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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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内藤朝雄『いじめの構造』 - 尼克拉斯魯曼全百科
本書には何一つ新しい知見はない。いじめで苦しんだ者なら誰でも知っていることしか書かれていない。自分を苦しめる人間を「友達」と呼ぶように強いる「学級」のしくみ、同級生と仲良くできること(だけ)が成功だとする現実離れした「理想」が、諸悪の根源だということなんて、中学生だって(特にいじめられた経験がある人は)知っている。

にもかかわらず、誰もこの周知の事実を書いてくれなかった。そこに内藤朝雄の仕事の存在価値が生まれている。この人以外のいじめ論で、本なら最後まで読みとおせたり、テレビなら途中でチャンネルを替えなかったものはほとんどない。論者のあまりの無知さ(と無恥さ)にムカついて絶望感でいっぱいになるからだ。その意味で、この人の本はすばらしい。

うん。


他方で、本書(やこれまでの著書)で呈示されている理論、「群生秩序」とか「中間集団全体主義」といった概念、それによって分析してみせた図式などが評価されているのを見ると、ちょっとまた絶望感が頭をもたげてくる。結局、そういう形で書かなければならなかったということは、こういう客観的(な言語で語られた)分析でないと、事情を理解できない人間が、特に知識人層にたくさんいるということを示しているわけだから。そういう人たちが、本書に(語られず)示されている事態を、本当に直観的に理解できているのか、そういう疑問がわいてくる。

全員がいじめの被害者としての経験を持っているわけではない以上、一部の少なくない数の知識人が、そういうことを、理論的分析を経ることなしには、直観的理解はおろか、理論的に理解することすらおぼつかないのは自然なことである。

むしろ私たちに求められているのは、自らの経験(と想像力)の不足に基づく直観の不足を、理論的分析を経由することによって補うことではないのだろうか。

言い方を変えると、もし、全員がいじめの被害者としての経験を持っているとすると、理論なんてなくてもみんな分かり合えてしまうわけだから、理論化をしないといけない必然性の一つがなくなってくる。
もちろん理論化は、分かり合うための道具としての価値だけでなく、将来の予測を可能にするだとか、あるところでつくられた理論がべつのところで応用できるだとか言った類の価値もあるので、全員がいじめの被害者としての経験を持っているイコールいじめの理論がつくられない、ではないとは思うが(「全員がいじめの被害者としての経験を持っていればいじめは起こらないはず」ではないと思うし)。



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