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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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学校は理性を鍛えるところ - 考えるのが好きだった
暑いからと言って、ズボンの裾を折り曲げている生徒がいる。断固注意する。「先生はスカートだからいいけど、暑いんだぜ」言ってくる。「制服はちゃんと着ろ。暑がるのは本能だ。学校は理性を鍛えるところだ。」

 休み時間になると、ややもすると授業中でも口にものを入れている。「だって、腹減るんだもん。」「いつでもどこでもものを食うのは動物だ。おなかが減ったらものが食いたくなるのは本能だ。学校は理性を鍛えるところだ。」

 「先生、トイレ。」「先のことまで考えて行動しろ。いつでもトイレに行っていいのは、子供と年寄りと体調不良(病人)だ。」
その通り! (madographos)
2005-08-16 12:07:09
全く同感です。学校は、理性を鍛えるところです!ところが、今の教育の流れは、生徒が暑いといえば、冷房を設置し、掃除がかったるいといえば、業者清掃を入れ、授業がおもしろくないといえば、楽しい授業をこころがける。こんな教育現場に誰がした!と、怒っている今日この頃であります。

暑くて勉強に集中できないときに、ズボンの裾を折り曲げると暑さが緩和されるのだとしたら、ズボンの裾を折り曲げたほうがいいような気がする。
にもかかわらず、「それでもズボンの裾は折り曲げてはならない」という主張のほうが正当性を帯びる理由の一つは、「学校内だから」だと思う。

もしそれが、自宅で一人で勉強しているのだったら、裾を折ろうが裸になろうが知ったことではない。自分が一番勉強しやすいと思う環境、体勢、服装で勉強すればいいだけの話である。

ところが学校で、しかも教室でとなるとこうはいかない。「他者に気づかう」必要があるからである。
しかし、一方でこうも思う。では他者の許可が得られればズボンの裾は折り曲げてもよいということになるのではないか。

で、思うのだ。

学校でズボンの裾を折り曲げることが好ましく思われないのは、「勉強の妨げになるから」でもなければ、「不快に思う人もいるから」ですらない(少なくとも直接的には)。(もし、「不快に思う人もいるから」というが根拠として正しいのであれば、「俺はむしろ、裾を折らないで履いているのを見るのが不快なんだけど」という反論に太刀打ちできない。できないし、そういう反論を言う奴は少数派だから、というのでもないと思う。特定の感性が正当化され、特定の感性が否定されなければならない根拠が多数決にあるのだとすればそれは暴力である。)

より正しい根拠は、「それは品位を欠くから」である。

授業中にモグモグするのがいけないのも、病気でもないくせに授業中にトイレに行くのがいけないのも、全部これで説明できる。

たぶん、私の言う「品位」概念は、ほり先生の言う「理性」概念に一致すると思う。

品位の本質は、たぶん「あたかも○○をしていないかのように○○する」ことにあるから。

いくら腹が減っているからといって、ガツガツ食うのはみっともない。
「私には食欲なんて全然無いんですよ、という態度を示しつつ、いただく」というのが品位にとっては重要で、そういう意味では、品位の本質はツンデレであると言うことができるかもしれない。

なぜ「あたかも○○していないように○○する」ことが「○○しているように○○する」ことよりも品位が高いのかというと、そういう振る舞い方をするほうが難しいから、ということに尽きる。

食うことが目標のゲームがあったとしよう。さきにゴールにたどり着いた奴は、まだ着いてない奴を待たないといけない。
そういうとき、ただ待っているだけでは退屈である。
そこで、より困難な課題を自らに課して、その新しい目標に向かって邁進することで退屈さをしのぐ。

ここで、「より困難な課題」というのは、単に別のゲームに挑むというようなことを指すのではない。
そうではなくて、「同じ目標を、より厳しい制約のもとで達成することを目指す」ことを指している。
このとき、同じ目標を共有する異なる二つの課題のあいだに序列が成立する。

つまりこれは、制約の厳しさをどの程度に調節するかということが、その人の「段位」を示す記号として機能しだすことを意味する。

同じ目標でも、方法における制約の厳しさを調節することでいくらでも同じ目標で遊ぶことができるというのは、退屈さを回避する趨向性を持つ動物だからこそ生み出し得たすぐれた発明だ。

考えてみれば、生きていることの大部分は、寝たり食ったりという周期的な活動に費やされているわけで、こういうことは、なかなか食べ物にありつくことができないとか、なかなか安全で快適な寝床にありつくことができないとか言った自然環境においては興味の絶えないゲームたり得るが、ひとたび食と睡眠と活動圏における快適さが安定的に供給されることとなると、人はどうしても退屈してしまう。
そこで、同じ食や睡眠と言った(いやでも毎日襲来してくる)ゲームを、より強い制約のもとで達成しようと試みることで退屈さをしのぐという作戦に打って出たということなのではないだろうか。

そして、さらに時代が過ぎると、その「発明品」の余波は、単に段位を示す記号として機能するのみならず、より高段位の技能を修得することが一つの伝統文化を構成するに至り、子どもを働かさなくてもよいほどに余裕のある階層の人々におかれては、その時代の子どもたちに、その伝統文化は強制的に植え付けられるに至るのである。
(親父が楽しむことのできたゲームに、その子どもが同程度に楽しむことができるかどうかといったことは蚊帳の外だったりする)

