバランスさに起因する「悲劇」は激減する。


(Q4)人間が関連する学問は、「心」を抜きにしては語れない。
(A4)「心」は難しい。難しい領域が存在していることが、一つの学問が二つの学問に分かれる原因になっている。


(Q5)遺伝子を残す必要はあるの?ないの?
(A5)遺伝子を残すかどうかの自由は本人にあるのだから、残そうが残さなかろうが他の人がその判断の結果を社会的に非難することはできない。そして、社会的に非難することができない以上、「おまえそれは贅沢だろ。」というような言辞は、素朴な個人的感想にとどまるならば全然問題はないですが、それが正義のツラをしてそいつの前に躍り出るようなことはあってはいけない







「すべての人間が遺伝子を残す必要はないが,遺伝子を残す権利は誰にでもある」という道 -諏訪耕平の研究メモ
もしかしたら「子育てという重要で楽しい営みを女性が独占してきた」みたいな話もあるのかなと思うようになってきました。

なんというか、「子育てという重要で楽しい営み」という発想そのものが男性中心社会の思想な気がするんですよね。
古来より男性の役割だった(たとえば狩りなどの)「仕事」だって、すべての男性がやりたくてやってたというわけではないと思うんです。
こに「仕事こそ男の生きる道」みたいな後づけの理屈というかレールを敷いちゃうマインドの持ち方そのものが男性に特徴的な発想な気がするんです。


北杜夫のエッセイ集『あくびノオト』の最初あたりに、
原始時代に或る男が「ここにトンネルがあると便利になるな」とひとたび思い立つと、他のことには思いもかけずに家族のことも子どものことも忘れて何日も何十年も掘り続けて、やっと開通した暁には「やったぞ」という満足感とともにポックリ逝ってしまう、
というような話が書かれていた記憶があるのですが、
そういう思い立ち方って、ふつう女性はしないと思うんですよね。

そういう男性は、悪く言えば、何のために掘っているのかを忘れてしまう愚か者(死んでしまってはそのトンネルの利便性にあやかることはできない。なんのために掘ったのか?)、良く言えば、みんなのために命をかけて尽くしてくれた功労者

ではその、命を削ってトンネルを掘った男というのは、ほんとうに「みんなのことを思って」掘っていたのかというと、それもまた違うでしょう。
なんというか、人工的につくられた利便性にあやかっている時間よりも、便利な環境をつくっている時間のほうが、その男にとっては幸せな時間なんだろうと思うのです。

すでにある利便性にあやかっているときというのは、その利便性がなかったならばどうなるかということに想像がおよんでいないことが多い。
それに対して、便利な環境をつくっているときというのは、いま使われている不便な環境と、自分の努力が実った暁には実現する便利な環境の両方に想像がおよんでいる。
そしてその差が充実感の源泉であるとすると、なぜ男が命を削ってまでトンネルを掘ってしまうのかを、より客観的な角度から理解することができると思います。

でもこの説明は、「じゃあ、なんで女は命を削ってまでトンネルを掘らないのか」ということまでは説明していない。
環境改変型の想像をする力に男女間で差がある、ということなのかな。いや、それもなんか違う気がする。

男が「ここにトンネルがあると便利になるよね」と言い出したとする。その思いには、その側にいる連れの女も同意する。(でも言い出すのはたいてい男な気がする。)
でもそこで、男のほうは「よし、掘ろう」となるが、女のほうはそうならない。

なんでだろう?
女のほうが現状維持的だから、というような説明は違う気がする。男でも現状維持的な人間はたくさんいる。

思うに、女は、「掘るために払わねばならない代償」に想像が及んでいるが、男はそれを忘れてしまいがちなのではないかということ。
「そのほかのことを忘れることができてしまう能力」に男女間で差がある、というか。
それを「女のほうが全体が見えている」と言ってしまえば、そうなのかもしれない。
いつの時代も、大義名分を振り回して自分の言動を正当化するのは決まって男性ですよね。典型的な女性は大義名分を振りかざさない。

