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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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こっそり南京事件アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」
会社に行く途中で思いついて、電車を待つ間にiPhoneからアンケートを設定、それが8時15分ぐらいですね。回答数300件、16時過ぎに終了しました。
「あった」が1/3よりやや多く、「なかった」「どうでもいい」が1/3よりやや少ない、と、そんな割合になりました。
割合としては20代の「どうでもいい」が他の年代より少しだけ多く、男女差はほぼないようです。
「どうでもいい」はぼくです。あったなかったが、いますぐなにか直接にぼくの生活に関わってくるわけじゃないですしね。でも、気持ちとしてはなかったのなら良かったのになぁとは思います。自分の住んでる国が昔やったらしいよくないことの話だし、死んだ人の数なんて少ない方がいいに決まってる。

そういうぼくからすると「あった」の人たちの主張は、すこし気になります。なんであそこまで熱くなれるのかがよくわからないからです。あると、なにがいいんでしょうね。正義が果たされるべきだからでしょうか。謎。

こういうアンケートは、「南京事件とは何か」に関する認識の一致がすでに図られている場合に意味をなすものであって、そういう一致が図られていない現状では、訊き方自体に不備があると言わざるを得ない。
「昨日の時点においてここにリンゴがあったかどうか」をアンケートで問うたとしよう。そのとき、ある人物は「あった」といい、別の人物は「いや、なかった」と言うような可能性は十分に考え得ることである。しかし、その場合であっても、すなわちリンゴの存在の有無に関する意見の不一致がある場合であっても、「リンゴとは何か」ということに関する意見の不一致はないのであって、そこを私たちはよく理解する必要がある。

はてなブックマーク - こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」
 fujiyama3もし、北朝鮮の人が拉致問題を「どうでもいいです、いますぐなにか直接にぼくの生活に関わってくるわけじゃないですし」と言ったとしたらどう思いますか?2009/06/03 

少なくとも私はどうも思わない。
それは、単に「私が拉致の被害者であったり被害者の親族じゃないから」とかそういうんじゃないと思うんだ。少なくともそういうのがメインの理由じゃないと思うんだ。
もし百歩譲って、拉致した相手を憎むべきだとしても、憎むべきは「拉致行為を働いた意思決定の主体」であって、それ以外ではない。
その意思決定に参与していない人が責められなければならない謂われはない。

「お前の親父に俺の親族は殺されたんだ。だから俺はお前を憎む。」ってヘンじゃない?

いくらでも例はつくれる。

「お前の国の幹部に俺の親族は殺されたんだ。だから俺はお前を憎む。」っていうのもヘンだ。

***

連帯責任という都合のよい言葉がある。しかし、連帯責任というのは、あらかじめ責任を連帯するということに対する事前の合意があって初めて有効化するのであって、そういう合意のないときには連帯責任という概念を用いることは無効であると私は思う。
少なくとも基本はそうである。
しかし、例外がないわけではない。

私たちは、たまたまある国に生まれたというだけで、その国の先人たちが築き上げてきた恩沢に浴することができる、ということがある。
「偶然的に恩沢に浴することだけが認められて、偶然的に一方的な責任を押しつけられることのほうは認められないというのでは平仄が合わない」というふうにも考えられる。

つまり、私たちには、ある国に生まれたと言うだけで、「生まれながらにして持てる権利」がある一方で、「生まれながらにして負うべき義務」というものが存在すると。

で、その「生まれながらにして持てる権利」のすべてを放棄すれば、理屈上では確かに、「祖先から連綿と引き継がれる義務」を引き継がなくてもよくなるわけであるが、現実的にはそういうことはできないのであって、「生まれながらにして一方的な責めを受ける」ということも同時に受け入れなければいけない、というのは、少なくとも法理的には筋が通りそうである。

しかし、このような「法理的な正しさ」と、日常感覚的な正しさ(上で「ヘンじゃない?」って指摘したことね)に関する実感の間には乖離がある。

だから、この乖離を感じる人にとっては、直接的には憎み憎まれ得る関係にないけど、法理を経由すると憎み憎まれうる関係にあると言えてしまう間柄の人たちにおかれては、それぞれに心理的葛藤が生じるはずである。

そして、この葛藤にどういう仕方で折り合いをつけるかというところに、一つの分水嶺が存在しているように思う。

で、そのときに、法理を経由しない場合の被害者側の感情というものは、直接性が薄まるにつれて次第に寛容的になっていくということがある気がするんだ。

「お前の親父に俺の親族は殺されたんだ。だから俺はお前を憎む」という仕方で憎んでしまう人の憎悪感情と、
「お前の祖父に(以下略)」という仕方で憎んでしまう人の憎悪感情とでは、後者のほうが憎悪のレベルが低いような気がするということ。

だから、平たく言えばね、時代が経つにつれてみんな寛容になっていく、っていうのが、基本的な流れだと思うんだけれど、そのときに、
かかる心理的葛藤において、日常感覚的な正しさが負けてしまう人の割合が増えたり、そういう方向に人民の関心を向けさせる煽動力が多く働くと、法理が憎悪増幅装置としての色合いを強めてしまって、せっかく減衰した憎悪感情がまたぶりかえされることになってしまうと思うのよね。

こういう、法理が憎悪感情を高めるという悲しい帰結を促すというのは、法理の不完全性に原因があるのだと思うんだけれど、どうだろう。
少なくとも僕は、こういう状況のときには、「日常感覚的な直観」「現在までに完成している法理」とで言うことが違う場合に、どちらのほうがより信じるに値するかと言われたら、やっぱり、前者を選んじゃうと思う。


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