***

もうちょっと別の説明をすることができるかもしれない。

誰かが「○○しているように○○している」場合、その観察者は、パッと見ただけですまそうが、注意深く観察しようが、得られる情報に変わりはない
同じ「アイツは○○している」という情報が得られるだけである。

ところが、誰かが「あたかも○○していないように○○している」場合、その観察者は、パッと見ただけだけで済ましたときに得られる情報と、注意深く観察したときに得られる情報とに差が生じることになる。

注意深く観察することにはコストがかかるから、注意深く観察してもしなくても同じだけの情報が得られるのであれば、ふつうはわざわざ注意深く観察したりしないだろう。
注意深く観察するというコストを支払って初めて手にすることのできる情報というものが存在するからこそ、人は、「わざわざコストを払ってでも注意深くなる」のだろう。

そう考えると、互いに惹かれ会う男女の間になぜツンデレ傾向が生じやすいのかも納得がいく。それは単に「正直になれないから」とかではなく、お互いが戦略的に行動していることの反映である。
互いに惹かれ会う男女においては、お互いの目的は「相手の気を惹くこと」である。相手の気を惹くためには、「自分をより注意深く観察することで初めて得られる情報」というものを相手に提供できなければならないから。

自然界もまたツンデレであり、品位を宿している存在と言えるだろう。自然界が品位を宿していなければ、自然科学に進展など有り得ないのだから。

***

話をもとに戻す。

用意されているゲームでは飽きちゃったから、より困難な課題を自分で設定して、それに挑戦することで退屈をしのぐというのは、基本的には有りだと思うが、それゆえに健康を害したり命を落としたりしていては何にもならない。

前回の記事と絡むが、真夏に水を飲まずに何時間も運動し続けるだとか、真夏に汗だくになりながら何時間も勉強を続けるだとか、そういうタイプの「困難な課題」というのは、どれくらい挑戦する価値があるのだろうか。

私は懐疑的である。

日進月歩ならぬ秒進分歩の現在、学ばなくてはならない事柄は無数にある。読まなくてはならない古典もたくさんある。

わざわざ汗だくになりながら勉強するなどというのは、エアコンも扇風機もなかった時代のなごりか、読まなくてはならないものが圧倒的に少なかった時代のなごりであろう。

自分が読むべき本が一冊しかないのであれば、或いは、自分が実質的に手に入る本がそれだけしかないのであれば、あらゆる角度からその本を読み尽くせばいいわけであるが、次から次へと新しい情報が生産されていてしかもそれが低コストで入手できる現在、単位分量あたりの読むスピードを下げるように働くハードルを能動的に設定するというような課題にわざわざ挑むというのは、どうしてもやりたい人が完全に趣味の範囲でやればいいことであって、学校教育で一律にやるべきことではないように私は思う。

汗だくになりながら本を読むよりも、エアコンの効いた快適な部屋で本を読んだほうが、気が散らない分はるかに理解度も読み進むスピードもあがるだろう。
わざわざ汗だくになること自体に価値を見出すというのは、金や設備のなかった時代の人間のひがみでしかない。

補遺:
厳密に言えば、「金や設備に乏しいからこそ到達できる人間的境地というものが存在する」ということを私は否定するつもりはない。いくら汗が出ようとも気にも留めず黙々と勉学に励めるのも一つのすばらしい能力であるし、そういう能力の涵養に努めてみようと思う人間の心意気まで否定しようとは思わない。
私が否定しているのは、そういう能力の涵養を、十分に設備が整っている状況下において、全員に要求することは、おかしいのではないかということである。

***

あと掃除か。
仏教圏では掃除はたいせつなことと考えられているが、アメリカなどでは生徒児童は掃除をしないのが普通らしい(掃除屋さんがくる)。掃除を生徒自身がすることにどれだけ教育的意義があるのだろうか。
塾では普通塾生は掃除をしない。学校でも、お金のある学校では生徒児童は掃除をしない(少なくとも廊下とかは)。大学も然り。

「掃除という活動を通じて人間性がはぐくまれる」とか言うタイプの理屈は、後付けの理屈(こじつけ)なのではないだろうか。

もし、掃除をしないと人間性の育成に問題が出るのであれば、生徒児童に掃除を義務づけていない学校の生徒は、そうでない学校の生徒よりも総じて人間性に問題が出ているのでなければならないが、そういうデータが出ているようには思われない(もしあったら教えて)。
むしろポイントはそこではなく、家庭で掃除をするかどうかで調べたほうが差は出そうな気がする。

あと、全人教育重視か、教科教育重視かでも意見は分かれると思う。塾は100%教科教育なので掃除が義務づけられ得ないのは自明。一方、小学校など、より低年齢においては、どうしても教科教育のあいまに「生活指導」が滑り込みがちになるので、そういう関係で、「掃除も大事」っていう理屈も同時に滑り込んでくるのかもしれない。


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