全体が見えていない男の利己的な行動が、傍目には利他的な功労者として映ることが有り得る    と。

もちろん、「では女は利他的に振るまい得ないのか」と言われると、そうではないでしょう。
でも、利他的な行動を説明する原理は、男と女で違う可能性がある、ということには、言及しておく価値があると僕は思います。


まとめますと、どうせしなくちゃいけない子育てを、重要で楽しい営みに「仕立てる」ためには、自分に都合よく「一部のことを忘れられる能力」(つごうよく全体が見えないことができる能力)が必要で、そういう能力には男性のほうが秀でている。

だから、もし人間が女性だけで繁殖可能でこの世に男性がいなかったら、子育てや仕事は、重要でも楽しい営みでもないんじゃないでしょうか。それは単に、「生きるためにはやらなくちゃいけないこと」であり、それ以上でも以下でもないと。


でもそれは、女性はこの世に価値を見出さない存在だ、「おもしろき こともなき世を おもしろく」することのできない存在だ、ということでもないと思うんです。

じゃあどういうことなのか。


対象の一部を捨象することで対象について分かった気になるというのは、物理学などに特徴的な発想ですが、女性で物理学科に進む人はとても少ない。
対象の一部を捨象する、というものの見方が苦痛なくできるためには、「何々は見ないことにする」みたいな芸当が苦労なくできることが必要です。
こういう芸当は、最初から全体が見えていて、全体は全体でしかない、と思っている人には苦痛に感じられます。

物理学などの人は、対象の一部を捨象することを「物事の本質を捉える」などと言いたがりますが、ではどういうふうな捨象ができれば本質が抽出できたことになるのかというと、(それは、反証可能性云々というような話ももちろんあり得ますが)制御可能性をどの程度浮かび上がらせることができたかということが大きいのではないかと個人的には思っています。
我々に制御可能な部分と制御不可能な部分との間により正確な境界線を引き得ることが、「その対象を支配した」感を惹き起こすのかなあと。それが「対象のシステム性を理解する」ということなのかなあと。

対して女性は、対象のシステム性を把握することよりも、対象にどの程度感情移入するかということに充実感を覚えやすいのではないかと。
こういう「男=システム、女=感情移入」みたいな二分法は、(科学と倫理を混同している人が、少数派に偏見を向けるのに利用するおそれがあるので)注意しないと危険なのですが、マクロレベルでこういう相関があるということは昔から知られていることなのではないかと思います。
男は「支配」することに満足を覚えるのに対し(「ふはははは、世界は私のものだ」)、女は「共感」することに満足感を覚える(「だよねだよね」「えーあんたもかいな。私もなのよー」「ちょっと奥さん、これ見てみてよー」「ねえ聞いてよ、うちの上司ったらひどいのよ」)。

多くの女性にとって、「子育ては重要で楽しいものでなければいけない」というようなことは「どうでもいいこと」であって、それよりも重要なのは、「子育ての苦労や喜びを分かち合うことのできる仲間がどれだけ多くいるか、どれだけ深く分かち合えるか」なのではないか。そう思います。

そういう意味で、世界征服が夢である典型的な男性は、本質的に孤独な世界を生きているのかもしれません。

初期のファミコンソフトありがちな設定を思い出してみてください。
最初から「王女を助ける」という目標が天下り的に設定されていて、世界征服をたくらむラスボスを倒して世界平和を取り戻せばハッピーエンド。
だが、「世界平和」という自己満足と、「世界征服」という自己満足は、根源的には同一の満足感なのではないかと、私には思えるのです。
初期のファミコンソフトのユーザーは大部分が男性であることも、それを裏づけているのではないでしょうか。

