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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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「受けてみたフィンランドの教育」実川 真由,実川 元子著 - Kousyoublog
主に真由さんの目から見たフィンランド教育の特徴を箇条書きにすると以下のような感じです。

・受験がない
・授業料無料
・塾もない
・校則がない
・高校から単位制
・全科目自由選択なので、登校時間もバラバラ。授業の間の休み時間は教室は施錠され入ることが出来ない。
・テスト前は「勉強」しない。その代わり「読む」
・フィンランドのテストはほとんどが作文(エッセイ)
・日本のテストは暗記だがフィンランドのテストは知識を詰め込み、詰め込んだ知識を元にして自分自身の意見を書くこと
・テストに制限時間が無い
・数学のテストは計算機持込可。計算機を使いこなしながらいかに考えるかに重点を置く
・英語の授業は英語のみを使って行う
・英語の授業では英語の映画、ドラマ、ニュースなどを鑑賞して終わることが多い。
・20分程度英語のテープが流れ、その聞いた内容を書き取り。
・英語でエッセイを書く
・プレゼンテーションに時間を割く。
・生徒に様々なテーマでプレゼンテーションをさせ、生徒が行ったプレゼンテーションからもテストが出題される。
・留年は多いが当然のことと受け止められている。分からないことを分からないまま卒業する方が恥ずかしいこと。
・先生の社会的地位は高く、専門家として尊敬されている
・高校を卒業したあとは数年仕事をしたり、休養したり、徴兵義務を果たしたり、ボランティアをしたりした上で大学進学をするかどうか決める。
・高校卒業後に直接大学に進学するのは三割程度。ほとんどは20代~30代で入学する。

要は大学的ってことですよね。
大学的な授業形態を高校以前の段階から取り入れることによって、フィンランドは高い教育水準を維持し得ていると、こう言えるのではないかと、思います。

しかしそうなると、クラスという概念がどうなってるのかが気になるな。
大学って、ほら、クラスという概念枠組が高校までと比べて希薄じゃん。
クラスとして活動する、というようなことは、フィンランドではあまりないのかしら?

あと、もしクラスとして学ぶ、ということが少ないのであれば、集団生活自体を学ぶ場というのがどこで提供されているのか、というのが気になるわけですが、たぶんそれは地域が一丸となってやっていると、言えるのではないかと思います。

この教育システムの根幹を支えているのが地域コミュニティの存在。

(P88)
地域のみんながお互い顔見知りで、道を歩いてすれちがえば挨拶をしあう。地元の友だちづきあいが一生つづき、地縁で結ばれた関係の絆が強い。たぶん日本の地方都市で同じような地域コミュニティが存続しているのだろうが、フィンランドでは都心にほど近いところ、日本でいえば杉並区くらいの地域でも、人間関係が濃密である。いま暮らしている地域における人間関係を基盤にした地域コミュニティがちゃんと機能していて、それをわずらわしく思うどころか、楽しんでいることをうらやましく感じた。


> ・フィンランドのテストはほとんどが作文(エッセイ)
> ・日本のテストは暗記だがフィンランドのテストは知識を詰め込み、詰め込んだ知識を元にして自分自身の意見を書くこと
> ・テストに制限時間が無い

テストも大学的だよね。
とにかくライティング重視、アウトプット重視で、記述させまくると。そうして書きまくっているうちに自然と表現力が身に付いてくるという、そういう仕組みなんじゃないかと思います。
日本では一つにはセンター試験が、高校以前において記述式のテストを課すことを縛っている側面があるけれども、じゃあフィンランドで、大学入学者の選抜っていったいどうやってるんだろう? 大学入試において、センター試験に代表される選択式の問題を大量につくらなければいけない日本での理由は、採点の手間の軽減と正確さの追求、ということになるわけだけれども、こういう弊害がフィンランドでは発生し得ない、ということだよねぇ、そういうことができてるってことは。

> ・留年は多いが当然のことと受け止められている。分からないことを分からないまま卒業する方が恥ずかしいこと。
> ・高校を卒業したあとは数年仕事をしたり、休養したり、徴兵義務を果たしたり、ボランティアをしたりした上で大学進学をするかどうか決める。
> ・高校卒業後に直接大学に進学するのは三割程度。ほとんどは20代~30代で入学する。

ああ、なんかもうこのへんから違うなって感じ。
たぶんフィンランドでは、
18歳がこぞって大学入試を受けるって発想じゃないから、入試を受ける人数は少なくて、採点の手間はそれほどでもないとか、
或いは、そもそも入るのは簡単で出るのが難しい式なので、入試自体はそんなに重要視されない、大事なのはやる気だ、というふうにしてるのか、
或いは、高校までの内容が分かってない奴は留年が基本なので、高校が卒業できているイコール大学で学べる最低限の学力はあると見なされるために、高校が卒業できていることが、大学に入るための実質的な要件である、ということなのかな。

