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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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Thu090604 復習ってどうやるの? 音読ってどうやるの? とにかく問題を解きたまえ - 風吹かば倒るの記 /今井宏 /ウェブリブログ
夏休みに一番いいのは「1学期のテキストを復習」とか「模試の復習」とか言われても、「復習って、どうすればいいの?」ということが問題になるようである。最近は「勉強法」「学習法」ブームだから、どんなことでもその方法を詳細に教えてもらえると考えている受験生が多くて驚かされる。「英語は何より音読が効果的」と授業で発言すると、すぐに受験生たちからたくさんの手紙が来て、「音読って、どうすればいいんですか」「音読の方法を教えてください」ということになる。どうもこうも、「音読=デカイ声を出して英文を読む」だから、それ以上別に何もないのだが「何に気をつけて読むんですか」「意味を考えながら読むんですか」とか、とにかく何でもいいからアドバイスを欲しがる生徒が多い。そんなことは当たり前で、意味を考えながら読むに決まっている。意味を考えずに声を出しても、そんなのは英語で騒いでいるだけで何のプラスもない。

勉強法がブームになるのは、勉強法がブームになることができるだけの余裕が、社会や家庭などの側にあるからだと思うんだな。
いまではちょっと大きめの本屋に行けば受験参考書がベストセラー本と同じくらいうずたかくたくさん積まれている。昔、社会が貧しかった頃というのは(戦前とか、戦後すぐくらいの時期~昭和30年代くらい)は、全然そんなことはなかったと思うんだ。

英単語帳というのができたのも、赤尾の豆単(赤単)というのが出たのが初発で、それが刊行される以前は、みんな英和辞書で引いていたわけだ。ソースのURLを失念したので以下、記憶を頼りに書く(以下の段落で書いたようなことをまとめたページがあったと思う。ご存じの方は教えてください)。
英和辞書には、受験に出る単語も出ない単語も載っている。受験に出る単語ばかり集めたものがあれば受験勉強が効率化するだろうというようなコンセプトがあったと聞いている。この赤単というやつは、単語がアルファベット順に並んでいて、本の最初に載っている単語ほど覚えられやすい(何度もチェックするから)という特徴があった。そこでこれに続いて出たヒット商品が「試験に出る英単語」(しけ単)である。これは試験に頻出度順に単語が並んでいる。より出やすいものが前に来ているので、勉強時間が短くてもそこそこ点が取れる程度の暗記はできるという工夫である。これがヒットしたのが、忘れたけど、昭和50年代~1980年代くらいなのかな?
その後も、例文で覚える英単語とか、英単語帳は進歩と多様化を遂げていくのであるのが、翻って考えてみるに、英単語帳が進歩と多様化を遂げるためには、それだけ英単語帳づくりに熱中する人員が社会の側に確保できていなければならない。
「社会が効率化して人手が余る」ということが起こらなければ、これだけ豊富な種類の数の英単語帳は世に出ることはなかっただろう。

勉強法も同じなのではないか。つまり、予備校で「どんなふうに勉強すればいいんですか?」という質問をする学生が増えたのは、社会が豊かになったことの反映なのではあるまいか。

こういう質問をする学生が増えることは、旧来の勉強法に親しんでいる教師からすると奇異に映るものだが、世代が違う学生の側からすればごく自然なことなのである。
今井氏は、音読の仕方に対するアドバイスとして、「どうもこうも、「音読=デカイ声を出して英文を読む」だから、それ以上別に何もない」といいつつ、「そんなことは当たり前で、意味を考えながら読むに決まっている。意味を考えずに声を出しても、そんなのは英語で騒いでいるだけで何のプラスもない。」と言っている。
「それ以上別になにもない」と言いつつ、「意味を考えながら読むに決まっている」と言及するのは、論理的には矛盾以外の何者でもないわけであるが、ここに教師(今井氏)の世代といまの受験生世代の間の認識の乖離が潜んでいるのではあるまいか。
今井氏の世代からすると、「意味を考えながら読む」のは言うまでもないことであり、いまの学生たちも当然にそのことを弁えているに違いないと考えている。だから、そういうことをわざわざ訊いてくる奴に奇異の視線を向けがちになるわけである。

だが、私はここで思うのだが、果たして、今井氏の世代の人々において、音読=意味を考えながら読む、というのはほんとうに当たり前のこととして全員に共有されていたのだろうか?

