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分かり合えなくてもいいんだ。なぜ分かり合えないかが分かりさえすれば…
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エライ先生とは誰か、社会学は守るべきか - akehyon-diary
太郎丸博氏がブログに書かれた「阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望」を読んだ。力の入った文章であるし、アンテナでみた範囲だけでも、小谷野敦氏や筒井淳也氏もコメントを書いている。ブックマークもたいへんな数になっているようだ。太郎丸氏の主張を要約すれば、もっと学会発表と学会誌を大切にしようというもので、まさに正論であるし、大筋のところでは異論はない。だが、いくつか細かな違和感もある。
まず、ここで批判の対象とされている「エライ先生」というのが、どんな人を念頭に置かれているのか、つかめそうでつかめない。社会学者でネームヴァリューがあり、著書も多い人と言って思い浮かぶのは見田宗介氏、大澤真幸氏、宮台真司氏といったところだが、それでよいのか、確信は持てない。
私はたとえば、見田「まなざしの地獄」「現代社会の理論」、大澤「虚構の時代の果て」、宮台「まぼろしの郊外」といった著作を、日本社会学が誇ることのできる宝物だと思っている。だがこうした内容を査読誌に投稿できるのか、投稿して掲載されるのか、疑問だ。著書の形でしか問えず、また、問うにふさわしい仕事もあるのではないだろうか。

ふむ。


私は不勉強で、太郎丸氏の論文を読んだことがない。ブログから拝察する限りでは、おそらく数理的な論文を重点的に書かれている方ではないかと思う。こうした分野は、たとえば数理経済学がらくらくと国境や言葉の壁を越えていくように、社会学の中でもグローバルな論文が書きやすく、理系のように客観的な評価もしやすい分野だろう。海外で高く評価されている日本人社会学者と言えば、シカゴ大学教授の山口一男氏の名前が思い浮かぶが、山口氏も細かく言えば人口統計が専門で、数理を駆使するという意味でグローバルな土俵に乗りやすい。だが、そうではない分野は、文化・文脈依存性の問題もあり、英語で明確に表現するのも、またそれを読んで納得させるのも、困難が大きいのではないか。そして客観的な査読も。

哲学や人文社会学系の研究のなかには、査読にはかることが原理的に不可能なんだけれども学問的価値のある仕事が存在する、ということなのだろうか。
仮にそうだとすると、「それをいいことに、学問を装って放言をしまくる不逞な輩はいない、そんな不誠実な奴はいない」ということを、国民のみなさんにご納得頂かないことには、税金を使って研究をしている建前上申し訳が立たない。
ところが、哲学や人文社会学系の研究者のなかには、この不文律を堂々と破っている人が、いるのかいないのかは知らないけれども(笑)、少なくとも、「いるのではないか?」と、人々に疑われている嫌いがあることは事実であろう。


夜郎自大の散文詩 - Anti-Book Reviews(by ikedanobuo)
日本では、学問としての哲学が育たなかったために、文芸評論家や作家と哲学者が未分化で、小林秀雄や亀井勝一郎のような美文家が大思想家と勘違いされるが、学問的な独創性は詩や小説とは違い、考えているだけでは生まれない。

ikedanobuo氏によれば、「学者」と「作家」「評論家」は全然違うものであるはずなのに、日本ではその境目はぼやけがちである、ということのようだ。
すなわちその主張は、学者の仮面をかぶっている作家や評論家がいるということ、それによってカタギの学者が迷惑をこうむることが有り得るということを含意/暗示している。



> 文化・文脈依存性の問題もあり、英語で明確に表現するのも、またそれを読んで納得させるのも、困難が大きいのではないか。そして客観的な査読も。

「高い文化・文脈依存性」は、査読を免除する理由になることができるのだろうか。
なることができるとすればそれはなぜなのだろうか。
こうこうこういう理由で、これらは査読に不向きである。
しかしながら、こうこうこういう理由で、これらは学問的価値のあるものである。
ゆえに、(以下略)・・・というような仕方で、説明する必要があるのではないだろうか。少なくとも、こういうことに関係している当事者諸氏におかれては。
akehyon氏の記述は、取り上げられている見田氏や宮台氏の文献を参照すれば、おのずとなぜなのかは分かるだろうということを示唆しているが、その理由を抽象化して表現することは、不可能なのだろうか。仮に不可能だとして、それで国民は納得するのだろうか。
どうも、このあたりの問題が、きちんと解決されていない気がする。
そのことは、太郎丸博氏のentryが大きな反響を呼んだことと無関係ではないだろう。