女性にウケるゲームと言われてすぐに思い出すのは「たまごっち」です。あれはなんですか。そう。「子育てゲー」でしょ。それは、世話をすることそれ自体が喜びを見出すゲームであって、「○○っちにする」みたいなことを達成するのが目的のゲームでは本来ないと思うんですよね。だからこそ女性のあいだでブームになった。
男でたまごっちにハマった人のなかには、明確に「○○っち」をつくる、みたいな目標を設定して、そのために戦略的に育てる、ということをやった人がいるかもしれないですけれど、それは男性的な楽しみ方であって、女性の間でブームになったことの理由はそこにはたぶんない。

▼コラム:
こう言うと、たとえば、「徳の高い聖職者が、世界平和を希求する気持ちの根底には世界征服をもくろむ悪者と同じ気持ちがあると言うのか」いうような反論が予想されますが、世界征服という目標が悪者扱いされるのは、「世界征服を果たした支配者は当然に人民を虐げる」という前提があって初めて成り立つものであって、徳の高い人が世界征服をすれば、いくら自分に力があっても、人民を虐げるなんてことはしないでしょうから、むしろそれはいいことで、というかそれが「いい支配者を選ぶ」ということの意味なんではないかとも思うわけです。



「なんで、前者な女性はそれなりにいるけど、後者な男性はそんなに出てこないのか」っつーところに、この問題を解くヒントは宿ってる気がする。
子育てが贅沢かどうかは何を人間らしい行動と捉えるかで決まる @heis.blog101.fc2.com
面白いですね。もし良かったら仮説を聞かせてください。

上で少し触れましたが、男性思想に基づく行動は、傍目には利他的な功労者に映ることがある一方で、残忍で非道な侵略者として映ることもあるわけです。
どちらも、それをやってる本人からしてみれば、「自分の思想に基づく利己的な行動」であることには変わりがないのですが。
その男性の視点に立つ限り、それが外部に良い影響を及ぼすか悪い影響を及ぼすか、はたまたなんにも影響を与えないかは、単に確率的な、偶然的なことでしかありません。

身体の大きな動物が糞をして、その糞が身体の小さな動物の餌になることがありますが、大きな動物のほうも、「小さな動物のために糞をしてやった」とは思っていないでしょう。同じことです。
私たちは、家族であるとか職場であるとか村であるとか国であるとか、一つのコミュニティをつくってそのなかで生きているように思いこんでいますが、傍目には一つのコミュニティを構成しているように見えていても、そのなかにいる一人一人は全然異なるものを見ている可能性があるのです。
(で、その非自明なコンセプトの差異を突くと、コミュニティが自然崩壊する原因になったりする。)

▼コラム:
この際に話の整理ついでに書き留めておこうと思いますが、一口に利他行動と言ってもいろいろな場合があります。
 1)集団遺伝学が考えるような、「自然選択の対象は遺伝子である」という立場から説明される利他行動。
 2)個体は自分の内部にある基準にしたがって利己的に振る舞っているだけなのに、それが結果的に他の個体にとって有益な行動になっていて、しかもそれが一つの人工的な枠組みのなかで再現可能であるような場合の利他行動。
 3)「私は人のためになる」ということ自体に満足感を覚える人がなす利他行動。
ざっと思いつくだけでも三種類くらいはあります。生態系ということを考えるときは2)のケースで、心理学では3)のケースで利他性を捉えている印象があります。経済学ではどうだろうか。いろいろな人がいてどれとは言えない、というような感じである気がするが。


江戸時代の戸籍を見ると、女性は「○○の女房」というかたちでしか記述されていない、名前が書かれていない、といったことがあります。
これを差別と見るのは現代人的な発想です。

