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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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注)とりあえず以下では、福祉施設という言葉を、医療、介護、教育、研究と言った分野を指す意味で使う。



09/5/31のたかじんのそこまで言って委員会では、介護問題が取り上げられていた。

それで思った。

老人ホームなどの介護施設保育所、小中学校などの教育機関、大学などの研究機関に共通する問題がなんなのかを。

それは、財源が国や自治体に完全に握られていることである。

収入と支出のうち、入り口の部分はすでに決まっているから、限られた予算内でなんとかしないといけない。
限られた少ない予算の範囲内で組織としての活動の効率を上げるということを繰り返していると、どうしても、サービスの質職員の給与は最低ラインに落ち着いてしまう。
自分の給与の額を下げれば、サービスに回す分の資金をより多く確保できるから、善良で清貧な職員は、自分たちに給与額の決定権があれば、自分らの給与額を最低限度にまで切りつめるだろう。

さてでは、そのようにして、職員が自分のふところを切りつめればサービスの質が向上するのかというと、そうはならない。
福祉施設に入れずに行列待ちをしている「待機している人たち」のために、そのお金は使われるからである。
このようにして、「待機している人たちが少し減る」ということと引き換えに、職員の給与額とサービスの質の低さは、据え置かれることになる。

もちろん、国や自治体から振ってくる予算が潤沢なところでは、そんなことにはならないのだが、そういうことはあまりなく、たいていのところでは圧倒的に予算が足りないので、そうなってしまう。

こういうことが、介護施設や保育所や公立学校や大学と言ったところで全国的に多発している。


根本的な問題は、所定の予算に対して「待機している人たち」の数が多すぎること、或いは、待機している人たちの数に比べて予算が少なすぎることにあるのであって、このどちらかが解決されない限り、こういった福祉施設で活動する人たちは、半永久的にヒイヒイ言い続けることになるであろう。

多くの人たちは、こういった問題に対して、だから予算を増やすことが大事なんだと言うだろう。だからこの問題は、しばしば、「税をこっちに回せ」という、公共的資源の配分をめぐる係争に陥りがちである。

公共的資源の適正な徴収とその効率的な配分をおこなうことはとても重要なことである。だが、そこ向かって野次を飛ばし続けることだけが、私たちにできる最後の望みなのであろうか。私たちにできることはほんとうに、「俺に金をよこせ」と言い立てることくらいしかないのであろうか。

私はそうは思わない。

不毛で実りの少ない係争を繰り広げるくらいなら、自分たちで運営資金を稼ぎ出すということくらいしてもいいのではないかと、私には思われるのである。

理化学研究所は1924年の段階で作業収入の8割をビタミンAの販売で稼ぎ出していたと聞く。
これは何も昔に限った話ではない。
ホンダやNTTやIBMやベネッセや、挙げればキリがないが、独自にある程度まともな研究所を付設している組織は、一般企業では数多く存在する。そして、そういった企業では、他の高利潤の部門で稼ぎ出した資金を、そういった、短期的には利益をあげることのできない研究をするところに積極的に投資している。

一般企業でできていることが、なぜ、介護施設や保育所と言った公益性の高い機関ではできないのであろうか。

これには理由が2つある。

一つは、まず、そういった一般企業において福祉施設の運営部門を併設すると、一般企業本来の視点である「利潤の追求」といったことがもたらす余波が、かならず悪い形で福祉施設に反映されるに違いないと考えられていることである。
一般企業において、経営が不安定になったときにまず切られるのは「不採算部門」である。介護施設や保育所と言った福祉施設は、「消費者から多額の金を取れない」という縛りのために、不採算になりがちであるから、どうしてもこういうところからバシバシ切られていく傾向を生んでしまう。

