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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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プロレタリア型右翼 - 永井俊哉ドットコム
日本のような先進国の場合、移民制限を緩和すると、発展途上国から安価な労働力が流入するが、それによって真っ先に仕事を奪われるのは、単純肉体労働に従事している低学歴・低所得の人たちである。彼らが、外国人労働者に対して排他的になるのは、経済的な利害関係による。
フィリピンの場合、国内の所得水準が十分に低いので、移民の受け入れを増やしても、低学歴の労働者のライバルが増えるという可能性は低い。むしろ、フィリピンの公用語が英語であることから、他の英語圏の高学歴労働者が、フィリピンに来て、国内の高学歴労働者から仕事を奪うという可能性の方が高い。大学卒業者の拒絶度が最も高いのはこのためだろう。

なるほど。


軍務に就いていれば衣食住は保証され、資格もいくつかとれるだろう。今の日本で、年長フリーターが無資格で就業できて、賃金を得ながら資格をとれるような職業に就けるチャンスはどれくらいあるのだろうか?[赤木2007]

もし、実際には敵国に敵意がないのに、自国or自国民の思いこみが激しいがために、相手国を殲滅しなければいけないとのイデオロギーを掲げて、そのために人的および技術的な国力を集中的に投下したとしたらどうか。

敵意がない相手国から見れば、それこそ、水の入ったバケツをあっちに持って行ったりまたこっちに持っていたりという無意味な仕事をすることのためだけに何百万人という人員を雇い、彼らに賃金と衣食住を提供することを何年も何年も続けるわけであるから、相手国からその損失分を上回る戦果を収奪できない限り、国力が衰退するのは火を見るよりも明らかである。

軍務についていれば衣食住が保証されるとは言うが、いわばそれは、国家の名のもとに許可された壮大なギャンブルに参加するということへの同意であり、その衣食住は、「もし勝ったならば調達できるはずの戦果」から捻出されているということを忘れてはならない。そしてもし戦争に負けて、調達できるはずのものが調達できなかった場合、結局その「前借りした衣食住の代金」は、高い利子とともに(場合によっては死を以て!)返さねばならないわけである。

いや、別にだからというわけでもないが、無意味な仕事を延々と繰り返すということについてちょっと思ったので。
実際的には無意味でも、本人が有意味だと思っている限りにおいて仕事というのは成立するのかなあ、とか。

もっとも単純には「金がもらえてりゃそれは仕事だ」と言うかもしれないが、その金が、自分が将来働いて得る金を雇用者が合法的に収奪or前借りしている当のものであったとすればどうだ。

それはもはや仕事と言い得るのかどうか、怪しくなってくる。

これは、「金をもらっていればそれは仕事だ」に対する一つの反証であるが、金というのは指標化がラクであるがゆえに、ついついそこに何か絶対的な、客観的なものが潜んでいると思いたくなりがちであるが、実際には全然そんなことはないのだよということを、自分の身体に分からせるために、ときどきこういうことに言及しておきたくなるのである。


プロレタリア型右翼にとって、戦争で日本が勝つかどうかは重要でない。戦争をして、日本が勝ったとしよう。戦場で死ねば、英霊として崇拝されるし、生き残れば、強くなった日本で立身出世できる。

正確には、立身出世できる可能性が開かれる、だろう。いかに戦争が機会の平等を提供する装置として機能したとしても、相対的に能力が劣っていれば立身出世するのは難しい。


以上のようなプロレタリア型右翼の考えは、戦前の朝鮮人の考えと同じである[朝鮮人はなぜ太平洋戦争を喜んだのか]。大日本帝国の下層民であった朝鮮人の当時の心境を赤木風に表現するならば、「日本人をひっぱたきたい―檀紀4243年にして日本の属国。希望は、戦争。」といったところだ。

なるほど。


男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。[赤木2006]

でもそれは日本の雇用市場が新卒偏重主義というかたちで硬直化していることに原因があるのであって、その原因が排除されさえすれば、国際的には不可避であるところの「過剰流動性」を受け入れる下地がととのうわけだよねぇ。
新卒偏重主義が今後もずっと続くということ前提で物事を考えるのは、それこそ、新卒偏重主義者?の思うツボな気がするけど。


《流動性のない格差社会で負け組みとして固定されているがゆえに、戦争によって流動性を作り出して、権威を打ち倒そうとしている》というような逆の説明が成り立つ

流動性をつくりだす手段が戦争しかないってのはどうなのよ。そりゃたしかに戦争は流動性をつくりだすだろうけれど、コストがあまりにもでかすぎる。死ねば英霊としてまつってもらえるって言うけれど、それって、命を軽視していることでもあるよね。「死んでこい。英霊として祀ってもらえるんだからありがたく思え。」って主張を正当化することにつながるよねぇ。でもそれは、生命の尊厳ということを最高の価値であるとする現代の倫理的な論調にまっこうから対立する主張だよねぇ。

自分(ら)の尊厳を守るために自分の命を犠牲にしなくちゃいけないような状況って、たとえばイエス・キリストの死とか、まったく無いわけではないけれど、そんなに頻繁に発生するものであるとは思えない。ましてや、簡単に人を殺せなくなっている(簡単に人は殺されなくなっている)このご時世だ。そういうことをしないといけない頻度は前世紀以前とは比較にならないくらい激減しているはず。