もし、これが昔から差別であると捉えられてきているのであるなら、なぜ昔の人は、昔の女性たちは、団結して差別をなくす運動を起こさなかったのでしょう。
これはいろいろな歴史的事情が絡むので、一概に言うことは難しいですが、「戸籍にどう書かれていようが、そんなことはどうでも良かったから」というのが私の考えです。
戸籍に自分の名前が載っていようが載ってなかろうが、それが原因で主人が職を失うわけでもなかれば、子どもが連行されてしまうわけでもない。
戸籍に自分の名前が載っていないことに不満を覚えるのは、名前が載っていることに価値があると認める人の、そういう場所にゲームのフィールドがあると信じている人のプライドや名誉心や勝った感負けた感の問題で、そういうのがない、そもそもそういうリングにあがっていない女房さんにとっては、自分の名前が戸籍に記載されるために努力するのは無意味なことなのです。

でも、自分の主人が職を失ったりだとか、子どもが連れて行かれたりだとか、そういうことが横行すれば、女房さんたちは黙っていないでしょう。そして集会の場で、「お上の胸尺三寸でいろいろなことが勝手に決まることが、私たちの日常生活を脅かしているのだ」という理路に合意が取りつけられると、そういう方向に社会全体の舵が切られるのは、つまり裁量権の配分の有り様が地殻変動的な変化を起こすのは時間の問題でしょう。

「すべての人は生まれながらにして平等であり、いろいろなことをする権利を等しく持っている」という、今日的な考え方は、これまでお上が独占的に握っていた裁量権が、部分的に庶民たち、女性たちに行き渡るようになるいうことの具体的な例だと思いますが、
ここで着眼して頂きたいと思うのは、そういう、かつてお上が独占していた裁量権というのは、それ自体が男性的思想を色濃く反映したものであるという事実です。
これは、政治的な支配体制というものが伝統的に男性たちによって担われてきたことから明らかなことですが、日常生活を守るために手に入れた裁量権は男性思想もセットになっているということに無自覚な人たちは、知らず知らずのうちに、権力争いが大好きな男たちと同じ思想に浸潤されていきます。

いまの時代に「もっと女性の権利を!」というかたちで、女性中心社会の価値観が排除されていく(という皮肉を生む)のは、もともとは女性たちが自分たちの生活を必至で守ろうとしたということがあった(そして今もある)からだからこそと思います。

それに対して、権力争いに熱中している男たちの命やその勝敗やゲームそれ自体が、同じ権力争いのゲームの参加者によって奪取されるということはあっても、家庭で「子育て」や「スーパーや公園での井戸端会議」に熱中している女性たちから、自分たちのゲームの楽しみを妨害されることが「悲劇」を引き起こす可能性はほぼゼロです。

もしこの可能性がゼロではなくてもっと高かったら、これとまったく逆のことが起こるでしょう。すなわち、男性が、権力争いというゲームに熱中す際の妨害要因として女性たちの行動が浮上してきたならば、男たちは、女性たちの言い分に耳を傾けざるを得なくなる。
この場合は、「裁量権の再配分」ではなく、「女性たちの気持ちになってみる」ことが、妨害要因を排除するために必要な選択になってきます。

妨害要因を排除するために取った行動が、「その妨害要因を繰り出している対象の価値観(そのゲームのおもしろさ)に自分自身が浸潤される」ということを経ずして達成されることは有り得ないというところに、この構造の真実のようなものを私は書きながら感じました。

そして、妨害要因の排除に伴って自分自身のかつての思想が浸潤されていることに無自覚でいられるかどうかというところに、「なんで、前者な女性はそれなりにいるけど、後者な男性はそんなに出てこないのか」という、人数の不釣り合いの原因が存在しているように思うんですね。

女性は無自覚でいられるけれども男性は無自覚でいられない。
無自覚でいられないというのはどういうことかというと、自由意思に負担がかかるということです。

共感それ自体に満足感を覚えられる典型的な女性は、「相手の立場に立って物事を考える」訓練を普段から意識していないところで積んでいるために、そのことがあまり苦痛ではないのですね。
これに対して、権力争いにばっかり熱中して、そういう訓練をあまり積んでいない典型的な男性にとっては、「相手の立場に立って物事を考える」こと自体が大きなコストであり、「とてもめんどくさいこと」なのです。そういうことをやっている暇があったら、スーパーマリオブラザーズ的なゲームに熱中しているほうが楽しいのです。