取り上げられている見田氏や宮台氏の文献を十分にさらっていない段階で口を開くと的はずれなことを言う可能性があるが、とりあえず思っていることを書く。
個人的には、博物学的研究が学問的価値を帯びるためには、関心の対象となっている現象ないし事物にまつわる記載が、その現象ないし事物が浸っている時代や文化や文脈から十分に分離した表現たりえているかというところに求められるのではないかという気がするのがまず一点。

この分離が十分でなければ、それは、単なる「感想」であるか、ゆくゆくは学問に寄与するかもしれない「知識」(前学問的知識)に過ぎない。

「前学問的知識を記載する仕事」を「学問的な仕事」に計上していいのかどうかは、意見の分かれるところなのではないかと思うが、私は、前学問的であることの確定的な証明がない場合には、やはりそれは学問として数えるべきではないのではないかと思う。もしそれを、学問として数えることを認めてしまえば、ちょっとした散文や感想文のすべてを、学問として認めなければいけないことになるからである。
いま、問題となっているのは、そういう、感想文や芸術的創作としてのすばらしさと、学問としてのすばらしさは慎重に分けて評価されるべきではないのかということであるから、すばらしい感想文集とすばらしい学問的業績とが混同して後世に伝えられることは、歓迎すべきことではないだろう。


エライ先生とは誰か、社会学は守るべきか - akehyon-diary
査読付き論文や著書のない人間が理事になったり学会誌編集委員になったりするのは、論外と言う他ない。だが、理事が「民主的な」投票で決まる場合、そういうことが(まれにだが)起こることもあるのである。理事選挙の投票率は低く(私も投票しないことが多いが・・・)、その無関心のすきをついて、悪だくみをしようとか、仲間を増やそうとする人がつるむと、とんでもない人事が起きる場合があるのだ。

なるほどね。

だとすると、問題の根源は、「学者たちが、理事の選出がとても重大なことであることを十分に認識していないこと」にあることになるよね。つまり、自分たちのせいで、結果的に自分たちの首を絞めることをやっているという。

だから、処方箋は、「これを学者たちが十分に認識すること」以外にはないよね。たぶん。

簡単な話じゃないか。


ある大学院の先輩との雑談で話題となったのだが、どうも東大出で学界に進もうという人間は、傾向として、よく言えばお人好し、悪く言えばうぬぼれていて、学会を戦略的に利用するという発想に乏しく(つまり、頭のいいオレ様の論文が認められないわけがないと心の奥で思っている)、それで東大以外の大学に学界のヘゲモニーを実質的に握られてしまうのではないか、というところに話が行きついた(もちろん私が知るのは関係する学会だけだから、他ではどうか知らない)。

w ありそうな話ですなあww

・・・みんながうぬぼれればいいんじゃないの?(笑)

全員が非戦略的になれば、学界の真の目的が達成されやすくなるわけだし。

全員がちゃんとうぬぼれられるための支援をすることが、長期的には学界を助けるのだということが、論理的に導かれるような気がするのだが。

学界には、学会誌に載せるために戦略的にテーマを選んだり、利用する文献を選んだりする院生・学者が、けっこういるらしい。学問という「真剣な遊び」は、自分の好奇心にのみ基づいて行うのが正しいと思っている人間からすると、とんでもないことだが、おそらく勝ちを収めやすいのは戦略的に考える方だろう。

学会誌に載せるために、学問的な核心の部分を売り渡してしまわないといけないほどに学会誌に媚びないといけないのだとすれば、それは問題だわな。

学会誌が、そういう状況を、すなわち、学問的に優れているかどうかではなく、特定のテーマを取り扱っているかどうかとか、そういうところで、採否の決定をしないといけない理由がもしあるのだとすれば、少なくとも私はその理由をただ一つしか思いつかない。