しかも、高卒で普通に仕事にありつけるってのも魅力的ですね。就職するために大学に行くという馬鹿げたことは起こらない、起こり得ない

その結果、大学進学率は三割程度に抑えられていると。

ふむ。

理想的な教育じゃないですか。

まさに教育の鑑やね。


> ・英語の授業は英語のみを使って行う

これは日本とは事情が違うからこそできることやろうね。ここに限っては、日本はマネしないほうがいいと思う。


しかし、そのままフィンランドのやり方は導入できないだろうと思う。なぜなら、フィンランドシステムの根幹にある地域コミュニティが、日本には無いか、コミュニティはあってもそれは「集団」ありきの共同体であって「個人」を中心としたネットワークではないからだ。

まさしく。
「集団ありきであって個人を中心としたネットワークではない」は至言。


勿論、学校教育を支える充実した福祉や教師の育成など様々な要因はあるかもしれないが、やはり重要なのはこの教育を支える、「個人」を中心とした「コミュニティ≒ネットワーク≒ソーシャル・キャピタル」をどのように構築するか?というところにかかっているんじゃないか

まず一つ視野に入れとかなくちゃいけないのは、日本人の行動特性と、フィンランドの人たちのそれとの違いやね。これを無視すると、「同じ環境のもとでは人間は同じように行動するものだ」という間違った信憑に基づいて解決策が策定されることを産んでしまうからね。この違いを、まずは理解する必要がある。
それからもう一つ重要なことは、人間はどういうふうな制度のもとでどういうふうに振る舞うのか、ということに関する知識だね。なんか前段と矛盾することを言っているようだけど、そうではなくて、たとえば、「学級という制度そのものがいじめの発生を促進している」という話であるとか(内藤朝雄『いじめの社会理論』essaさんよる書評)、そういう話よ。「適切に環境をセットしさえすれば、人間は理想的に振る舞うはずだ」というか。

試験問題の例で言えば、選択問題ばかりに鍛錬されて育った子どもは、選択問題しか解けない子どもになっちゃうわけ。一方フィンランドのように、「書かせまくる」「書きまくる」ということをやっているとどうや?「書く」ということは、「表現する」「自分の意見を伝える」ということだから、基本的にはどこの職場に行っても求められることだよね。非常に普遍性の高い能力を養っていることになるからこそ、フィンランドではそういうのが強いんだと思う。

もちろんこれができるためには前段があってね、それは何かって言うと、ほんとに自由に書けるかどうかってところ。やっぱりこれは戦前の名残なのか、「先生もしくは上司が喜ばないことは書かない、思ってても書かない」ということが日本では根強く残っているために、「先生の言うことが絶対的に正しく、自分がふと考えてしまう雑念的なことはことごとくどうでもいいことだ」的な信憑がものすごく強い。

この信憑は、役に立つときもあるんだけど(たとえば天皇による終戦の判断を全陸軍に行き渡らせるときとか。こういうのは極度の上意下達構造が成立していないとできないこと)、弊害もある。
で、いま、メリットとデメリットとどっちのほうが大きいのかっていうと、たぶんぼくらの見込みでは、デメリット、と言いたくなるわけだよねぇ。そこらへんやね。
この信憑のメリットはほんとに無いのかどうか、いま、この信憑のメリットが十全に機能してくれていることから僕たちがしらずしらずのうちに受けている恩沢というものはほんとうに存在しないのか。まずそのあたりを、精査すること。まずこれが必要だと思うんだよね。あと、、今後、この信憑のメリットが必要になる可能性についてもね。
そういう精査を経てはじめて、「集団信仰」(というよりも、見えざる上司的なものへの信仰)をぶっつぶす大義名分を得ることができる。

まず何かからならできるだろう。とりあえず選択式はやめて記述式に切り替える。試験の点数は、今みたいに細かい評価じゃなくて、記述の内容のできに応じて、ABCDなどのラフな評価に切り替えていったらいいのだと思う。考えてみれば、体育や美術でできてることが国語や数学でできなくなるとは考えられないので、できるはずなんだよね。そこよ。


> ・塾もない

これかなり不思議やね。なんでだろう?
受験がないから進学塾に行かす必要がない
できなかったら留年するから、留年することが自動的に補習を受けるようなものなので、補習的な塾にも行く必要がない
ということかな。ふむふむ。

皮肉な言い方だけど、日本では落ちこぼれ(もしくは浮きこぼれ)を放置する仕組みがととのっているがゆえに、教育産業が資本主義的に湧く結果を生んでいるんだよね。

あ、浮きこぼれで思い出したけど、フィンランドでは飛び級はどうなってるんだろう。



09.5.25追記

あ、そうそう。めっちゃ大事なこと言い忘れてました。
ここに書いてもいいんだけど、どちらかというとそれだけで一つの独立した主張になりそうなので、新しくentryを立ててそっちに書きました。
 → 大学がレジャーランドなわけ→休養ができる場所がそこくらいしか無いから
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