私はそうは思わない。

そうではなく、「音読と言えば意味を考えながら読むのは当たり前だろ」ということを常識として消化できていた人たちだけが選択的に大学に進学できたという可能性のほうが高いのではないかと私は思うのである。

つまり、かつては、大学受験の合否を分ける決め手となる要因の記述が、「努力が足りないから」とか「資質がないから」と言った、漠然とした言葉でしか説明されていなかったのに対し、
社会が豊饒化して人が余って、教育産業に携わることのできる人員の絶対数が増えてくると、この「要因の記述」により磨きがかかる。その結果、かつてにおいては顕在的に記述できてなかった「音読といえば意味を考えながら読むのは当たり前だろ」の部分に意識的な光が当てられ、
「同じ「音読をしろ」という教師の指示に対しても、意味を考えながら読んでいる奴と考えずに読んでいる奴がおり、それが音読の効果を分けている」という仮説が、検証に値する仮説として浮上してくる、明文化されてくる
ということが起こった結果、
「何に気を付けて読むんですか」「意味を考えながら読むんですか」という疑問を、学生の側に抱かしめているのだと思うのである。

「同じ音読をしろ」という教師の指示を、教師の考える意味通りに受け取っている学生と、そうでない学生がいることに私たちはもっと着目するべきではないか。
いや、これは何も音読に限らない。あらゆる指示について言えることである。

たとえば読書。「国語の成績ってどうやったら上がるんですか?」→「本読め」という問答は昔からの問答ではないかと思うが、本の読み方一つを取ってしても、寝ころんで読むか座って読むか、家で読むか学校で読むか、同じ家であっても、家族がガヤガヤと騒いでいるテレビからの音がひっきりなしに聞こえてくる居間で読むか自分の部屋で読むか、同じ学校でも、教室で読むか図書館で読むか、朝読むか夜読むか、歩きながら読むか逆立ちしながら読むか、雨が降っている日に読むか晴れている日に読むか、そういう無数の、一見どうでもよさそうな、読書をするに当たってのファクターが、本当に読書の意義に大きく作用するファクターではないと、誰が言い切ることができようか。

言い切ることができないということが真実であろうがなかろうが、はじめから苦労なく読書しまくれる奴にとってはそんなことはどうでもよいのである。
はじめから苦労なく読書しまくれる奴にとってみれば、そういうことに注目している暇があったら、一冊でも多く本を読むというのが、正解なのであって、その「言い切ることができない」ということにことさらに拘ることが、その人の人生の意義と充実度に大きく響いてくるのでないことは明らかだから、その人がその部分に着目しないのはごく自然なことである。
しかしそのことは、世の中にいる人間の全員が、その「言い切ることができない」という部分に着目することに意味がない、ということをまったく意味しない。
世の中には、そういう細々とした部分に着目したほうが人生の充実度がアップする、というような種類の人もいるのである。
そしてそのことに、「はじめっから苦労なく読書しまくれた奴」は気づきにくい。


結論を言えば、いくら教師に怪訝な顔をされようが、疑問の種類に貴賤はないのであるから、いかに教師に「そんなの当たり前だろ常識的に考えて」と言われようとも、学生は、教師世代と同じ常識を共有しているわけではないのだから、どんどん思ったことを教師にぶつけるべきであろう。それが結果的には、深い相互理解と合格への近道として作用するような気がする。

かつて、米を洗えと言ったら洗剤で米を洗いやがったというような話が伝説的に語られたことがあったが、このような認識の齟齬、常識の齟齬は、なにも炊飯時にのみ現れることではなく、異なる常識を持つ人々の間ではいつどこで出現してもおかしくはないのである。

もっとも現実には、「こういう質問をするとバカにされるかも」的な予期が、していい疑問としてはいけない疑問という二分をつくりだしてしまうことが多々あるので、いずれはこの部分に関する細かい言及もしないといけないのだが。それはまた別の機会に。


 「ただ読むんですか?」という尋ね方も多い。「ただ読むって、どういうこと?」とむしろこちらから質問したくなる。

そう。そうやって相互に質問しまくっているうちに、双方の間のどこに齟齬があるのかが次第に明文化されていく。それが双方の深い意思疎通にとってはとても重要なことなのである。


