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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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サラ・ハーディー『マザーネイチャー』 - 諏訪耕平の研究メモ
彼女が研究者として歩き始めた1970年代,アメリカはまだまだ男性中心社会で,「女性は子どもを育てていればいい」というような風潮があった。そのようなある意味で女性軽視の風潮は近年徐々に改善されてきているが,それでもまだ,女性が社会において活躍していこうと思うとき,子どもに関する問題は深刻だ。
どうしても一時的にキャリアを中断せざるをえないし,2人目,3人目と産んでいこうと思うと,男性に比べて負担は膨大である。ここらへんで,「女性とは何か」という問題と向き合わないといけないとハーディーは言う。

本題とはまったく関係がないが、気になったので突っ込んでおく。
なんというか、フェミニズムの先頭を行くような言辞で非常に違和感を感じるわけなんだけれども。

私の言いたいことがよく伝わるように、上の文章を参考に、次のようなことを言ってみる。


アメリカはまだまだ女性中心社会で、「男性は仕事をしていればいい」というような風潮があった。そのような意味での男性軽視の風潮は近年徐々に改善されてきているが、それでもまだ、男性が社会において活躍していこうと思うとき、仕事に関する問題は深刻だ。
どうしても一時的に子育てを中断せざるをえないし、2人目、3人目を育てていこうと思うと、(仕事という義務がない)女性に比べて負担は膨大である。ここらへんで、「男性とは何か」という問題と向き合わないといけないと誰々は言う。


いかがだろうか。
引用元では、「社会」という言葉が「主に男たちが仕事というフィールドで活躍する場所」という意味で使われているのに対し、私は意図的に、「主に女たちが子育てというフィールドで活躍する場所」という意味で使っている。

そう。社会が○○中心社会であることにより困難を強いられているのは何も女性だけではないのだ。

女性が、主に男性たちが活躍するフィールドである仕事というフィールドで男性たちのなかに混じって活動していくことがいろいろと困難であるのとまったく同じように、
オバちゃまたちがペチャクチャしゃべりあう社会というものに男性諸君がすんなりととけ込んでいくことは実は結構難しかったりする。

仕事というのは重要な価値であるが、子育てというのまた、これに負けずとも劣らない重要な価値である。
これらの価値は、両方とも、人間社会を構成し維持していくうえで不可欠な価値であり、どちらが偉いとか、どちらは軽んじてもいいとか、そういうことはないはずである。

であるのに、仕事の価値がつねに子育ての価値に優越するかのような筆致を自明なものとして用いることは、それ自体が、男性中心社会の権化である。
つまり、「私もバリバリ仕事がしたいのに、子育てをしないといけない分ハンデがある」と、自分の不利な立場を主張するキャリアウーマンは、男性中心社会の排除に努めているのではなく、「子育ての価値に仕事の価値が優越するということに合意している」という点において、男性中心社会を擁護し、女性中心社会のほうをこそ排除しているのである。

社会といえば男社会のことを指すということを自明なものとして受け入れているその心情にこそ、男性中心社会をつくりだす火種は宿っているのである。

歴史や社会科の授業では、統治機構や政権担当主体の推移と言ったことに重点が置かれる傾向があるが、男女という視点で見た場合、人間の歴史はそのまま男性の歴史を反映しているかのように見える点が、「社会と言えば男性社会だろJK」なる錯覚を引き起こす原因にもなっている気がしないでもない。
女性たちがどのようにたくましく生きてきたかというところにももっと歴史の光はあてられてもいいのではないかと思うのだが、まあ難しいだろう。
社会科の授業が改正されるべきだとは思わないが、私たちはもっとこの手の錯覚に自覚的であるべきなのではないだろうかということはやはり思う。


サラ・ハーディーは「子殺し」について研究してきた。ラングールというサルは子どもを殺すという行動で有名であるが,ラングールに限らず,ライオンも,チンパンジーも子どもを殺す。チンパンジーにいたっては殺した子どもを皆で食べてしまう。ある研究者は,チンパンジーが生きながら子どもを食べている様子を目の当たりにしたそうだ。子どもはうめき声を上げていたそうである。