それに比べて、「裁量権の再配分」を実現する過程で新たに女性たちに求められる自由意思上の負担というのは、それほどではないわけです。
分かりやすく言うとね、普段は「たまごっち」に熱中しちゃうような女子高生や主婦さんたちが、男性陣に強く勧められるかたちでプレイしてみたスーパーマリオブラザーズが面白くないかというと、それをプレイすることそのことに苦痛感や負担感を抱くかというと、そんなには抱かないのではないかということです。
女性にとってもスーパーマリオブラザーズは面白いんです。でも、典型的な男性たちほどにはハマりはしないんです。
典型的な男性たちというのは、一度マリオをやりはじめたら、食事も家事も子育ても仕事も全部そっちのけで一日中のめり込んでいるのでいるのではないでしょうか。
それに対して、女性たちのハマり方というのはずっと健全です。「全体が見えている」からです。彼女たちはいくらマリオにハマっても、夕方になれば「ああ、夕飯つくらなきゃ」って思うし、赤ん坊がお漏らししたら「ああ、おむつ変えなきゃ」って思うわけです。
すぐにいまハマっていることから抜け出せるだけの心の準備ができているわけですね。
「そのようなハマり方は真にハマっているとは言えない」と、ともすれば男性たちは言うかもしれないけれども、世の中の人たちがみんな男性的なハマり方をしてしまったら、世の中はまともに回らなくなるでしょうね。

最初の話を援用するかたちになりますが「全体が見えている」女性にとっては、権力争いのほうに主眼が移ってしまって当初の目的を見失ってしまう可能性が男性よりもずっとずっと低いわけですね。そして、それに加えて、権力争いに参加すること自体に負担感がない
この二つが男性の場合のそれとは違うことが、女性が男性中心社会の思想に浸潤されるスピードのほうが、男性が女性中心社会の思想に浸潤されるスピードよりも速いことを規定している、不釣り合いに一つの決定打を与えているわけですね。

いや、分からないですよ。そういう見えているだけかもしれない。ほんとはこの2つのスピードは一緒なんだけれども、前者のほうが表面化しやすい、というだけのことなのかもしれない。

「キャリアウーマン」は社会的に認められるだけの土壌が整ってきていると思いますが、「専業主」はどうでしょうか。
「俺、専業主なんだ。」って胸張って言える度は、「あたし、キャリアウーマンなのよ」って胸張って言える度と、果たして同じでしょうか。

男女平等社会ということをほんとうに目指したいのであれば、こういうことにも目を向けなければ平仄が合わないと私は思います。


うーん,やっぱりちょっとかわいそうかな^^;科学的議論の場であれ,誰かを傷つけるような言説はできるだけ避けたいという思いが僕にはあったりします。

お気持ちは分かります。
実際、人間機械論みたいな考えであるとか、進化論のような考えは、すぐには受け入れられなかったし、猛烈な反発があったわけですよね。

市民感情に配慮しなければいけないのは、それぞれの市民がそれぞれの宗教のなかで暮らしているという前提では当然のことなのですが、だからといって、そのことが「学問的に真摯な態度」を損なうようなことがあるというのも、それもまたなんか違うと私は思うのですね。

なんというか、個々人が自分たちの実存を確保するために必要とする際の「宗教」と、「学問的に真摯な態度が追求されるべき場」というのは、異なる次元で捉えられなければならないと思うんですね。

この二つを分けて考えることができない人は、そういうことが起こりえる分野や知識には首を突っ込むべきではないと思うし、逆に言うと、そういうことが起こり得る知識に手を染めるならば、ある種の覚悟(私はこの二つを一緒くたに考えてしまって傷ついたりしない、という自信)が必要なんだと思います。