長年受験生たちと付き合ってきた経験では、どうやら「ただ読む」とは「何にも考えずに発音だけする」ことを意味するようだが、繰り返すけれどもそれでは「読む」ことにはならない。すると今度は「日本語訳も言いながら読み進めるんですか」とくる。「英語を1文音読したら、すぐに続けてその日本語訳を口に出していってみる」という教材があるらしくて、彼らはそのマネをしたいらしいのだ。しかし、それはムダである。日本語訳なんか口で言ってみても、英語力はつかない。だから「意味を頭の中で考えながら、口に出すのは英語だけ」というのが正しい音読だと言ってあげると、「それだけですか」と怪訝そうな顔で帰っていく。

相互に素朴な疑問をぶつけあった結果が、当初は期待していなかった種類の落胆的なものに終わることも多い。この場合は、「怪訝そうな顔」がそれである。でも、それが、十分に意思疎通した結果であるのならば、それが自らを成長させるための紛れ無き事実であるのならば、学生の側はそれを呑まねばならないだろう。

素朴な質問の応酬はいつもいつも、「期待する結果」だけをもたらしてくれるわけではない。ときには本人にとって強烈で、残酷な事実を突きつける結果になることもある。
でも、そこからスタートすることでしか道は切り開かれないのであれば、やはり、そこからスタートするべきなのだろうな。
もちろん、だからといって、本人が精神的にショックを受けて寝込んでしまうというようなことでも困るから、言い方や言うタイミングなどには気を付けなくてはいけないが(今日ではこっちのほうのケアのほうが大変なのかもしれない)。


最近は「東大合格生のノートは必ず美しい」とかいうことになっていて、結論が先にあって実証は後から都合よく付け加えた本が売れていたりするから、ついつい「綺麗にノート整理しなきゃ?」という、昔なら女子高校生独特だった行動が男子の受験生にも蔓延しているようであるが、
ww


綺麗なノート整理が(少なくとも普通の受験生にとっては)「時間ばかりかかって効果がない」ことは論をまたない。

うん。


 「東大合格生」なるもののノートがもし「必ず」美しいとしても、それは彼らが多くの問題を解き、たくさんの問題を解くことを通じて知識なり基本なりを自分なりに整理できた結果に他ならない。「ノートが綺麗だから、東大に合格した」のではなくて「東大に合格できるほどたくさんの問題を解いて知識を整理した諸君なら、ノートもうまく綺麗にまとめられて当たり前」なのである。

原因と結果を逆に理解してしまうというのはよくあることだよねぇ。
ぼくも気づかぬうちにやっている可能性がある。
因果関係の存在を明らかにするためには、観察者が系になんらかの操作を加えることができるということが保証されていなければならない。
これは、ただ見ているだけでは因果関係の存在までは言えない、ということでもある。(例外もあると思う。「見ているだけ」から因果関係を推定する方法もあった気がするけど、とりあえずここでは言及しないでおこう。)


世界史や日本史なんかで、先生の板書が感動するほど美しくて、生徒はみんな板書を写すことに夢中、という授業がよくあるが、そういうのに限って「人気はあるが成績は上がらない」ことが多い。

ああ、これ、あるなあ。もっとこういうことが大々的に宣伝されるべきなのかもしれない。
大事なのは、「頭が分かっている」という状態をつくりだすことであって、それ以外ではない。
そこを取り違えると、分かることよりも美しいノートをつくることに熱中してしまう生徒は今でも結構多いのではないだろうか。

こう言うと、「じゃあ汚く書けば分かるようになるのか」と言われそうだけれども、そこは一律ではない。結論から言えば、傍目には汚く書いてあるノートなのに、そのノートをしたためた本人は驚くほどよく分かっている、ということがある一方で、そうじゃないこともある。
「分かっている頭がどのようなかたちでノートの書字に反映されるか」には個性があるのであって、そこに形式的な法則性を期待するのは順序が逆である。(厳密なことを言えば、そこに潜在している形式的な法則性をなにがしかの方法で抽出することで、「分かっている頭」の具現化の有り様の秘密を探るという分析をするのは有りである。有りだし、実際にそういう研究も行われてると思う。でも、仮にそういう研究がかかる法則性を明らかにしたとしても、いいノートのすべてが個々の分かっている頭の反映であるという事実或いは因果的な順序に影響はない。)


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