もう一つは、清貧を是とする美徳観である。「無駄遣いはいけない」というのは確かにそうだと思うが、「稼いではいけない」というのは、どこか論点を見失っている気がしないでもない。
一方では清貧の思想にのっとって「稼いではいけない」と叫びながら、他方では「俺には金がない。だからお国さま自治体さま、私目に金を恵んでくだせえ」というのは話が違うのではないか。
もちろん、健康上の問題を抱えているために働けないというのなら話は別だが、単に「稼ぐのが嫌いだ」という思想の持ち主であるという理由だけで、やすやすと施しを受ける身分が手に入るというようなことを許していると、遠からず施しをする者(資産家や国や自治体など)の財布の中身はカラになり、近いうちに市場経済を単位とする共同体の勢いは急激に衰退するであろう。


こういった問題点はどうすれば解消することができるだろうか。

まず一つ目であるが、利潤追求といった基礎原理が、併設する福祉施設にいつもいつも悪い形でその余波を与えるわけではないということに着眼すべきである。経営状態が芳しくないときは確かに切られやすくなるだろうが、逆に経営状態がいいときには安定して福祉施設に運営費を供給することができるわけである。こういう「いいところ」にも、もっと目を向けるべきである。

しかし、ご案内の通り、昨今この不況により、経営状態が芳しくない企業が多い。そういうときには、上で挙げた「いいところ」が表出せず、悪いところばかりが露呈するのではないかと、そう賢明な諸氏は考えられるかもしれない。

だが、ちょっと待ってほしい。

たとえばNPO法人では、いかに黒字であっても、その経営陣の人たちにその利潤の一部が配当されるというようなことはあってはならない。
「いままではNPO法人という看板を掲げてやってきたけど、今年は大幅な黒字だから、今年に限っては株式会社という看板でいくか」というようなことは許されない。
これは、各種法人にまつわる法的な規制が資金の配分を規定している例であるが、ことほどさように、組織を法的に縛る規制の有り様がそのまま資金の配分にまつわる構造を規定するということは多い。

株式会社という仕組みの発明は世の中の仕組みを大きく変えたが、この仕組みには、貧困ビジネスのような非倫理的なビジネスをなすことを禁じる機制がはたらくことが内部的に構造化されていないなどの問題点が数多く存在している。

NPO法人というのは、株式会社が持つ様々な問題点を打開するために考案された法的組織形態であるという側面があると理解しているが、一方、NPO法人はNPO法人で、理念に賛同する一般の人々からの善意の寄付や、行政からの事業委託費(つまりは税金)に頼らなければならないなど、肝腎の活動資金のメインが外部依存であるがゆえに、NPOのなかで実質的に働いている人たちの自由にならないということがある。
それ以前に、そういう外部依存的な資金すらなかなかそう簡単には集まらないといった現状もある。

だから、外部依存的な部分ではまかないきれない部分を、独自に稼ぎ出す必要があるのであるが、その場合でも、NPOにおいては、そのために追求していよい利益性は、必要最小限のレベルにとどめられなければならないといった思想的な縛りがある。
これは言葉を変えれば、NPOには「清貧に運営しなければいけない」という思想、もっと一般的に言うなら、「公益性の高い組織は総じて清貧でなければいけない(儲けてはいけない)」という思想が、その背景にあるがゆえだと思われるのである。

だが、儲けてはいけない理由は必ずしも明確ではない。
たくさん儲けて、その過分な利潤が、教育や医療や介護といった「公共の福祉」に役立てられるのであれば万々歳ではないか。
なぜ、そういう発想に至らないのだろう。
思うに、たくさん儲けるには、「なんとしてでも儲けてやる」という強い意志が必要であり、かつまた、そういう意志を持つ人間は、概して利己的であることが(経験上)多いがゆえに、「儲けることイコール悪」といったステレオタイプ的な価値観が醸成されるに至るのではないだろうか。


株式会社は、A)利潤の一部を出資者に配当するシステムである。一方NPOは、B)利潤はあくまで活動のための内部留保であり、つまり利潤は出資者に配当されないシステムである。

ここに私は問題点、というよりも制度上の不備を感じる。
C)利潤の一部が、教育や医療や介護といった「公共の福祉」に配当されるようなシステムがあっても良いのではないか。
それは必ずしも、彼らから「公共の福祉」税を徴収することを意味しない。
最終的に「公共の福祉」に使われることが決まっている資金のすべてが、かならず国や自治体を経由しなければいけないわけではないからである。

