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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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作業が目的化する陥穽 - 考えるのが好きだった
敷衍化すると、なんであれ作業の目的が何であるかを作業者がどれだけ理解し意識しているかということだ。

「引き継ぎ」後に陥りがちな陥穽だよね。
十分な「引き継ぎ」をするのはとても難しい一方で、引き継ぎの漏れや齟齬は必ず手段の目的化を生むというジレンマ。
いっそ引き継がなくてはいけない事態そのものをなくせないものかとか思う。

「引き継ぎ」が不正確にしかできないのには、根源的には、人間の処理能力不足orその不足を補う外部装置が存在していないことにあるわけで、そういうのを補う外部装置が発明されるまでは、「全員がゼロから組織や部門を起こす」くらいの気持ちでやったほうが、世の中は健康的に回るのではないか。

考えてみれば、言葉がない時代、いや、言葉がないまでいかなくても、例えば書き言葉がないだけでも相当なハンデだし、そういうハンデがある状況下では、引き継ぎなんてことを1日とか1ヶ月とかでパッパッとできると思いこむこと自体が不遜なわけで、老人の経験的な技術や匙加減を若者が「引き継ぐ」には、それこそ、生涯をかける覚悟が必要だったはずだ。

たとえば会社や役所などでは、二三年でいろいろな部署をくるくる回るということを社員にさせる。そのときに、移動する際にはどうしても「引き継ぎ」が必要になるが、その「引き継ぎ」にどれだけの時間と労力を割いているだろうか。
ともすれば現代人は、書き言葉やマニュアルの存在のうえにあぐらをかくことで「引き継ぎ」をナメすぎているのではないだろうか。

そもそも引き継ぐことはとても難しいのだ。一生掛かっても完璧に正確には引き継げないものなのだ。そこに立ち返る必要性を強く感じる。


作業には、常に「目的」と「手順」が存在する。それで、作業には、今どきのとこだから、一般に「マニュアル」が想定されるだろう。それで、「マニュアル」の多くは、作業の手順、「こういうときには、このようにする」と言う記述になる。その際、「これこれしないように」あるいは、「これこれになるように」という文言が付いたり付かなかったりするかもしれない。これは、作業の注意事項であるが、「目的」に関わる内容である。

マニュアルって基本、作業手順が書いてあるだけで目的は書いてないんだよね。
よしんば書いてあったとしても、目的の範囲内で作業をどれくらい改変してよいかまでの記述はないことが多い。

もし、目的の範囲内で作業手順を自由に変更してよいのだとすると、絶対に必要なのは目的だけであって、作業手順の記述はいわば「たたき台」に過ぎなくなる。

しかし、「目的の範囲内でなら自由に作業手順を変更していいですよ」ということが十分に合意されているようであるマニュアルというものを私はほとんど聞いたことがない。
マニュアルというのは、その言葉の成立経緯はどうあれ、現状では「手順通りやるためのもの」として存在しているのではないだろうか。
つまり、マニュアルというのは、「目的が分からなくても一応サマになる、かたちになる」「目的を理解できない人間でも一応はできる」ために存在している。

例えば、チェーン店では、マニュアルを通じて手段レベルでの縛りをかけることで共通のブランドを実現している。

しかし、本来、ある目的をどういう手段で達成するかは、完全に個人の技量に任せられるべきことだし、任せたらそこでは必ず個性が発揮され多様性が出現するので、共通のブランド性が成立するなどということは有り得ない。
つまり、手段レベルで縛りをかけるということ自体、個々人の健康的な知性の用法を侵害することに他ならないのである。

こう言うとあたかもチェーン店が悪者であるかのようだが、必ずしもそうではない。
目的が漠然としたものであれば手段の多様度は上がるが、目的が矮小であれば、個性が発揮されたところで多様度はたかがしれている。
つまり、共有すべき目的が、多様度がたかが知れている程度におさまるくらいの漠然性しか持たないようなものばかりであれば、どれだけ個性が発揮されても手段は似たり寄ったりのところに収斂するということである。

だが、そういう非漠然的な目的群を十分に仲間たちと共有することは容易なことでないことも確かだ。
十分な議論と、「コイツは俺の考えてる通りのことを考えてる」と全員が心の底から確信できていることが必要だ。

そこを怠ると、或いは十分でないと、目的を放棄せざるをえなくなってくる。目的に依拠することができないから、手段に依拠せざるをえなくなってくる。これが俗に言われる「手段の目的化」である。

手段の目的化が生じてしまいやすい理由の一つはまあザッとこのようなカラクリによるのである。



言い換えると、ある作業---仕事でも何でもいい---をするとき、人の目的が「作業をすること」そのものになってしまいがちでないのかということである。

これは、仕事としてみたら本末転倒だが、この本末転倒な事態を合理化する装置が存在する。

それは伝統である。

あらゆる作業が、「死んだ親父がやっとけって言ってたことだから」という理由で納得される。

伝統とは、「手段の目的化」という本末転倒な事態を整合的に理解するために発明された概念である。


「マニュアル」は、能力が乏しい人でも失敗が起こらないように作業させるためのものであろう。本当に間違いを防ごうとするためには、マニュアルはどんどん細かくなる。

マニュアルというのは、いつでもどこでも同じ動きをさせるために存在している。
例えば、センター試験において、ある微妙な容態を呈している受験生にどういう対応をするべきであるかとか、不測の不可抗力的事態が生じたときにどういう対応をするべきであるかなどといったことは、仮に同じ矮小な目的群を十二分に共有していたとしても、個人によって判断が分かれるということが十分にあり得る。

それが、商店街の裏通りにある、昔からの地元密着型の喫茶店で菓子を食べているようなのんびりした状況であれば、そのような「個々人による判断の違い」は問題にならないが、センター試験のようなピリピリした状況下においては、「いかなる不測の事態に対しても、同一の状況においては同一の対応がなされなければならない」という、かなりかなりそれはそれは理不尽かつ無理難題な要求が全国の大学にくだっているがために、非知性的な振る舞い(完全にロボット的な振る舞い)をしなくてはいけなかったりするのである。

これを別の側面から見れば、消費者が公平性・公正性ということを極度に要求した結果であるとも言える。
ところが、厳密には、完全な公平性・公正性の実現など有り得ないわけで、消費者はどこかでごまかされているのである。どこかでごまかされているにもかかわらず、それが極限的にまで追求されなければいけないというのは不自然かつ滑稽な事態であるが、同様の事態は、政治的意思決定の場においても言えることである。
投票日に雨が降っているか晴れているかだけでも選挙結果に影響が出る現状の選挙制度のどこが公平的・公正的であるのか、冷静に考えれば理解に苦しむわけであるが、それでも、「何某かの公平性が担保されている」ということに依拠しなければ我々の自由意思は発狂してしまうということがあるがゆえに(ほんとにあるのかどうか知らないけど)、一定の虚構への合意ということがどうしても必要になってくる。
世の中にはどこにでもずるがしこい奴というのがいて、連中はより自分に有利になるような虚構が選択されるようにその合意を戦略的に操縦するわけであるが、
連中の卑劣な行ないを曝露した結果、依拠先を失って発狂するのと、
連中の行ないには目をつぶった上で、所詮は矛盾を含みまくりな虚構のうえに成立する公平性が実現されるべく意識リソースを傾注するのとどちらのほうがいいかという究極の選択の問題になってくる。
このどちらがより私たちにとって望ましい選択なのか、その答えを私はいまは知らない気がする。


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