そうなんですけど,生態学的妥当性がないように思えたので。勿論仮定の話なんですが,成立しない仮定というのもあると思うのです。

もちろんです。でも、その新しい仮定に基づいて、科学的にいろいろ調べてみるということは、とても難しいのではないでしょうか。
「子どもを産もうとしない女性は存在する」という現象に着目して、これを生物学的に説明してみせるというのは興味深い問いですが、それを達成した記述というのを私は知りません(見かけたら教えてください)。


「不思議なことではない」じゃ駄目なんですよね。不思議なことであってもらわないといけない。で,「科学は善悪を判定できない」とか言ってるからこういうことが繰り返されるのだろうと思うのです。人間がやっている以上,科学(と「研究」をどういう位置関係にするかは難しいところですが)はすべて人間に利するものであるべきで,例えば何千万人も一気に殺すことができる細菌の開発とかは歯止めがかかって然るべきものだと思います。

ご指摘の問題意識はたぶん、「科学者の社会的責任」みたいなことに通じることだと思います。つまり、科学が人間を幸せにするためには、科学が発達するだけじゃダメで、新しい科学に対応する新しい科学倫理が存在していないといけない。
このバランスが大事なんだけれども、現実には科学倫理が追いついていないことが多いわけですね。でその追いつくまでの過程で悲劇が生まれることがあるのだと思います。

このアンバランスが生じるのは、「科学を専業でやる人のためには国はたくさん金をおろすけれども、科学倫理を専業でやる人のためにはあまりお金を降ろしていない」ことが一番でかいと思います。

なんで科学倫理にお金を降ろさないのかというと、答えは簡単で、金にならない(と考えられている)からです。要するに国の経済問題です。
そもそも科学に国が大金を降ろすようになったのは、軍事と国防、要するに戦争に備えてのことで、つまり戦争に役立つからというのが最初で、現在では国際的競争力、つまり「国が文化的経済的に強くなるから」(※)という名目があるから科学者たちはなんとか専業でもやっていけるわけですね。
※文化的に強くなることは、国のイメージが良くなるなどの仕方で最終的には経済的に強くなることを意味する。

あと、「科学のことをちゃんと分かったうえで倫理をやる人」というのがとても少ないことも原因していると思います。文学部や法学部出身の人たちが、「理系のことは苦手なので…」で許されてしまう風潮もこのことに拍車をかけているでしょう。

結局、「科学のことをちゃんとわかった上で倫理をやる人」を育てるための社会的コストがとても高いこと(専業の科学者はどうしても「科学>科学倫理」になりがち)、科学倫理を専業でやろうとしても就職先がほぼゼロで経済的に割が合わなさすぎること、この2つが、アンバランス性の原因を構成していると思います。

こういった問題点が解決されるためには、「科学倫理をやる人が国内で増えることが、結果的には国力を高めることになるのだ」という知識が広く全世界のエリート層に膾炙して、その思想が一種のカッコよさを獲得する必要があります。
つまり、国同士がこぞって自分たちの国の科学倫理のレベルを高めることに勤しみさえすれば、科学と科学倫理のアンバランスさに起因する悲劇は激減するはずなのです。


例によって勉強不足なので言いづらいですが,それでいいのかなあ?と思ってしまいました。経済学とかも,心の存在を仮定しなかったために今回の経済危機が起きたとか言いますよね。

経済学が不完全なのは仕方のないことです。「そういう学問」なのですから。経済学にニュートン力学と同じくらいの完全さを求められると期待するほうがおかしいと思います。

心の存在を仮定しなかったためかどうかは分からないです。
心というのは直接計測することが不可能な対象なので、これを科学の俎上に乗せることはものすごく難しいわけです。
こういう「難しい領域」が存在しているとき、学者は二派に分かれる傾向があります。すなわち、「その難しい部分を避けて仮説を組み立てようとする」派と、「その難しい部分になんとか挑もうとあがく」派の二派に。
そして、この二派のうち、どちらが学問として優れているとか、そういうことを言うことはなかなかできるものではないと思います。