過分な利潤を稼ぎ出すことのできた組織が、自前で「公共の福祉」に供する事業を展開する、或いは、自分が信頼できる他の組織もしくは部門にその事業活動をゆだねる。
そういうことがもっとあってもいいのではないか。
国や自治体を介すると、その委託-受託の関係はどうしても「書類」的な信頼関係になりがちである。人口の多い都市では特にそうである。信頼の基礎を書類におくということは、信頼するしないの基準が、ある数値的な基準を満たしているかいないかで判断することに同意することを意味する。
だが、そのような手段の利用は、あくまで緊急的な場合に限られるべきであって、便利だからと言って多用すると必ず無駄と悲劇を生む。
書類だけでは信頼は調達できない。築けない。


もちろん、そういうことは、わざわざ新しい制度をつくらなくても、現行の株式会社という制度の枠組みのなかで実践することは、原理的には十分可能である。
だが、原理的に可能であるということと、実際問題として一般企業の経営者たちがそういうことをやろうと思うかどうかというのは全くの別問題である。

短期的には利潤をあげない部門に掛け捨て的に投資し続けるためには、ある種の強靱な精神力が必要である。すなわち、これは絶対に私たちに必要なものであるという強い確信が必要である。
数値的な達成度には勘定されにくい部分を評価する独自の内的な尺度を持っている経営者でなければ、そういう「安定して不採算な部門」を抱え込むことをよしとすることはできない。
そして、経営主体の意思決定システムが、人工的に構成された複雑なシステムであればあるほど、或いは、その意思決定に参与する人数が多ければ多いほど、そういう「独自の内的な尺度」は軽視されがちになる。

不採算部門と一口に言っても、それが不採算である理由は一様ではない。ここを私たちは注意深く見極める必要がある。すなわち、
1)そのサービスを必要としている人が実質的にいないからなのか
2)サービスを必要としている人はたくさんいるんだけれども彼らが自分たちの経営を黒字にするほどの経済的能力を持っていないからなのか
このどちらであるのかをよく見極める必要がある。
後者である場合、彼らの経済的能力のなさを私たちの組織が補ってでも、彼らにそのサービスを提供するべきなのかどうか、その見極めも必要になってくる。
そしてその見極めができるためには、「自分たちが社会を支えている」ということにまつわる満腔の幸福感とでも言うべきものが、単なる一組織の経営状態の良し悪しに優越するということが、経営者一人一人のうちに起こらねばならない。

そしてその生起を加速するためには、単に個人の倫理観が向上することを促したり期待したりするだけでなく、何らかの新たな企業形態が出現することが不可欠であるような気がするのである。
いや、むしろこの双方の手段は独立のものではなく、後者が前者を加速する構造になっているとすら言えるかもしれない。
すなわち、企業形態が人々の倫理観の高さを規定する、というようなことがあるかもしれない、ということである。



前に、株でがっぽり稼いでいる小学校の先生がいるという話を聞いた。その先生が、退職後に株を始められたのか、それとも現職教員の頃からなのかは知らないのだが、たとえば、現職の教員が、休日に趣味で株取引をして荒稼ぎをしたとして、その稼ぎの一部を公教育のために使うとすればどうであろうか。私はこういうのは非常に理想的な形態の一種であると捉えているのであるが、いかに目的が「お前たちが金をくれないから俺が独自に余暇を削って稼いでやってんだよ何が悪い!」と叫んだところで、公務員法の例外としては認められる気があまりしない。
「営利企業等への従事制限」(国家公務員法103条地方公務員法38条)などに抵触するおそれがあるからである。
これは、行政の中立性を確保し国民の信頼の保持することがその目的であるとされているが、これは逆に言えば、中立性と国民の信頼を損なわないと認められる限りにおいては、法令等によって例外が定められる可能性を含んでいるものであると考えることができる。
このように、原理的には「本業以外で稼ぐのが絶対禁止」というわけではないということなわけだが、この原則を外側で活動しようとすることは実際的には結構難しい。
実際に許可を出すのは教育委員会だったかと思うが、教育委員会も、いかに論理的に筋が通っていることであったとしても、「前例がないから認めるわけにはいかない」で通すことが実質的に権力的に可能であるし、行政等の教育関係者は、教育委員や校長をはじめ中間管理職的な板挟み構造のなかに置かれているので、いきおい「事なかれ主義」になりがちな傾向にあるために、まあいわば、非常にカタい、わけですね。
このカタさは日本の公教育の強みでもあるのだが同時に弱みでもある。