文科省が研究予算とその分配権を握っているという簡明なる事実である。

結局、諸悪の根源はまたもやここに行き着くのかと思うと、げんなりする。

けれど、中央集権的な体制が生産性が上がるのを制限している事例は、こんにちにおいては、学問以外のところでも多々見受けられる、時代的な現象であるので、文科省だけに文句を言っても仕方ないのかもしれない。結局この問題は、国内の政治体制における権限委譲が、ある程度本格的に、閣議決定レベルで動き出すまでは、どうしようもないことなのかもしれない。
権限委譲と一口に言っても、解決されなければならない問題は山のようにある気がする。その権限とやらを「誰から」渡すのかはだいたい自明だが、「誰に」渡すのかは自明ではない。そして、「誰に渡すのがいいのか」もまた、固有名詞レベルでは自明ではない。
このあたりのことを、自明化するための仕事というのが、まず私たちに宛てられた仕事の一つ、であるような気がする。


太郎丸氏の文章へのもう一つの違和感は、「社会学の危機と希望」という副題だ。私は自分を、広い意味での社会学者の一人だと思っているけれど、社会学を隆盛させようという殊勝な気持ちは持っていない。自分にとってもっとも切実な問題(それは私が社会の一員である以上、社会的なものと結びついている)を問うて行くのが本筋で、結果として社会学が隆盛しようが衰退しようが、それは二次的な問題ではないかとさえ思う。

まったく正論である。

しかし、偉くなればなるほど、そうも言ってられなくなるのではないかという気もまた、する。

ある程度ある分野で偉くなった人が、突然、「俺興味変わったよ。もうこの分野やんないから。んじゃ、あとはよろしく」って言いたい気分になったとして、果たしてそれが言えるだろうか。或いは言うべきだろうか。

このへんですな。


実際的なことを言えば、「偉い人であればあるほど、通常は、そういう気分にはならない」わけでして(なぜなら、自分のアイデンティティとその分野とが分かちがたく結びついていることが多いから)、したがって以上の疑問は杞憂である、と考えられなくもないけれども、だからといって、低い確率で出現する、「そういう気分になっちゃう人」の、学問的誠実さが、周りの人たちの圧倒的な期待ゆえに曲げられてしまうということも、これまた、もしそういうことがあったとすれば、学問的に不幸な事態であると言わざるを得ない。

思うに、そういう「不幸な事態」は、伝統的な文化的特性に鑑みて、諸外国よりも日本でそういうことが起こる確率は高いと思う。

「いやなことでも、周りの人が期待することは、やらなくてはならない」という(ややひん曲がった)倫理が、本国においては極めて強いからである(※1)。

繰り返すように、池田信夫氏は、本国においては学問としての哲学が育たなかったと言っているが、私はその理由は、以上に示すような本国の文化的特性と、無関係ではないように思う。

※1私がここで「ややひん曲がった」という修飾句を付けるのは、この倫理には十分な論理的妥当性がないと思うからである。論理的に言えば、「いやだと感じるおのれの感性よりも、周りの人たちがなんとなく遂行しているその人に抱く期待のほうがつねに正しい」という保証はまったくない。むしろ、期待が害悪であるケースが、害悪であったケースが、本国では「まま」ある気がする。
それでも、本国の人は、なかなかそのことから学ばない、学べない。
「人々の素朴な期待は絶対的な正義である」ということを、なんでかはしらないけれど信じているからだ。


私たちがすべきなのは、真剣に問い、考え、検証することであって、個別の学問分野に忠誠を誓う必要などないのではないか。それは倒錯ではないのか。

繰り返すようだが、至極正論である。まさしくそれは倒錯である。

だが、本国では、なぜだかなぜだか、「人を思いやる」とか、「自分の○○を追求する」とか言ったことよりも、「○○に忠誠を誓う」と言ったことの方が圧倒的に評価されるし、大切なことであると考えられている気風がある。

そういう気風は、私は、古来より連綿と続くものというよりかは、明治のある時期に刷り込まれたものではないかと、なんとなく考えているが、真偽のほどはまだよく分からぬ。

少なくとも、現在の状況を鑑みる限りでは、まずはこの、「忠誠教」「忠誠至上主義」からの離脱が、今後いろいろな問題を解決していくうえでの橋頭堡になるのではないかという気はしている。