いま気づいたことなんですけれど、「難しい領域が存在していることが、一つの学問が二つの学問に分かれる原因になっている」ということはあると思います。
なかなか倒せないボスがいるときに、「なんとか倒そうと頑張る」派と、「そのボスを倒すことは諦めて別の道を探す」派に分かれるようなものですかね。


人間が絡む研究で,心を無視したらそれは机上の空論になってしまうのではないかという思いがあります。

机上の空論になるかどうかは、その分野の最終目標がなんであるかによると思います。
心とは何か、なぜ心が存在するのかを説明することが最終目標であるなら、心を無視することは許されないと思いますが、「なぜそのように振る舞うのか」が説明されることが最終目標である場合には、「心が存在していること」は必ずしも必要なことではないと思います。


さて,僕としては心から楽しんでいるのですが,端から読むと議論が拡散しているようにも見える

一見拡散しているようにみえる話のなかに実はつながりがあるというパターンが僕は一番好きです(笑


僕が今回の議論で一番知りたかったことは,「女性は子どもを産まないといけないのか?」ということと,「子育ては贅沢なことなのか?」の2点でした。

「何々しないといけないかどうか」とか、「何々は贅沢なことなのかどうか」という問いは、すべて倫理的な問いであり、科学的な問いではないのではないかという気がします。
(厳密なことを言えば、贅沢かどうかについては、効率性が定義されていれば「無駄が多い=贅沢だ」みたいな議論は可能な気がするので、科学的で有り得るかもしれません。贅沢という言葉の定義問題かもしれませんが。「贅沢なことなのかどうか」という問いかけが最終的に期待しているところのものが、「贅沢なことはいけないことだよね」というような価値観を含んでいるのであれば、それは科学的な問いではなく倫理的な問いでしょう。そしてこの場合は、「含んでいる」と思うので、倫理的な問いでしょう。)

一応ぼくの意見を述べておくと、
「女性は子どもを産まないといけないのか?」→いけないということはないんじゃない? 産みたくなかったら産まんかったらええやん。でも、「産みたいのに産めない」とかだったら話は別。
「子育ては贅沢なことなのか?」→贅沢ではないと思う。
です。


前者については,僕はやはり「子どもを産まない女性もいるし,遺伝子を残さない男性もいる」という「現象」から始めてみたいという思いがあります。

チャレンジャーですねー(笑)
いや、諏訪さんがどういう視点から切り込もうと考えていらっしゃるのか分からないのであれですが、もし、科学的な立場から切り込むことを志されているのでしたら、僕は素直にそれを応援したいと思います。(←嫌みではありませんよ(笑) 念のため)
これはとても難しい問題だと思うので、「解ける」ところまで行ったらそれはすごすぎると思いますが、「何が解くことを難しくしているのか」についてのヒントが得られるくらいのことはできそうな気がしますので。


今回の議論を通して思ったのは,「人間以外の生き物においても,遺伝子を残そうとしない個体は存在するのではないか?」ということ。人間だけがそう特別なものでもないでしょうし。

そう。「人間だけが特別な存在ではない」という視点は、人間に関連する問題を科学的にやっつけようとする際にはとても重要なことで、ここが、個々人の実存を確保している「宗教」と、まっこうから対立するということが、しばしばあるわけですね。


ただ,ある程度ロジックがないと,「人が何と言おうと自分は自分」ではうまくいかないこともあると思うんですよね。だから,「子育ては贅沢な行為で,ある程度生活に余裕がないとしちゃいけない」と思っている人にも納得してもらえるようなロジックが欲しいという感じですかね。

