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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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霞ヶ関の権威と権力 - 池田信夫blog
大政奉還という言葉は、勤王派の「王政復古」の思想に対応する。儒教では「王道」に対して、武力で政権をとる「覇道」を邪道と考え、特に日本では万世一系の天皇が征夷大将軍を任命したと考える。いわば天皇がプリンシパルで幕府はエージェントだから、後者が前者の意に沿わない場合は解任するのは当然、という発想だ。ここで「奉還」されるのは天皇から委任された権力であって、鳩山氏が想定している国民主権ではない。

これは単なるワーディングの問題ではない。このようにして奉還された天皇の大権が、明治以降の官僚機構のよりどころだったからだ。鳩山氏がこのような日本の官僚機構の儒教的な性格に無自覚であるかぎり、霞ヶ関を本質的に変えることはできない。坂本多加雄も指摘したように、日本の官僚は西洋的なテクノクラートではなく、科挙以来の伝統を受け継ぐ儒教的な知識人であり、そこに彼らの権威の源泉があるからだ。

つまり明治初期の政治体制において、金とか、あらゆるものが不足している状況下で、わずか数十年、わずか十数年のうちに、当時の政治的な代表者たちが、ある程度国を、文明開化と富国強兵に向けて整備できた、そういう神業を、ほとんど瞬間的に、奇跡的に成し遂げることができたのは、「わしらは天皇大権に基づいてこういうことをやっとるんや」ということを、人民が信じた、ということが一番でかい、ということですね。

なるほど、あらゆることが不足していたが、天皇の権威だけはあったので、それだけでほとんどのことができてしまったということですかな。天皇の権威すげー。

ことほどさように、神託というものが持つ威力は絶大であることをひしひしと感じさせられますな。中世の騎士の、教会による、自分たちのやってることの正当性の根拠づけ然り。

で、じゃあこのすげえ「神託」っていうのはどこに由来するのかっていうのを考えたときに、白川静よろしく「それは文字である」、というふうに言うのは、あながち、否定できないですよね。

西欧で、「神に誓って」って言うときに、聖書に手を置くでしょ。聖書というのは物理的には紙切れだけれども、なかに書いてあるものは文字でしょ。なかに書いてある「人間にとって意味のある本質的対象」は、文字でしょ。文字を通して見える世界のなかに神様がおられるという信仰が、文字を利用するという信仰と、どう違うのかと言われると、はっきりと説明することはできない。
つまりこれらはもしかしたら一緒のものなのではないかということが示唆されているということだ。

リンゴとか海とかを記述するんだったらさ、実際にリンゴを指させば済む話じゃない。実際に海を指させば済む話じゃない。もしリンゴがいま無かったとしたら、ジェスチャーがある。ジェスチャーでは記述できないものを記述するために、文字という新たな存在が呼ばれた、というふうに考えるのは、自然だと、思いますね。

ジェスチャーでは記述できないものっていうのを考えたときに、それは何かって言うと、神様もまあそうだと思うんだけれども、でかい数を数えるというのも、そうだよね。あと、より複雑な取引をしようとすると、文字が必要となる。取引に関連して言っておかないといけないことはあと約束事ね。「こないだこう約束したやないか!」「えー、そんな約束した覚えないよ」って言わせないために、必要とされるものは何ですか? 口約束を超えたより確定的な記述の様式。文字でしょ?もちろん、文字をどう解釈するかに関する認識のズレがあると、それは口約束を超えたより確定的な記述としての意味を持たないわけですが、実際にはあまりそういうことは起こらないわけですね。約束したときには合意されていた解釈に関する認識の一致が、約束を履行する際にずれてしまうということは、履行するまでに片方もしくは双方がボケてしまうとか、そういうことがない限り、まず起こらないわけです。これは、「特定の記号に関して一度成立した解釈の様式を、完全に忘却してしまうということは、ことに人間に関してはまず起こらない」ということを示唆しているのではないかと思うんですね。
これはほら、例えばその、アハ体験で利用される「インクのシミ」の視覚的な画像に関して、あるアハ体験がひとたび成立してしまうと、その体験をする以前の認識の状態にはもはやほとんど戻らないという事実が、この仮説の傍証になり得るんではないかと思いますね。

AさんとBさんとの間に、ある特定の記号に関して、ある特定の解釈の様式が成立しているときに、ひょこひょこCさんがやってきたとする。このときに、Cさんが、そのある特定の記号を見てね、AさんやBさんが見ている意味世界と同じ意味世界をみたいと願ったときに、まずすることは何?それは、その記号に関してこいつらはどういう解釈の様式を成立させているのかをひもとくこと、だよね。
そういうことを、次にDさんがやってきてさらにEさんがやってきて…、ということを繰り返していると、いつのまにかその記号体系が、あたかも実在的なものであるかのように、錯覚されることが帰結されるよね。それはどういうことかというと、「そいつらにしか見えない世界」というのが、仮想的にできるということや。

