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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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金融リテラシーとか、原始社会などの初歩的な社会では必要でなかったものが、近代以降の社会になると急激に必要になってくる、

要するに、新しい武器が登場する、ということですね。

包丁のない時代には、包丁をじょうずに扱うことのできるリテラシー、というものは存在しないわけです。

新しい道具が、文明の利器が発明されて、それを日常的に使うことが当たり前になってくる、というふうになってくると、その文明の利器の利用に長けた奴と長けてない奴との間に、能力的な格差が生まれるわけです。

これが原始社会だったら、火を使える奴は、ものを煮てから食うから消毒されて食中毒になりにくいけど、なまのまま食う奴は食中毒になりやすいとか、そういうことがあったと思いますし(火の使用リテラシー)、現代社会でも理路は同じですね、パソコンを使える奴は、パソコンを使ってどんどん新しい情報を収集できるけれども、使えないと、そういうことができない(ウェブを通じた情報収集のリテラシー)。

これに対してね、新しい文明の利器が登場してくるのが悪いんだと、いうふうに考える人がいますが、これはおかしな考え方でね、もしそれを肯定するのであれば、あらゆる文明の利器委を否定しないといけませんよ。
「自分が生まれ育った土地にたまたまあった文明の利器だけが存在してよくて、それ以外の文明の利器は存在してはならない」、ということが肯定されていると、(共生的な)異文化コミュニケーションというのは成立しなくなります。
いま、私たちに求められていることは、「異なる文化を持った人たちを受け入れてともに暮らす」ということでしょ?じゃあそれを達成するために必要なことは何? 自明じゃないですか。相手が発明した文明の利器を受け入れるということ。これだけです。

そんなことしまくってたら、覚えることが多すぎて、まともに生きることなんてできなくなるんじゃないか、というふうに考える人もいるかもしれませんが、

おびただしいほどの数存在する文明の利器のなかで、実際に私たちの日常的な生活を席巻するほどの威力を持ったものというのは、ごく少数なんですね。
たとえばピアノというのは一つの文明の利器ですが、ピアノが弾けない、或いはピアノの調律ができない、ピアノをつくることができない、といったことによって、日常的な生活が死活的に悪影響を受けるということはないわけですね。

一方、車とか電車、電気ガス水道、本、文字、計算、などなどと言ったことは、ある程度、それの利用に関するリテラシーがないと、クオリティ・オブ・ライフが死活的に影響を受けるわけですね。
車や電車がなかったら通勤・通学ができない、文字が読めなかったり計算ができなかったりすると、基本的な取引ができない。


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ただ、この少数というのはあくまで割合なので、分母がでかくなると覚えなくちゃいけない利用リテラシーの数も当然増えてくる。そして、共生的な異文化コミュニケーションが進めば進むほど、この分母は、でかくなる傾向になる。
すなわち帰結は何?
覚えなくちゃいけないことはこれからもどんどん増えてくるよ
ってことに、なっちゃう。

じゃあ、そんなことに、人間の基本的な能力は耐えられるのか、ってところですけれども、ぼくは、これはそれほど悲観すべき事ではないんではないかなという気がしています。

というのはね、
単位時間当たりの発明件数が増えるということはそれだけ淘汰もスピードも速くなるということを意味しているだろうからです。

一昔前は、川まで水くみに行ってたわけですが、いまではそんなことする必要ないね。蛇口をひねれば出てくるね。たとえばそういうことです。

一昔前の文明の利器は、新しく出現した文明の利器に、いつの時代においても「取って代わられる」ので、後の世代に生まれた人々は、川まで水を汲みに行く能力を日常的に行使しなければいけない必要性から解放されるわけですね。

これをね、旧世代の人々は、文化の破綻、もしくは文化の断絶、などと言った言い回しで非難ないし敬遠、或いはそれゆえに悲嘆に暮れる、といった傾向にありますが、それはそれで、いいと思うんですよ。そういうのはたいてい「伝統文化」として、残っていきますから。

たとえば着物。現代人は着物なんて、動きにくくて、普段は着ないけれども、結婚式であるとか、成人式であるとか、正月であるとか言った、伝統的な行事に触れる機会のあるときに限って、それらを着用することを、しますね。
完全に廃れるわけではないわけです。

もちろん完全に廃れてしまうものもあるけれども、紙漉職人、昔は50軒あったのにいまは2軒だとかね、子どもは会社に就職してしまったから俺が死んだらこの技術は継承されることなく潰えてしまうだとかね、そういうことがまったくないわけではないけれども、
社会の側に、そういうこと、いまではすでに日常的な便益に貢献するわけではなくなってしまったものを維持・継承していくことができるほどに余裕がある場合においてはね、「そういうのを引き継いでみたいな」って思う、変わり者の人間が現れる確率もまた高まるわけです(特に、効率化されすぎて仕事がなくなっていく社会においては)。
もっとも、この両者がうまく出会うことができるかということはまた別問題ですよ。だからいま、「マッチング」ということが、ひとつのビジネスになりつつありますね。結婚支援サービスなどというのもその一つだと思いますし、もっといい例としては、病院と研修医のマッチング制度ですか、ああいうのも最近できたらしいですけれども、
双方の希望の最大化・最適化を図る、制度的な枠組みが整備されたことの一端、
一人の人間が日常生活において知ることのできる範囲を超えた、個々人の自己利益の最適化を、「神の見えざる手」の部分を経由することによって図るための一つの方法論が、あるていど作られてそれが実際に使われているということなど
はですね、多文化かつ高度流動性を示す社会においては、必然的に要請されることであったと思いますし、今後もこれをよりよく実現していくためのものがつくられて利用されていくことは論を俟たないのではないかと思います。

もちろん、旧世代の利器の維持・継承にはコストがかかるわけですけれども、ある利器が旧世代化する節目にはかならず、新しい利器によって社会が効率化し、社会に余裕が出てくるといったことがあるので、その余裕の一部が、旧世代の利器の維持・継承に割り当てられることによって、そのコストの負担元というのは、ほぼ自動的に確保されるものなのではないかなあとは思います。

こうやって見てくると、結局、新しい利器を発明してそれを日常的なものとして取り込んでしまう人間の習性が、環境をより利便性の高いものとし、多数の利器・文化が継承されていく根源的な原動力を構成しているということが、見えてくるんではないかと、思います。

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