「子育てが贅沢な行為」という考えは、上でさんざん述べてきた「男性的思想」に基づく考えだと思うんですよ。つまり、「男たるもの、家庭を顧みないくらいがちょうどいいのだ」的な思想。
太古の昔、家庭を顧みず仕事に熱中する男性がいて、その男性の権力がたまたまでかかったとか、そういう男性がたまたま多数派であったとか、そういう理由で、「自分たちの行動を正当化する理屈を後づけ的に考え出した」というのが実際的なところなのではないかと私は思っています。
実際、その男の家族にわんさかお金が入ってきたり、最初の例で言えば、トンネルが開通して行き来がしやすくなったとか、そういう男の仕事への熱中が社会に貢献するということあるので、後づけの理屈もなまじ悪くないという感じになってくる。(でも、悲劇もあったりする…。)

だから、子育てが贅沢な行為だというのは行き過ぎた男性思想だとは思う。でも、だからといって、子育てをしなくちゃいけない分ハンデがあるということを仕事ができないことの言い訳として利用するようになっちゃったらそれまでではないかという気もします。

なんというか、子育ては贅沢だと思っている人に納得してもらうには、そう思っている人と十分に議論を重ねる以外にはない気がしますけど、どんなもんでしょうか…。


考えてみると,この2つの疑問は多分かなり強く相関しているんですよね。つまり,前者の疑問は,女性に限らず言えば,「人間は遺伝子を残さないといけないのか?」ということ。

これもやや繰り返しになりますが、残さないといけないということはないでしょう。残したくなかったら残さんかったらええやん。でも、その話と、「そもそも人間は、遺伝子を残してしまうようにできているのか」という話はまた別です。


で,後者は,「遺伝子を残すということは贅沢な行為なのか?」ということ。「必ずしも遺伝子を残す必要はない」とすれば遺伝子を残そうとすることは贅沢な行為であるのかもしれませんが,

Why?
「必ずしも遺伝子を残す必要はない」というのは、「遺伝子を残すかどうか、つまり子どもを産むかどうかの自由は個人にゆだねられるべきことであって、その自由は他の何人も奪うことができない」という、倫理上ないしは法律上の文言に過ぎません。

そして自由があるというのはどういうことかというと、「そいつがどちらを選ぼうが、他の人間はそいつの判断の結果に対して非難をぶつけることは許されない」ということです。

もし、「え、なに、産む? そんな贅沢が許されると思っているのか!」という叱責が正義として通用してしまうのであれば、それは「そもそも産むかどうかの選択の自由は本人にはなかった」ということです。

なんというか、「必ずしも遺伝子を残す必要はない」という表現の多義性が論点の混乱と混同をもたらしているように思います。
つまりこの表現を、
「産んでも産まなくてもいい」→「産むかどうかの自由は本人にある」と解釈するか、
「産んでも産まなくてもいい」→「産むことはコストなのだから産まないべきだ」と解釈するかの違いですか。

ぼくは前者だと解釈してしまいましたが、諏訪さんは後者のように解釈されていたようですね。
一人の人間の一生というところに焦点を当てれば、確かに産むことはコストですが、人間社会の存続(家族の存続でも国家の存続でもいい。規模は問わない。)というようなことを視野に入れると、産むことは必ずしもコストではありません。むしろベネフィットです。


「必ずしも遺伝子を残す必要はない≒遺伝子を残すという行動は贅沢行為」というのは僕の先輩方の立場で,「遺伝子を残さないといけない≒贅沢行為ではない」というのがheis101さんの立場かな(ここ,かなり慎重に書いているつもりですが,誤解を孕む書き方をしてしまっていると思います。ご指摘ください)。

ぼくは「残さないといけない」とは言ってません。
「残すかどうかの自由は本人にあるのだから、残そうが残さなかろうが他の人がその判断の結果を社会的に非難することはできない。そして、社会的に非難することができない以上、「おまえそれは贅沢だろ。」というような言辞は、素朴な個人的感想にとどまるならば全然問題はないですが、それが正義のツラをしてそいつの前に躍り出るようなことはあってはいけない」と言っているのです。



コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/178-a2ade898
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。