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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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アドミッションポリシー - 内田樹 入試部長のひとり言
『大学ランキング2010年版』という本に、「女子大ランキング」というコラムがあって、そこに思うところを寄稿しましたので、それを貼り付けておきます。ぜひご一読ください。

小学校から大学院までずっと公立学校ばかり通っていたが、どういう風の吹き回しか、30代の終わりにミッションスクールの女子大の教師に採用された。そこで生まれてはじめて「女子大文化」というものに触れた。驚くべき体験であった。私の教育についての固定観念はほとんど根本から覆された。そのときに刷り込まれた「女子大という"特殊な教育空間"は社会になくてはならぬものである」という私の確信は20年経っても変わらない。むしろ、日々深まっている。それについて書きたいと思う。
「女子大の存在意義とは何でしょう?」という質問をよく受ける。その質問にはもちろん語られざる前段があり、それは「女子大に存在意義はない」という予断である。そう問う人の多くはおそらく女子大の教育理念を前時代的な「良妻賢母教育」だと思っている。「今頃、そんなアナクロな教育してどうするんですか。男女共同参画社会の理念に逆行してませんか?」という棘のある冷笑を浴びせられたことがこれまでに何度もある。
これに困惑して、女子大の存在意義として、「女子大でも立身出世に役立つ教育はできます」ととんちんかんなことを言い出す大学人もいる(いる、というより大変多い)。曰く、男子学生がいないとゼミやクラブ活動などでリーダーシップをとらざるを得ず、結果的に「女性のリーダーシップの涵養」に有用である、と。「女性のエンパワーメント」のために、カリキュラムは「実学優先」を再編していると胸を張り、「場合によっては共学化も視野に」というあたりまで口が滑る人もいる。
申し訳ないが、私はこういう考え方にはまったく同意することができない。というのは彼らが持ち上げる「リーダーシップ」や「パワー」や「実学」を私は格別ありがたいものだと思っていないからである。
たしかにリーダーシップは大切である。だが、「リーダーではない組織成員の心得(非リーダーシップ)」も同じように(場合によってはそれ以上に)大切な資質だと私は考えている。現に、私たちが生き暮らしている組織はリーダーだけで形成されているわけではない。経験的に言えば、みんながリーダーになりたがってイニシアティヴ争奪に明け暮れている組織よりも、「引くときには引き、譲るところでは譲り、立てるところでは立てる」という技術に長けた人々を多く含む組織の方があきらかにパフォーマンスが高い。共同的に生きる場で社会的能力は「多様な他者と共生し、協働できる能力」であり、それは「リーダーシップ」という語では言い尽くすことができない。集団が機能するためにはリーダーシップ以外に実にさまざまなものが必要である。「合意形成のためにこまめに周旋する仲介センス」、「落ち込んでいる仲間を励ます癒しの力」、「うまく自己表現できない人の意思を代弁する言葉の豊かさ」、「暗鬱な局面で場を盛り上げる気楽さ」、「安易な満場一致に冷水を浴びせるクールな批評性」などはひとりひとり担当者がいて分掌されるべきものであり、リーダーがそのすべてをこなし、残る全員は何もしないで唯々諾々とそれに従うだけというような集団を私たちは理想としているわけではない。どうして「リーダーシップの涵養」だけが選択的に優先されなければならないのか、誰かその理路を私に説明して欲しい。同じように、パワー礼賛にも私は同意しない。「エンパワーメント」をめざす大学人は自校の卒業生から政治家や官僚や医者や起業家などが輩出することを喜ぶのであろう。けれども、彼らはそのとき「権力、財貨、威信、情報、文化資本などを獲得することは無条件によいことである」という価値観を無邪気に肯定している。それは「権力がなく、金がなく、威信がなく、情報に疎く、教養のない人間には生きている価値がない」という残酷な宣告に同意署名することでもある。
世に「実学」と呼ばれるのは、平たく言えば、「教育投資が迅速かつ確実に回収できそうな学科」のことである。数学や植物学が有用な学問であることに異議のある人はいないが、これらの学問は「実学」とは言われない。金にならないからである。「金融工学」は去年までは「実学」だったが、今年はどうか。「実学優先」というのは要するに「それを勉強すると高い年収が得られますか?」という子どもや保護者からの問いかけを「下品」だと思わない感覚のことである。世に下品な人間が多いことはやむを得ないが、別に大学が率先して下品になってみせることはあるまい。
「立身出世主義」は教育目標として優先的に掲げられるべきものではない。私はそう思っている。放っておいても人間はつい利己的にふるまってしまうものである。教育機関がそれに棹さしてどうする。それよりは、自己利益を優先させる生き方を「恥じる」感覚や、そのような自分に「疚しさ」を覚える感覚や、それよりももっと人間にとって大切なものがあるのではないかと「疑う」感覚の方がずっと大切なのではないか。高等教育はそのような深みのある知性をこそ育てるべきなのではないか。
冒頭に私は「特殊な教育空間」と書いたが、日本の女子大は実際、その草創のときからこれまでよく「反・立身出世主義的教育」のケルンとして機能してきたと思う。たとえ少数ではあれ、このような教育理念に基づく教育機関は存在しなければならない。それはこの国を懐の深い、手触りの優しい、厚みのある空間にするためには必須のものだと私は考えている。

内容はいいのだが、なぜ「立身出世的でない主義の教育」は、男がいると不可能なのかが説明されていない。

あるいは内田先生にとってはそういうことは自明なのだろうか。
つまり、男たちがいる空間だと、すぐにイニシアティヴ争奪戦がはじまり、それを制止することはほとんど絶望的に困難なのだけれども、この世の中に「女たちだけで構成された空間」というのが存在していてくれることにより、その馬鹿げた争奪戦はギリギリのところで食い止めることが可能になっている、というのが、今の世の中の有り様なのである、ということは、内田先生にとっては、自明すぎて言及するまでもないことなのだろうか。


まあそれはいいとして。


結局、立身出世主義教育ってのは、立身出世に成功した男たちがトップダウン的に掲げている教育理念に過ぎなくて、そしてそういう成功者はかならずイニシアティヴ争奪戦の存在を肯定的に評価すると同時に、それ以外の側面を間接的に軽んじてしまう。
立身出世に成功した男たちが掲げる教育理念をそのまま無批判に受け入れてしまうと、立身出世に成功した男たちには見えなかった部分が軽視されるような教育にどうしてもなってしまう。

そういう、ことですよね…。


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