きゃー


この子殺しであるが,ハーディーは母親の「トレードオフ」のひとつであると言う。最終的には生き物の目的は自分の遺伝子を残すことにあり,ある子どもを生かすために,邪魔な子どもを殺す。

つまり「間引き」ですか。


ラングールは,ハーレムを形成する。ボスが代わるとき,前のボスの子どもが殺されるのだ。

そういうのは別に動物に限らず人間でも、長い歴史のなかではそれに類比せられることはやってきたわけであって、不思議ではないんだけどなー。
「おじろくおばさの話を読んで」の話とも関連するんだけども、利用可能な環境資源がかなり限られていることが分かっている状況下で子どもを無制限につくることが望ましくないことは明らかだ。そういうときに、子どもが無制限にできないことが結果的に帰結されるような仕組みが作動するようようになっていることは十分に考え得ることで、問題は、その仕組みがどこにセッティングされているのかということ。
これを説明する仮説は大きく分けて2つあると思うんだよね。
個々人が共通に認識している対象(「集団」と呼んでいい)が存在するかどうか。
「いやそんなん存在するだろJK」って言うかもしれないけれど、我々はあくまで外部からの観察者であるという仮定からは、もしかしたら「あたかも各個体が共通に認識している対象があって、それが各個体の振る舞いを統御しているように見えているだけ」という可能性も否定することはできない。
そして、「集団」という抽象的な概念を把握してその存続のために行動するっていうのは、人間の幼児や少年にとってさえ必ずしも簡単なことであるとは言えないわけで(だよね? ソースがあるとよりはっきり言えるのだが)、そういう意味からは、「あくまで各個体に見えていてその各個体の行動に影響を及ぼしているのは、その個体のすぐそばにいる個体の存在や行動のみであって、集団全体ではない」と考えたほうが自然である気がいまのところはする。

補遺:
ハミルトンの法則C<BRの枠内で言えば、血縁係数Rの構成要素が「集団」依存的かどうかという話でもある。


では,自分の遺伝子を残そうとしない女性(これは男性にも言えるだろう)はどういう存在なのか。生物学はこの現象をどう説明するのか。

人間のなかには、自分の行動を制限している法則みたいなものを発見すると、「じゃあその法則を破るように行動してみたらどうなるのか」ってことに興味を持つ奴が必ず出てくる。
「すべての生物は自分の遺伝子を残そうとする」と生物学者が言うと、「へへーん。俺、残そうとしてやんないもんね。さあどうする?俺の遺伝子は残んないよ。子どもに引き継がれないよ。あんたの仮説間違いなんじゃねーの?」って言って、その学説の反例を自らの行動で示そうとする奴が必ず出てくる。
このいけずな反論に対抗するためには、法則自体が、個人の自由意思に基づく行動の可能性の範囲そのものを内含するように構成されていなければならない。
ところが「遺伝子を残そうとする」系の仮説を指示する観察事実や実験はだいたいが、ヒトではない実験動物を対象として行なわれているために、自由意思というヒト固有の要素が絡んでくる内容を法則に盛り込むことが難しい。

サラ・ハーディー『マザーネイチャー』の中では、このいけずな反論に対抗できるだけの力を持った仮説が提示されているのだろうか。


僕自身の仮説としては,「生物は本能的に遺伝子を残そうとするという考え方がおかしい」というもの。人間は人間以外の動物とコミュニケーションを行う術を持たないので,彼らの行動から彼らの意図を理解するしかなかった。その結果,すべての生物は本能的に遺伝子を残そうとするという考え方に至った。しかしこの前提を否定する存在は,ほかならぬ人間自身であった。生物学的な知識はほとんどないので骨董無形なことを言っているのかもしれないが,現段階では僕はこういう関心を持っている。

ハミルトンの法則やそれを含む集団遺伝学は、動物の意図を人間が勝手に想像することに依存しない理論体系を築いているので、その心配は無用である気がする。

「遺伝子を残そうとする」という言い方は、遺伝子を持つ個体の視点に内在化した言い方なので、直観的な理解を促すために比喩的に用いられることはよくあるが、学問的にはあまり望ましい言い方ではない。「自然選択の対象は遺伝子である」と言えば、内在化の必要はなくなる。


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