日本では公教育に対する文句、というよりもその施策を出す文科省に対する文句が定期的に横行する傾向にあるが、国際的に見れば日本の初等・中等教育はなかなかに善戦しているという事実はあまり知られていない。
たとえばアメリカの大学では、日本の大学に比べて進度や講義内容が非常に初等的であることが多いが、これは、アメリカの高校までの教育があまり充実していない(つまり、「底上げ」という観点で言えば日本は結構善戦している可能性がある)ことの反映であるとも考えられるわけである。

さらなる公教育の充実のためには、公教育のさまざまな決定の権限を地方に移譲し、中間管理職的な板挟み構造のなかに置かれる人間の数を減らすことが必要であり、そうすることで、前例主義に拘束されない柔軟な意思決定が自治体や校区あるいは学校レベルで可能になるようになってくると思う。
誤解してほしくないのだが、私は何もいつもいつも前例主義が悪いと言っているのではない。ときには前例主義でないほうがいい場合もあるでしょう、と言っているのである。そして、そういうケースバイケースの対応が実際的に可能になるためには、権限を持つ者の眼に、権限を行使される者の姿が、単なる書類上の人物・組織ではなく、一個の生身の人間・組織として映じている必要があるのである。



キリスト教では、儲けることが悪いのではなく、儲けた金を何に使うかが重要であると教えているが、私もまたこの考えに同感であり、以上くどくどと述べてきたことの主眼はまさにこの点、つまりこれをどう具体的に実践していくかの一つの青写真を描くことを試みた点にあるのである。

「金がないなら税金にたかるよりも前にすることがあるはずだろ?」というのがこの記事を書くに至った初発の疑問であり、でもそれが容易には実践できないのには、そういうことを実践する意欲を湧かせない構造的な要因が存在していることと、そもそも自前で稼ぐことが法的に許可されていなかったり、稼ぐことはつねに悪であるといった間違った認識がはびこっていたりすることがあって、一方では非倫理的な手段で荒稼ぎする奴らばかりが目立ってしまうがゆえに、稼ぐことイコール悪であるという認識が広まるのを加速している現状があるということをまずは踏まえた上で、
その上で、税金だけが唯一の収入源なのにそれがなくて困っている人たちは、「税金が俺んとこに降ってこないのが問題」と、責任を外部に転嫁して安心してしまうのではなく、
「国や自治体も何も意地悪で金をよこさないんじゃないのは分かった。でも、それならそれで、自分たちで稼ぐ自由くらいは与えてくれてもいいんじゃない?独自に稼ぐことすら許可されていないというのはやっぱりひどいんじゃないの? 稼ぐことを禁止するなら十分な金を与える。十分な金を与えられないんだったら独自に稼ぐ自由を与える。このどちらかでしょ常識的に考えて。稼ぐ自由はない、十分な金すらもらえないでは、牢獄的であるとすら言える。まずはこの非人道的な状況をなんとかしろよ」
と主張することこそ長期的には我が身と我が組織と国や自治体を助けるのだということに関する認識をしっかりと持ってもらいたいということと(その主張がすぐに通るかどうかはまた別の話)、そしてそれを実践するための具体的なプランを自分たちでも練ってみるということが必要なんじゃないかと思うわけですね(もちろんプロのコンサルタントにアウトソーシングしてもいいけど、その費用だってバカにならなかったりする。結局は自分たちで試行錯誤して理解して一つ一つ納得していくよりほかに道はない)。


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