追伸:

阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望
from: 匿名希望   2009/04/03 1:07 PM
現在アメリカの大学院の博士課程に留学中のものです、文学分野なので専門は違いますが、学会(誌)などの事情は似ており、深く同感しつつ読ませていただきました。私はアメリカの学会誌に投稿しては拒否されることを繰り返していますが、断るにしても実に丹念に読まれた形跡のあるレヴューが返ってきて、その真摯さに胸を打たれます。また、名のある教授も私が投稿しているのと同じような雑誌にきちんと査読の過程をへて論文を発表しており、その謙虚さにも見習うところが多いです。

翻って、日本の学会の状況は、やはり絶望的だといわなければならないと思います。会員数に対する投稿数の割合が圧倒的に少なく、査読誌といっても半分くらい採用されているようなケースが多いです(アメリカでは、「そこそこ知られた雑誌」に投稿したときに知ったデータでは、採用は10パーセントを切っていました)。学会発表についても同様で、大学院生や非常勤講師の発表が多く、就職活動の一環かとすら思えます。また、学問というより政治の場として学会が機能している場合が多く、エライ先生に対して質問するときは上下関係に気をつけずにはいられません。また、エライ先生からの質問にも正面切った反論が出来ません。しかしこのような空気を読みあいといったことは本当に不毛です。学問的な議論は自由であるべきで、学会を政治の場にしてしまうのは、学者の集合的な責任にほかなりません。

最近、「若い人に発表の場を与える」といった目的で学会が乱立しているのですが、それに苛立ちを覚えずに入られません。「もう若くない人たち」が、論文を投稿し議論を戦わせているような場こそ求められているのではないでしょうか
from:   2009/04/03 11:51 PM
イギリスで社会科学分野でポスドク研究員をしています。読んでて同感しました。
もっとも、外国ではそもそも博士号を持っていない人はアカデミズムの一員としては認められませんが(ごく一部の例外は、あまりに優秀すぎて大学院に行かなかった人)。日本のように博士号を取得していない人間が意見を言うなんてことはありませんし。そういうところから変えていく必要があるでしょうね。
from: YAMAMOMO   2009/04/29 3:07 PM
『ARG』でこのブログを知り、読んでみました。
私のメインの所属学会の一つは、日本語学会です。最近の発表は、大学院生ばかりです。学会というのは、いったい何のためにあるのか、考えてしまいます

この記述が正しいとすると、査読をすることが原理的に不可能な分野が存在する、というようなことではない気もまたするわけだが。
日本固有の学問的事情が存在する、ということなのだろうか。(文化的事情だったら「笑止」の一言で片付けられて終わり、な気もする。少なくとも、諸外国のやり方こそ、学問的に誠実なやり方である、という立場を貫く限りにおいては。)

あと、思ったこと。
若い人に発表を与える、という口上のほんとうの目的は、「オレは、若い奴に発表の機会を与えることができるほどにエラいんだゾ!」という権威づけなんじゃないの?
もしほんとうにそういう乱立の傾向があるのだとすれば。

エラいかどうか、ちゃんと評価されてない奴が、その評価がほしくてこういうことをやって、なんとか既成事実的に、滑り込みセーフ的に、「実はちゃんとした評価がある人間なんだ」という(嘘の)信憑を、若い無知な人間たちに与えることを画策しているのだとすれば、それはもう腐敗としか言いようがないだろう。

もちろん、仮にそういう腐敗している連中がいたとしても、その連中は、「オレ腐敗してまーす」なんて言うわけがないだろう。このあたりから考えていかなくちゃいけない。
人間は痛いところをつかれると、意固地になって否定したがる傾向がある。

ほんとうに日本のそういう学界を救いたいと願うのなら、「お前たち腐敗してる奴はさっさと退場しろ!」と叫ぶことは、火に油を注ぐことでしかなく、問題をややこしくするだけのような気がする。

わたしは、日本固有の文化的特性のなかに、学者が学問的誠実さを追求することをさまたげる要因があると考えている。

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