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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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諏訪さん、さっそくの反応をありがとうございます。

子育ては贅沢? - 諏訪耕平の研究メモ
大変興味深い言説ではあるけども,ちょっとかわいそうかなという印象を持ちました。つまりね,今までの価値観の中で,男女が平等に楽しい思いもつらい思いもしてきたのであれば,社会の改善は,それもまた男女平等に行っていけばいいと思うんですよ。

結局、なにが平等じゃないかというと、「仕事したいのに子育てという足かせがあるからうまく仕事ができない」という女性の数と、「子育てしたいのに、仕事という足かせがあるからうまく子育てができない」という男性の数が同じじゃないことが平等じゃないんだよね。
「なんで、前者な女性はそれなりにいるけど、後者な男性はそんなに出てこないのか」っつーところに、この問題を解くヒントは宿ってる気がする。

でも実際は,「仕事>子育て」という感覚はあるように思うんですよね。「仕事<子育て」よりもね。

これは、ぼくがすぐ上で言った「前者な女性の数と後者な男性の数が釣り合わない」ということと同じことを指しているのだと思います。


僕なりになぜこういうことになるのかということを考えてみると,仕事をしないと死んじゃうけど,子育てしなくても死なないというのがあるのかなと思ったり。「子どもを産まないことを決意した女性」なんてのはまさにこれですよね。仕事をしないことを決意できるわけじゃなし。そんなことを考えてみたときに,「子どもを産むってどういうことなんだろう?」と思ったんです。

「子育てをしなくても死なない」っていうのは、ぼくらの日常的な実感からすると当然のようだけど、心理学的にというか生物学的にというか、学問的に考えると、これは当然ではない気がするんですね。


たとえば、動物には三大欲求というものがあって、そう、睡眠欲と食欲と生殖欲。でこの生殖欲のなかには、単に異性と交配したいという欲求だけでなく、交配後に生まれてくる子どもを育てたいという欲求も含まれているのではないかと。

生殖欲というのは結構よく分からん欲求で、睡眠欲と食欲は定期的に満たさないとすぐに健康に支障をきたすわけですが、生殖欲は満たさなかったからといってすぐに健康に問題が出るわけではない。

仮に、生まれてから死ぬまで、異性との接触やその想像と言った「発情を促す要因」にさらされることがなかったとすると、その個体は一生生殖欲求というものを実感することなく死んでいく、ということになる。

もうだいぶ前ですが、音楽を聴いて感動しているときに、情動が揺れ動いているときに満たされている欲求は生殖欲が変化したものであるというような話を聞いたことがあります(かなり怪しいうろ覚えな情報)。音楽を聴いて感動しているときと、情交しているときとで、脳活動パターンにおける類似が見られるのであれば、「そういうこともあるかもね」って思えるんですが、実際のところはどうなんでしょうね。


話がいろいろ飛んじゃいましたけど、「成人まで健康的に生きられる子を残して初めて親の役割は終わる」という生物学的な個体観からすると、「子育てをしない人間は死んでいるに等しい」とも言えるのではないかと。
つまり、学問的には「死亡」に等しい扱いなのだが、本人は「生きている」という実感というよりも錯覚のなかで幸福に一生を過ごす、ということがあり得るのではないかと、こう思うわけです。


そして,その先輩方いわく,「本気で研究者になりたいなら結婚とか子どもとかは諦めろ。そういう先輩は大勢いる」と言われて,そこで「ん?」となったんですよね。このロジックって,結婚とか子育てとかは僕にとって贅沢な行為だというようなものだと思うんですが,そうなんだろうか?と思ったのです。ある仕事をやっていくために結婚とか子育てを諦めるという考え方があるとしたら,人間って何のために生きてるんだろう?仕事するため?みたいなことを思って,それで今回みたいな関心が生まれてきたのだろうと思います。ちなみに,丁度昨日読んだ小林よしのりさんの記事で,あの方が30年間現役で漫画を描き続けてこれたのは,「子どもを諦めたということも大きい」というようなことを書いておられました。そういう考え方は結構あるんだろうなと思うんですよね。子どもを産み育てるって贅沢な行動なんだろうか。

これは、クオリティ・オブ・ライフ、つまり何を人間らしい行動と捉えるかで贅沢かどうかが変わってくる気がします。
家庭も顧みず、寝食を忘れて仕事に励み、不摂生がたたって早死にした人がいたとする。そういうのを、「それはいくらなんでも人間らしい生活とは言えないだろ」と捉えるか、「いや、本人が好きな仕事に熱中していたんだからそれでいいんじゃないの?」と捉えるかの違いというか。ここで、「ほんとに好きだったのかな、仕事。」というような疑問もあり得ます。

何を人間らしい或いは自分らしい行動と捉えるかという「軸」を持っていれば、はたから多少野次が飛ぼうとも、その人は人間らしく生きてるのだと僕は思います。
でも、そういう軸がないと、歯止めが利かなくなるのでヤバいと思います。


