@heis.blog101.fc2.com

分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新しい利器を発明してそれを日常的なものとして取り込んでしまう人間の習性が、環境をより利便性の高いものとし、多数の利器・文化が継承されていく根源的な原動力を構成している - @heis.blog101.fc2.com
こうやって見てくると、結局、新しい利器を発明してそれを日常的なものとして取り込んでしまう人間の習性が、環境をより利便性の高いものとし、多数の利器・文化が継承されていく根源的な原動力を構成しているということが、見えてくるんではないかと、思います。

一方で、こういう習性は、生まれながらにして人間が持っているわけではないわけですね。いや、持ってることは持ってるんだけれども、きっかけがないと発露しないわけですね。
生まれながらにして野生のまま自然界に放り出されたとしても、人間は新しい利器を発明しない。

新しい利器を発明しうるためには、すでに何らかの利器を習得して利用していることがたぶん前提の条件なわけです。

お箸はこうやって使うんだよ、はさみはこうやって使うんだよ、クレヨンはこうやって使うんだよ、というもろもろのことを、親とか保育士さんとかに指導されて、既存の利器を利用可能な状態にすることによってはじめて、未知の利器を発明する可能性が開かれるわけですね。

ある利器における「前習慣的段階から習慣的段階への移行」は、「すでに完成された習慣の体系に接するという体験」を通じてしか達成されることがないわけです。

んで、すでに完成された習慣の体系に接することができるためには、すでに完成された習慣の体系に触れる機会がなくてはならず、この機会を得ることのなかった個体は、ついに「慣習的段階へと移行する機会」すら逃すわけです。

よろしいですか、「習慣的段階へと移行する機会」というのは、「すでに完成された習慣の体系に接するという体験」と、「おのれの能力を能動的に駆使すること」によって、はじめて成立するわけですね。

つまり、同じ「既存習慣の体系に接するという体験」を通じているにもかかわらず、一方において習慣的段階へと移行する個体がおり、他方においてその移行が実現しない個体がいるということは、「その既存習慣をおのれにおいて体現してやろう」という欲求が欠如していたか、欲求はあったんだけれどもそれを達成する能力に欠いていたか、欲求を達成する能力はあるんだけれどもその達成を制止する外的な要因が存在していたかのいずれかであると、踏めるわけです。

ここで欲求とは何かが気になるんだけれども、一方で、欲求の有無というのを測る客観的な指標を調達することは、かならずしも容易ではない。脳に電極をさして、ある部位にある反応があらわれることをもって、ある目標指向性の欲求が出現したと定義することは可能かもしれませんが、その定義から漏れるような欲求は存在しないのだということを言うことは容易ではないと思います。

 ------

進化的に優れた形態(解剖学的特徴)を有しているということと、進化的に完成された形態を有しているということは別や。

いかなる進化的に選択された個体群も、単に、それより前の時点における適応性が優勢であったということにほかならず、その勝敗性は多分に相対的なものである限り、その勝利を以て、形態の完成・不完成を論じることはできない。


ポール・W・グリムシャー著、宮下英三訳『神経経済学入門 --不確実な状況で脳はどう意思決定するのか --』p154
進化したシステムが進化的に定義された計算目標を理論的な見地から達成していることを前提として仮定できないとしたら、実際問題として、このシステムがどれくらいこの目標を達成することに近づいているのかを経験論的に問う必要があります。実際、進化したシステムが、我々人間が計算目標と定義できることを近似するまずまずの仕事をしていれば、DavidMarrが提唱する方策が有効になります。

「進化した生物システムがする仕事は、人間が何某かの計算目標を選択的に定義することによって、十分に近似可能である」という仮定をおくことにより、目標指向性の分析が正当化されるわけですね。

つまり、ある行動の背景において念頭に置かれる目標指向性というのは、多分に妄想的であると同時に、analogicalなわけ。でも、その妄想が、生き物の行動というものを十分に説明することができるくらいには高精度に近似することが可能なのであれば、それで十分なのではないかというのが、上の仮定の背景にある一つの思想だと思うのね。

「実際に生き物が、どういう理由で行動しているのか、そんなことは知ったことではない。我々にとって有益で有り得るのはただ一つ。それが人間に理解可能なかたちでの表現との対応づけが、それの時間発展を十分に予言可能であるほどに高精度であると言えることである」 という思想。

この思想を採用する限り、実際にこの世の中に因果律などというものが存在するのかどうかなどということは、一切考慮しなくても良くなる、というメリットがある。

実際にこの世に因果律というものが存在するのかどうかということは知ったことではないけれども、因果律が存在するのだというふうに考えることは少なくとも我々にはできるらしいし、それがさまざまな、将来を予言するという意味において有益であることだけで、因果律というものを使っていい十分な理由になり得るのではないか、ということだから。

これは、我々にできることはいったい何か、ということを突き詰めていった結果の、理性的な認識の限界を踏まえたうえでの「物事の理解というのはいかにあるべきか」ということの、一つの完成型なのではないかなと、思いますね。


ポール・W・グリムシャー著、宮下英三訳『神経経済学入門 --不確実な状況で脳はどう意思決定するのか --』p154
もし進化システムが、生物が外界において直面する問題よりも系統発生学上ならびに構築上の制約がこの生物を形作ることにずっと多く関与する小窓[強調は訳者による]の森だとしたら、David Marrのアプローチはほとんど使いものになりません。

構築上の制約がめっちゃ効いてる場合は、行動の近似理論としては、すなわち行動科学的にはオッケーでも、進化論的な記述との整合性が取れなくなるからよろしくない、ということですかな。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://heis.blog101.fc2.com/tb.php/156-7b690684
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。