革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。[赤木2007]

でも今、その少数派が少数派じゃなくなって来てるんだよね。非正規労働者の数が増えていることとかさ。


赤木からすれば、左翼的革命/改革よりも右翼的戦争の方が、固定化された格差社会を流動化する上で、より現実的な選択肢なのである。

どうも戦争のコストの高さについてよく理解していない感じである。流動化するという目的が達成されるために、戦争というコストを支払うことが「見合う選択」たりえるためには、どうしても命を軽視しないといけないと思うのだが。
赤木自身は、「英霊として祀られるのであれば、命など要らぬ」という覚悟ができているということなのかもしれないが、その覚悟ができておらず、かつ、命は大事であると思っているような、赤木と同じ立場に置かれた人たちを、その意思に反して巻き込むことを、赤木の良心は赦すのだろうか。ひとたび戦争になれば、かならずその種の「巻き込み」を生じることになる。


下層階級の右翼には、戦争になれば、自国が勝とうが負けようが、自分たちの利益になるというしたたかな計算があるのであって、戦争に負ければ、多くの既得権益を失うリスクを抱える特権階級よりも、戦争から利益を受けやすいのである。

しかし実際には、戦争があらゆる機会の平等を実現してくれるかというとそうではない。知恵ある資産家は自らの財産をより安全な場所に移し替えたり、或いは、より安全に自分の財産を保全するための専門家チームを雇ってその保全に努めたりするのであって、戦争によって完全な機会の平等がもたらされるというのはいわば虚構に過ぎない。それは実際には、下層階級のそういう人たちが、資産家の財産の一部を少しかすめ取ることができる程度であるのが通例なのではないだろうか。

もしほんとうに、戦争によって完全に機会の平等が確保されるのであれば、戦前から続く大財閥や地元で権勢を維持している中小企業のオーナーたちが持っていた有形無形の財産とやらは、アジア太平洋戦争を境にすべて水泡に帰していなければ平仄が合わないが、実際にはそういうことはないのであって、私たちはもっと「そういう現実」にも目を向けたほうがいいのではないかと、少なくとも私には思われるのである。

その「したたかな計算」とやらは、ほんとうに「したたかな計算」たりえているのかどうか、或いは、その「したたか」の意味は、ほんとうに永井氏の考えている通りで間違いがないのかどうか、そこには少しばかりではあるが議論の余地があるのではないだろうか。


プロレタリア型右翼にとって、戦争とは、別の手段を用いた左翼的革命の継続である。両者の手段の違いを簡単に言うと、左翼が自虐的で内ゲバ的な手段を使うのに対して、右翼は他虐的で外ゲバ的な手段を使う。

なるほど。


一般に、右翼と左翼は、相互に相手を激しく非難する。このため、人々は、右翼と左翼は、正反対の、全く異なる思想と考えてしまう。だが、両者の仲が悪いのは、近親憎悪によるのであって、決して、両者が異質であることを示さない。プロレタリア型右翼も左翼も、ともに、下層階級の救済を目指しているので、譬えて言うならば、低所得層を顧客とするディスカウント店どうしのようなものである。ディスカウントショップは、同じ客を奪い合う関係にあるからこそ、激しく対立するのである。

ふむふむ。


プロレタリア型右翼と左翼は、手段においてのみ異なるわけではなく、目標においても相違している。すなわち、左翼が平等な社会の実現を目指しているのに対して、右翼は、必ずしもそうではなくて、むしろ自分だけは特権階級に入りたいというエゴイズムによって動機付けられているという違いもある。つまり、左翼的理想は普遍化可能な合理性を持つのに対して、右翼的理想はそうでないという違いがある。

ふーん…。


本当に戦争のようなカタストロフィーが起きて、もし国民全員が苦しむ平等が達成されたとしても、そのような流動は極めて一時的なもので、安定を求める人たちがこうしたシステムを額面通り流動させたままにするとは思わない。戦争によって一度流動化したシステムも、やがてまた硬直化する。その時にはまた硬直化したシステムからはじきだされた人たちが、私と同じように異議を唱えることだろう。[赤木2007]

そうだね。だから大事のは、単に硬直化を解いて流動化を促進することではなく、硬直性と流動性が共存するような状況に至ることなんだよね。

各自が自己の能力の涵養に努めるとともにその限界を直視したうえで深く理解していさえすれば、人的資源の配分(適材適所性)は適正かつ効率的になされるし、そのことに不満を覚える人が出てくる確率もずっと減るであろう。
一人一人が自分についてしっかり知る、特に、自分とともに生きる人たちとの相対的な関係において自分という人間の持つ様々な能力はどのように価値づけられるべきなのかに関する深い理解を、一人一人が持てるように導くことこそが、一番求められていることなのではないか。


右翼・左翼・リバタリアン・保守主義者の違いがわかるように、以下のフローチャートで整理してみた。

お、この図はいいですね。


この理由により、私は、四つの政治的立場の中で、市場原理至上主義という意味でのリバタリアニズムが最も望ましいと考える。

4つのなかではね(笑)。


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