ここ面白いですね。経済学でもこういうこと言いますよね。経済学的に確実に勝てる方法を見つけたとして,それを広めてしまった時点でもうその方法は必勝法ではなくなるというやつですか。つまり勝ち続けている人は人が気がついていない何かの方法を使っているはずで,公刊されているものはすべて本当の必勝法ではないということですね。

新しい情報が手に入ることで、これまでに通用していた戦略や法則が通用しなくなる、という点では、同じかもしれません。
戦略格差、或いは情報格差が存在していることに依拠している必勝法は、情報格差がなくなった時点で必勝法でなくなるのは必至です。
僕の言った「自分たちの行動を制限している法則」を真に見つけることがいかに難しいかということは、「研究者自身もまた動物である」という、自分自身を説明するモデルを自分自身がつくる、ということに由来しています。
なんというか、「新しい情報が手に入ってもなお、それ以前につくった法則の正しさがゆるがない」というところにもっていくためには、ある種のテクニカルな仕掛けが必要なんだと思います。


例え話として出されたんでしょうけど,これはちょっと違和感。子どもを産むことを諦めた女性の多くは言うまでもなくこういう感覚ではなく,やむにやまれぬ事情を持ってのことだと思うので。まあそれはいちゃもんに近いような気もしますが,ただ,今回の件は生物学的理論が先にあるのではなく,「子どもを産もうとしない女性は存在する」という現象が先にあるように思うんですよ。ここどうなんだろう?

ぼくがした話は、「自分自身を説明するモデルを自分自身がつくる」という側面があることが、正確な法則をつくることを難しくしている、ということであって、現象が先にある場合の話はしてないですね。


ダーウィンやハミルトンの時代には,子どもを産まない女性っていなかったんですかね?もし普通にいたとしたら,「すべての生物は自分の遺伝子を残そうとする」とか言っちゃったら,「いや,私子ども産んでないよ?」ってことにならないのかな。

いや、いたと思いますよ。たとえば、いまから何千年も前であっても、生まれつき遺伝的な病気で子どもが産めない女性っていうのがいたわけじゃないですか。身体障碍者とかもね。で、彼らは決してすぐに殺されてしまうわけではなく(殺されてしまうこともあったかもですが)、彼らなりにできる仕事をしていた。或いは、彼らだからこそできる仕事というのもあるかもしれない。

そういう状況のときに、ある健常な人が、まったく自分の嗜好上の問題で、「あの身体障碍者たちと同じ仕事がしたい」と言い出したとする。文化によっては、「そういうことはできない」と返されて諦めざるを得ないこともあるかもしれないけれど、文化によっては、「いや、やりたいんならやれば」という感じで、寛容な場合も或いはあったかもしれない。

「産めるのに産まない女性」というのは、「身体障碍者じゃないのに身体障碍者の人たちがしている仕事と同じ仕事をしている人」というのと同じ構造があります。
「産めるのに産まない女性」というのは、「産めるのに産まない」という選択が可能であることに想像が及びうることと(これは、例えば、遺伝的な病気で産めない女性がいて、その女性が一般の女性とは違う特別な扱いを受けたときなどに、その確率は増大するもの思われる)、「産めるのに産まない」という選択を許容する文化があるということの二つの条件が揃って初めて可能になります。


それでね,怖いのは,そういう女性を生物学的におかしな存在とみなすことだと思うのです。

歴史的に見れば、優生学に代表されるように、生物学が原因で多大なる惨禍や人権侵害が生じた例はなにも不思議なことではないですね。
だから、そこは今も昔も、気をつけなくちゃいけないところだと思います。

よく言うのが、「科学は真偽を判定できるが善悪を判定できない」ということです。ここを混同しちゃう言説が今日でもなお多い気がします。


うーん,なるほどと思いつつちょっとピンと来ないのでもう少し勉強させていただきます。ここ今回僕も悩んでいるところで,人間は子どもを産みたがる生き物なのか,子どもを産むようプラグラミングされている生き物なのかってとこかなと思います。ここの混同は衝突を生むでしょうね。でも,個人的には,本能とかいう説明は怪しい気がしています。ある意味で何も言っていないような気もするし。臨床心理学的にはすべての人間の行動は「強化子」を伴っていると解釈する場合がありますよね。あんな感じ。そして,動物にも強化子ってあるんじゃないかと思うわけです。

集団遺伝学では「心」の存在というものを仮定しません。心があろうがなかろうが、集団遺伝学の理論に影響はないのです。これは、行動主義心理学でも事情は同じではないかと思います。

あと、強化子については、ベイトソンの学習理論というのが話を整理するうえで参考になるかなと思っていて、こことかこことか、とりあえず記事をクリップしているのですが、まだちゃんと読めていなかったりします(汗



いや,勉強になります。
ここ面白いですね。
 これは存じませんでした。勉強不足です。ご指摘ありがとうございます。

お役に立てて幸いです。よろしくお願いします。


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2009/06/25(木) | タカマサのきまぐれ時評
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