その「そいつらにしか見えない世界」というのは、どんなに既存的な意味における自然科学的な測定を駆使しても、測り知ることができないですね。その「そいつらにしか見えない世界」というものの、そいつらの文化に依存しない記述の方法というものが存在し得るかどうかは、記号の解釈の多様性を成立させている原型に関する一意的な記述が可能かどうかということにかかっている、よね。
つまり、「インクのシミは何に見えうるか」ということです。

多様性の全体は何某かの制限を受けるのかと言われると、それは受けるのであって、分かるかな、だって、それは、「我々の認識している概念の全体」を超えることはないわけだからね。
まる(○)という記号がね、リンゴを意味しているのかみかんを意味しているのか、はたまた「正解」という概念を意味しているのか、それとも、○は単に○でしかないのか、いろいろな解釈は有り得るけれども、どれも、「ある認識している概念A(例:○)を我々がすでに認識している概念の一つB(例:リンゴ)に対応づけた」ということでしかないわけですね。
もっと言うと、リンゴですら記号になりうるわけです。「このリンゴを地球とすると、我々は砂粒よりも小さいであろう」というような言い方が可能なのは、まさにその故ですよね。

つまり、我々が認識している概念のセットというものは有限の集合として定義することができて、かつその要素間に、主体にとって有益な対応関係を選択的に樹立するという内部的な芸当が起こるわけですね。

概念のセットは、初期段階においては、その要素はすべて実在する何かに対応づけられているわけですね。あれはお星様、あれはお月様、これはお母さん、これはお姉ちゃん、というふうにして、幼児に言葉を教えるわけですね。これは、「お星様」と発音するという、「特定の喉の筋肉の動かし方」が、歩く、走る、食う、などといった行動と同じ地平に分類される類型的な運動」として幼児に学習されることと並行して、「ある類型的な運動」と「お星様という実在」との間の対応関係が強化されることを意味しますよね。

集合の言葉で言うと、概念のセットのなかに、「ある喉の筋肉の運動」という新しい要素が一つ追加されると同時に、「その要素」を「既存の実在に対応する要素」と結びつけて、前者を後者の代名詞として利用することに関する約束が成立するということになりましょうか。

これのすごいところは、「喉の筋肉の運動」の多様性はほとんど無限であるところです。だから実在がどんなにたくさん存在しようとも、新しい「喉の筋肉の運動」と対応づけることができる。そして、そのうち、喉の筋肉の運動に別の喉の筋肉の運動に対応づけるという芸当までおこなうようになるところまでいくと。それが人間だね。

なんのためにそんなことをすんねや? というと、それが便利だから、ということになるんですが、これができるためには、類型的な運動がほぼ無限に生成可能であるという身体的条件を備えていることが必要で、おそらく「その条件の生成に関して、本来呼吸に使うべきのどの筋肉というものを、実在の表象としても利用可能であったという事実」は、きわめて強力な武器たりえたというのが、こんにちの、生物学的な歴史の示すところなのではないでしょうか。


ここまでがまず、話し言葉による意味表象の仕組みにかんする話で、次に、話し言葉をベースにして書き言葉が発明されるというところまでいかなくてはいけないんだが、どうしようかな(笑)。
えー、「大いなる存在というものを、自分たちの存在に関する認識になぞらえて認識してみせるという芸当」ですね、擬人化という芸当。これの亜種であると、考えること「も」できるわけです。
だから…、そうか、擬人化という芸当が可能になるためには、社会性の習得にともなう感情移入の習慣が、ある程度身体化されている必要があって、でもその話と、幼児の概念セットとその要素間の対応関係の生成と強化がどのように膨張していくかっていう話のあいだには、いまのところ有機的なつながりを見いだすことができない、んだね。それから、書き言葉(文字)を成立させている身体的条件に関する考察も実はまだしていない。これは、喉の筋肉の運動だけでなくて、手の運動とか、視覚的な情報の利用といったことも考えないといけないで、さらに複雑になる。
それらが解決されてはじめて、神託というものの成立可能性に関する、よりちゃんとした論議を繰り広げることが可能になる気がします。


科挙についての解説書を読むと印象的なのは、テクノクラートとしての技術を問う科目がまったくないことだ。科挙の問題は時代によって変化したが、四書五経を暗記して解釈することと、詩を書くことという基本は変わらなかった。これは官僚としての実務能力を問う役には立たないが、彼がすぐれた記憶力・表現力をもつ文人で、国家の命令に忠実に従うことはわかる

つまり科挙は、特定の専門的な成果(performance)を問う試験ではなく、任意の問題を処理する能力(competence)を問うシグナリングなのだ。この場合、問題の内容には意味がなく、それを解くコストが小さいことをシグナルできればよい。この伝統は日本の大学入試や就職試験にも受け継がれ、企業は学生がどんな専門知識をもっているかは意に介さない。偏差値の高い学生は、つまらない仕事でもこなせる順応性が高いことをシグナルしているのである。

あー、これで分かったよ。私たちが「基礎的な学力」として何を身につけなくてはいけないか、ということが。「任意の問題を処理する能力」の涵養にあたって何が必要なのかということが。学校という場所ではまずなにを優先的にやらなくてはならないのかということが。
四書五経の暗記と解釈を課すことは、人間社会で頻繁に起こりえる意味に、文字を通して触れることであり、基本的な理解力を養成するのに役立つ。詩を書くことを課すことは、自分の感じていることを表現する力を養成するのに役立つ。

儒教思想は今の時代においては時代遅れである部分も内包しているが、基礎的な学力とは何かということを考える上では、重要な知見をもたらしてくれるもので有り得ると思う。


いいかえれば東洋的な官僚は、ウェーバー的な専門人ではなく、「君子は器ならず」といわれたように、特定の器にはまらないで法律から文学まで幅広い教養をそなえたジェネラリストであり、最高の知識人なのだ。彼らの力の源泉は、許認可権などの法的な権力だけではなく、それが知的な権威と統合されていることにある。したがって優秀な学生は官僚になり、それによって官僚の権威が高まる・・・という循環によって、彼らの実質的な権威は政治家よりはるかに大きい。

西洋においては、儒教的な知識人が要請されなかったということであるが、これはなぜであろうか。「ジェネラリストがいなくても、スペシャリストだけでまかなえる」というふうに、発想していたからだろうか。でも、西洋的なスペシャリストがジェネラリスト性をまったく持っていなかったと理解するのは早計に過ぎるんだろうな、きっと。
だから、ある分野のスペシャリストという肩書きを持っているジェネラリスト(←西洋)と、そういう肩書きをもっていないジェネラリスト(←東洋)、ということなんではないかな。

それから、「知的な権威と統合されている」というのはどういうことだろうか。そこになんらかの神託性、神授性を人々が感じる、ということなのだろうか。そうだとすると、「スペシャリストという肩書きを持っていないジェネラリストたちで構成されている指導層のほうが、神託性が高い」ということになるけれども、これはなぜであろうか。論理的に考えれば、スペシャリストという肩書きが神託性を低減するということになるのだろうが、これはなぜであろうか。なぜスペシャリストという肩書きは神託性を低減をするのだろうか。


このように霞ヶ関は、三権分立といった西洋的な国家機構とはまったく異なる独特な構造をもっている。それは法律の建て前では、立法府に従属する行政府でしかないが、実態は政策立案や立法の機能を兼ね備えた非公式の最高権力である。公務員制度改革で問題になった職階法にみられるように、法律が成立してもそれを50年以上にわたって無視し、明治以来の「高等官/判任官」のシステムを守ってきた。

しかし、かつては権威と権力が一致して安定していた霞ヶ関の力は、日本経済が成熟して彼らの「開発主義」的な指導を必要としなくなると衰えてきた。かつては天下りを求めた民間企業も拒否するようになり、「君子」としての生活が保障されなくなると、優秀な学生が公務員をきらう・・・という悪循環が始まり、権威と権力のmisalignmentが起こり始めている。霞ヶ関で最近よく聞くのは、「このごろの新人は文章が書けない」という嘆きだ。これは過渡的には危険だが、最終的には権力は権威(の低下)に従うだろう。

ただ100年以上にわたって蓄積されてきた霞ヶ関の「暗黙知」の集積は莫大なもので、政治家がそれに対抗することは容易ではない。GHQでさえ手をつけられなかった組織を、「大政奉還」なんてとぼけたことをいっている民主党が壊せるとは思えない。「官治国家」を倒す闘いは、大政奉還のような甘いものではなく、儒教的な意味での「革命」に近いからだ。


およそ100年前に中国で科挙が廃止されたということは、中国では儒教的な意味での「革命」が起こった、ということなのだろうか。

中国において科挙が廃止されたのは、wikipedia(ja)によれば、試験偏重主義による弊害が増大したことや列強によるアジア侵略が一因であるようだが、いかに明治以後の日本の官僚登用制度の原型が科挙にあるとはいえ、その日本における余波が、中国におけるそれと同じ構造的な顛末をたどるとは、どうにも思われない。

霞ヶ関の「権力」を担保しているのは、現在の法だが、一方で、「権威」を担保しているのは、たとえば、「どれくらい、その時代の若者の優秀な奴が、官僚になりたがるか」というようなことに依存している。ほかにも、その「権威」を構成する要素はいくつかある気がするが、なんだろうか。


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